小田切は、この店を訪れる彼らの同期の中で最もここを訪れる回数が少ない。そして、ここに来る時はいつもむっつりとどこか不機嫌そうに黙り込んでいる。客の話や愚痴を聞くのもバーテンダーの職務のひとつであると思っているは、客の雰囲気によってはさりげなく不機嫌の種を引き出すように話を振る。けれど小田切がいつも最初に頼むカクテルは、そうした干渉を完全に拒否していた。
――できない相談。
ブルームーンは、聞いてくれるなという小田切の意思表示なのだそうだ。だからは、要らぬ世話を焼くことはない。話したければ話し、話したくなければ話さない。それはこの場における客の自由だ。ただ黙々と、夜とアルコールに身を沈める。は夜の過ごし方に、自分から干渉することはなかった。
『――初恋を、覚えているか』
だからそんな小田切が発した言葉に――正確には言葉ではなく、端末に示された文字だが、は少なからず驚いたものだ。それを表には出さずに、は脳裏で初恋、という言葉を繰り返す。
の初恋。確かに覚えている。レモンの味かパイナップルの味かは知らないが、鮮明に覚えていた。
「ええ、覚えております」
静かに頷くからは目を逸らしたまま、小田切はグラスの中身を煽る。やや言いにくそうに、コツコツとグラスを持った手の中指で弾きながら問いを重ねた。
『それは、特別な思い出か。時に拠り所とすることは、あるのか』
「……ええ。とても大切な、思い出です」
幼い、あどけない恋の真似事だった。今となっては、笑い話にできるほどの。それでもは、それが自分の初恋だと思っている。切れ長の目。理知的で端正な顔。怜悧で掴みどころのない空気を纏い、そのくせ奇妙なところで優しかった人。年の差を考えれば笑ってしまうような大人への憧憬。それでもは、それを大切にしていた。
『それを、馬鹿にされたらどうする? 価値のないものと、断じられたら』
「どうも、しないですね」
『何?』
「子供の頃集めたビー玉や石ころ、お気に入りだったポーチ、秘密基地。誰にとって価値がなくとも、私の中にある優しい記憶です。初恋も、同じです。元より他の誰かにとって、価値があるものとは思っておりません。だから私が、大切にするんです」
子供の頃に集めたキラキラとしたシールを、大人になった今友達に見せびらかしたりはしない。自分だけが見て楽しく、懐かしく、切なく、愛おしい。それでいい。それがいい。貶されても、無価値だと言われてもいいのだ。元よりそれに価値を見出すのは、自分だけなのだから。自分がそれを貶めなければ、それでいい。自分がそれを美しいものだと思っていられるのなら、きっとそれでいい。
『……そうか』
小田切は、カウンターに置いたグラスの水面を静かに見下ろす。そこに映っている端正な顔ではなく、その向こうに自分だけの大切な面影を見ているのだろう。
小田切がのバーに来るとき、彼は大抵いつもひとりだ。同期と連れ立ってやって来ることはほとんどなく、その独特なコミュニケーション手段を除いても、彼は何かしら同期たちと自分の間に線を引いているような印象を受ける。その境界線は、常に強固な壁となって小田切を取り巻いている。けれど今夜の小田切は、何だか少し無防備であるように思えた。
「……ここの、酒だけが好きだったが」
突然の肉声に、はぱちりと目を瞬く。それが目の前の小田切から発せられた声だと気付き、は思わず目の前の青年を凝視した。初めて聞く声は、独特の落ち着いた静けさを纏っていた。
「今は、ここの全てを好ましいと思う。マスター、貴方も含めて」
「……! ありがとう、ございます、」
思いがけぬ称賛に、は磨いていたグラスを取り落としそうになる。酒を気に入ってもらえることはバーテンダーとしての誉れで、店を気に入ってもらえることはマスターとしての誉れだ。小田切はそれきり何も言わずグラスを黙々と空け続けたが、は始終崩れそうになる表情筋を抑えるのに必死だった。
誰かにとって、その人だけにとっての価値を持つバーにしたい。ささやかなようで傲慢な程に贅沢な、の目標だった。そんなにとって、小田切の言葉は飛び上がりそうなほど嬉しくて。
「…………」
静かに、夜は更けていく。弾む胸と高鳴る鼓動が夜に溶け出しそうで、は黙々とグラスを磨き続ける。そんなの浮かれた内心を見透かしたかのように、小田切が静かに笑った気がした。
170615