子供の名前は、と言った。母親の骨を噛み砕いて食べたという話からして、おそらく鬼としての名前は骨喰み。鬼になったのは、つい先日の話であるらしい。
曰く、洗濯女である母親について川の回りで遊んでいた。水切りをするのに手頃な石を探していると、ふと目の前に気色の悪い女がいて。血の匂いに驚いて泣き出したの元へと、何事かと母親がやって来た。けれど母親の表情は、我が子を見て一変して。ぐらりと世界が揺れ、気付けばの目の前には無惨な死体が転がっていた。そして溢れ出す本能の衝動のままに、その体を貪り食って。肉を削ぎ、現れた白い骨をばりばりと噛み砕いた。自分の歯が恐ろしいほどに鋭く尖っているのがわかった。優しく自分を包んでくれていた母親の肉をこそげ落とし、その骨を食んだ。腹が満たされたときには、母親の亡骸などどこにもなかった。河原に残されたのは血の海と、食べることのできなかった肉片だけだった。一欠片も残さずに骨は食べた。そして、水面に映る自分の姿に、自分が人ではないバケモノになってしまったことを知って。べっとりと体中についた血が、誰のものか思い出して。そこからのことはよく覚えていない。気付けば深い山の中にいて、血の匂いにつられた熊がいて。襲い掛かってきた熊に向かって反射的に腕を振り回せば、その片目を潰してしまった。怒り狂った熊に腹を裂かれても、痛いばかりで生きていて。急に何もかもが恐ろしくなって、その後は。
「熊を殺して、ぶっ倒れて、己に拾われたってわけか」
ぐす、と鼻を啜ったが、小さく頷いた。ひとまず包帯は巻き直してやったが、早くも赤い色が滲んでいる。骨を食べさせるのが手っ取り早いが、生憎リョウエは血を喰らう鬼だ。溜め込んでいるのも血ばかりで、骨など無い。次の山巡りが近くはあるが、あれは村人を完全な木乃伊にして返さないと意味がない。骨だけ抜くというわけにもいかない。けれどこんな時に都合良く山への侵入者が現れもしない。あまりやりたくはないが、とリョウエは自らの手を見下ろした。
「……小指でいいか。己の食い物ならあるしな」
「?」
不思議そうに首を傾げたの目の前で、リョウエはぶちりと自らの左手の小指をちぎり取った。
「っ、」
「……!!?」
左手は即座に再生させて、ちぎった指から骨を抜く。それをの目の前に差し出すと、は真っ青になって赤く濡れた白い骨とリョウエの顔を何度も見比べた。
「え、あ……」
「食え。同族食いは不味いらしいが、無いよりはマシだろ。食って、その腹の傷を何とかしろ」
「あ……ありがと、う……」
おそるおそる、はリョウエから骨を受け取る。両手で大事そうに小さな骨を握り締めると、あむ、と口に入れて食んだ。木の実を齧る小動物のようだとリョウエは思うが、人間からみればこれはそのような可愛らしいものではなく、悍ましい怪物の所業なのだろう。けれどリョウエは鬼だ。自らも血を啜る怪物であるのに、生きるために喰らう幼子を悍ましく思うわけもなかった。リョウエの小指の骨をぽりぽりと齧っていくの顔に、次第に血色が戻っていく。そして、その大きな目からポロポロと涙が溢れ出した。
「ぅ……グスッ、」
「……どっか痛てぇか」
「う、ううん、いたくな、い……いたいけど、いたくない……」
泣きながら、それでも骨を食むをリョウエは黙って見守った。自分がいよいよ怪物であるのだと、そう自覚するのは幼子にとって如何に酷なことであろうか。
「……ふぇ、うぅ……ッ、」
「…………」
「わたし、おに……? ひとと、ちがう……?」
「……あぁ。お前は鬼だ、もう人じゃない」
「たべないと、生きられない……?」
「そうだ。人を喰わないと、生きていけないバケモノだ」
ごくりと、小さな喉が砕いた骨を飲み下した。とめどなく涙を流す瞳が潤んで、夜空に溶ける月のようだった。目の前にいる子どもは頼るものがない小さな生きもの、それも同族だ。リョウエは、ガリガリと頭を掻きながら深く息を吐いた。
「……己と同じ、鬼だ。骨喰みの小鬼、と言ったな」
「う……?」
「選べ、これからどうするか。化け物としての自分を受け入れて生きるか、人の自分に縋って死ぬか」
望んで、鬼になったわけではない。この子どもはずっと、愛する母を喰らった罪に苛まれて生きていくことになる。おまけに鬼は百年やそこらでは見た目も殆ど変わらない。子どもの形のままで永い時を生きるのは、決して楽なものではないだろう。人のまま死にたいと言うのなら、このまま死なせてやるのも慈悲だ。何しろ鬼が人を食わずに生きるというのは、ほぼ不可能と言ってもいいほどの無理難題だからだ。ぐっと唇を噛み締めて押し黙る小鬼を、リョウエは頬杖をついて見守る。ぷつりと切れた唇から滴った血が、やけに綺麗なものに思えた。
「……、い」
「うん?」
「しぬ、はいや……生き、たい……」
幼いが初めて知った死は、母親のものだった。それも、他でもない自分が殺してしまった。この手にこびりつく死の色は、あまりに恐ろしくて。怖かった。ただ、死が怖かった。幼いが生にしがみつく理由など、それだけで十分だった。
「……そうか」
幾分か血色の良くなった頬を、そっと撫でる。夜木ほどではないが、リョウエとてはぐれ者の変わり者なのだ。これくらいの気まぐれは許されるだろうと、リョウエは幼子を手元に置くことにしたのだった。
171029