「お兄ちゃん!」
 公安局に似つかわしくない無邪気な声に、現場から戻ってきた朱は驚きの感情を抱いて振り返る。誰かの身内か、それにしても何故この場に。振り向いた視線の先には、一係にいる人間の誰にも似ていない、黒髪黒目の愛らしい少女がいた。
「お兄ちゃん、おかえりなさい!」
「ああ、ただいま。いい子にしてたか、
 そして朱は目を疑う。狡噛が、あの狡噛慎也が。冷静でぶっきらぼうで、時折適切な助言をくれるものの、事件に対するスタンスの違いから宜野座を苛立たせたり朱を振り回したりする狡噛が。穏やかな笑顔を浮かべて、駆け寄ってきた少女を軽々と抱き上げて視線の高さを合わせた。
「うん、ちゃんと宿題もしたよ! いい子で待ってた」
「そうか、偉いな」
 フッと笑った狡噛が、少女を下ろして頭を撫でる。その光景にぽかんと呆けている茜の様子を見て、征陸と縢が吹き出す。
「まあ、そうだろうな」
「別人みたいだもんなー、コウちゃん」
「えっと、その、彼女は……?」
 少女の狡噛に対する呼称からその答えは既に得ていたが、目の前の光景が信じられない朱は思わず二人を指さしてしまう。過去になく崩れた表情で自分たちを見ている朱に気が付いた狡噛は、少女の頭をぽんぽんと撫でて朱を指さした。
、一係に新しく来た監視官だ」
「お兄ちゃんの新しい上司さんですか?」
 くりくりとした大きな瞳が、朱を捉えてキラキラと輝く。新しい出会いを心底喜ぶ幼子のようなその純粋さは、高校生ほどの年に見える少女には少し不釣り合いなようでいて、しかし違和感は微塵もない。
「狡噛慎也の妹の、狡噛です。よろしくお願いします!」
「常守朱、です。よ、よろしく……」
 習慣で差し出した朱の手を見て嬉しそうに頬を桜色に染めたは、朱の手を両手で握り締めてぶんぶんと上下に振った。その姿は人によく慣れた飼い犬のようで、同じ犬でも猟犬のような獰猛な鋭さを持つ兄とはあまり似ていない。人にじゃれつく仔犬の首を噛んで持ち上げる親犬のように、狡噛がひょいっとを抱き上げた。
は俺と一緒に執行官エリアに住んでる。此処にもよく顔を出すが、暇な時は構ってやってくれ」
「は、はい」
「じゃあ、俺たちは帰る」
「おやすみなさいー!」
 狡噛に抱えられたまま手を振るに、一係の面々はそれぞれに挨拶を返す。呆気にとられていた朱も、一拍遅れて手を振り返したのだった。

 狡噛は、ただの一度もその色相を濁らせたことがない。生まれた時から今日この日まで、彼女の色相はピュアホワイトだ。潜在犯などという呼称からは程遠い純白の少女が、何故兄妹と言えど執行官である狡噛と同居しているのか。それは、彼女が兄にヒーリング効果を齎していることが大きい。執行官落ちするほどに濁ってしまった狡噛の色相は、と一緒にいるだけで緩やかではあるが澄んでいく。このままのペースであればそう遠くない日に狡噛の犯罪係数は規定値を下回るだろうと、いわばそれは一度執行官落ちした人間が監視官に戻れるのかという実験的な意味合いもあった。
しかしそんな上層部の思惑などどうでも良く、狡噛は妹と一緒に暮らせていることが幸せで。過去の色相の推移の記録からの狡噛に対するヒーリング効果を見出し、遠い全寮制の学校からを狡噛の元へと連れ戻したシビュラシステムに、狡噛はその点に関しては感謝の念を抱いてやってもいいとすら思っていた。家に帰れば可愛い妹がいる。自由などない猟犬でも、がいるだけで不自由さは意味をなくす。監視官になった日に格好いいと笑ってくれた妹は、執行官に落ちたことを知った日にも今日から一緒に暮らせることを喜んでくれたから。だから、それでよかった。狡噛に幸福が許されるとしたら、その在り処はしかない。狡噛が槙島に対して執念を燃やしていながらもまだ人の形を保っていられるのは、自分が妹を守らなければならないという使命感があるからだった。
「お兄ちゃん、見て、クッキー作ったんだよ」
「旨そうだな。縢に教わったのか?」
「うん! できるまで一緒に作ってくれたの」
 今度縢に礼を言っておかなければと思いつつ、狡噛はが皿に山盛りにしたクッキーを摘む。別段甘い物が好きというわけでもないが、妹の作った手料理なら何でも狡噛の好物だ。今時珍しく小麦粉や砂糖を使って人の手によって作られたそれは、優しい味がした。狡噛の主観によるフィルターだと言われても、それでいい。正誤も真偽も虚飾に彩られたこの世界で、妹の温もりは確かな真実だと断言できる。
、ほら」
 お前も食えと差し出したクッキーを、ぱくりと食んで幸せそうに頬を緩める。今この瞬間に限って言えば、狡噛の色相は限りなく澄んだ色に近づいていたのだった。
 
161022
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