落ちていた。それはもう、ボロ雑巾のように。
「……こりゃまた、珍しい」
 深い山の中、巨大な熊と相討ちになって転がる生き物。血塗れで土まみれで、今にも死んでしまいそうなほどボロボロになっている。腹が裂かれ、内臓やらが引きずり出されてもなお『それ』が生きている理由は、リョウエからすれば一目瞭然だった。
「ガキの鬼なんざ、見るのは初めてだな」
 こひゅ、と危うい呼吸音を立てる喉を、しゃがみ込んでそっと撫でる。常人ならばとうに死んでいるはずの傷。けれどこれを放っておいたとしても、いずれは這いずってでも動き出すとリョウエは知っていた。何故ならこれは鬼だ。人よりも遥かに頑丈で不老長寿で、人を食らって生きる化け物。額の左側から生えた黒い角と、薄く開いた瞼の下にある白目が黒く染まった瞳、金の虹彩。そして右の頬に浮かぶ、独特の曲線を描く黒の紋様、口元に覗く牙。その子供はリョウエノカミと名乗って生きる鬼の、同族だった。
「まあ、赤子の鬼もいたって話だしなあ」
 珍しいが、ありえないことではない。リョウエの声に僅かに反応を示した子供――見てくれからすれば年の頃は七つかそこら、とはいえ鬼の年齢に見た目などあてにはならないが――その子供は、自らの吐いた血に濡れた唇を僅かに動かした。
「…………、っ……?」
「おっと、そうだな。手当でもしてやるか」
 鬼の社会から外れて生きるはぐれ者とはいえ、深手を負った同族を放っておくというのも寝覚めが悪い。何よりリョウエは決して薄情ではない。動けない同胞を介抱するくらいの慈悲の心はあるのだ。せめて動けるようになるまでの世話はしてやろうと、リョウエは幼子を無造作に抱き上げたのだった。

「……とはいえ、なあ」
 とりあえずはみ出した内蔵やら骨やらを適当に戻してやったはいいが、あくまでそれは応急処置に過ぎない。鬼である以上人間を食べればこの程度の傷はすぐ治るだろうが、この子鬼の鬼としての名が判らない以上、食べる部位も判らない。よく眠っているところを起こすのは多少気が引けるが致し方あるまいと、リョウエは膝に寝かせた幼子を揺り起こした。
「おい、起きれるか」
「……?」
 ぽやっとした顔で目を開ける子供の顔色は、青いままだ。とりあえず水でも含ませてやるかと水瓶の方を向いたリョウエを、どんっと衝撃が襲った。
「ッ、おい!」
「……やだっ! いや、おこらないで……ッ!!」
 見た目は子供とはいえ、膂力は人間とは比較にもならない。全力で突き飛ばされたリョウエは体勢を直しながら子供に呼びかけるが、大粒の涙をこぼす見開かれた瞳の、煌々と輝く金色に思わず息を呑んだ。黒の中に浮かび上がる金色には、歪ながらも確かな平穏の中にある実羽馬では見ることのない、絶望と悲嘆の色が色濃く浮かんでいて。
「お前……」
「ごめんなさい、ごめんなさい、たべちゃった、おかあさん、やだ、ゆるして……!!」
 自分を守るように頭を抱えた子どもに伸ばした手は、バシッと音を立てて弾かれる。適当に巻いた包帯に血が滲んで、けれど子供は痛みなど自覚していないのか半狂乱でリョウエから逃げようとする。子供が泣き喚きながら零した言葉から大体の経緯を察したリョウエは、子供を床に叩き伏せて強引に抑え込んだ。
「あ……ッ!?」
「落ち着け、ここにお前の母はいない」
「……!!」
「食っちまったんだろ、いないんだ。どんなに泣いたって、もうどこにもいねえ。謝る相手なんざ、いねぇんだ」
「う、あ……!」
 狂気の静まった大きな瞳から、ぽろりと涙がこぼれ落ちる。現実に引き戻されてしまった幼子は、静かにしゃくり上げて泣き出した。硬い床に押し付けていた体を抱き起こしてやって、そっと腕の中に抱え込む。リョウエが鬼になったとき、殺してしまったのは親方と兄弟子たちだった。この子どもが殺してしまったのは、自らの産みの母。神も仏もありゃしねえ、そうリョウエは呟いた。
 
171029
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