「りょーえ、りょーえ、あさ、おきる?」
 その日リョウエは、珍しくに起こされて目が覚めた。目を擦りながら粗末な寝床で身を起こしたリョウエは、ぼうっとしながらガリガリと頭をかいた。雑に目元を拭うリョウエの顔に、躊躇いがちに冷たく濡れた布が触れる。少し驚いて固まったリョウエの目元を、おそるおそるといった手付きでが拭いていた。頬や顎のふちも甲斐甲斐しく拭いていく幼子に呆気に取られて、リョウエはされるがままになる。今まで起きたら適当に川の水で顔を洗っていたリョウエにとって、丁寧に濡らした布で顔を拭われるなど、ほとんど初めてのことだった。
「……? リョウエ、つの、ない?」
「ああ、角か? 寝るときは邪魔だから、人間の姿に化けてんだ」
 ぺちぺちと探るように額に手を当てるの不思議そうな顔が面白くて、リョウエは鬼の姿に戻る。にゅっと生えた角に驚愕して、尻尾を踏まれた仔猫のように飛び上がったにリョウエは思わず吹き出した。
「お前だってできるぞ、こんくれぇのことは」
「わたしも、つのしまう?」
「邪魔ならしまえばいいさ。まあ、急いで覚える必要も無いけどよ」
 どうせ深い山の中だ。人に紛れて暮らす鬼ならともかく、にもリョウエにも人に化ける必要がさほど無い。けれどは目をキラキラとさせてがんばる、と意気込む様子を見せる。まあ気長に頑張れや、とリョウエはの頭を撫でた。
それにしても、とリョウエは撫でられて気持ち良さそうに目を細めるを見下ろす。昨日まであれだけ悪夢に魘され、リョウエに揺すられて心底安堵したように飛び起きていたが、今日はいったいどうしたというのか。それも、ご丁寧にリョウエの目覚めの世話を焼く余裕まであるとは。ぱたぱたと寝床の始末をし始めたに、訝しむような視線を向けるも変化のきっかけなどわからない。元気が出たのなら何よりだ、と思いながらも、どこか嫌な予感が拭えなかった。

「……おい、
「?」
 着物の袖を襷で留め、リョウエの替えの着物を抱えたを見て思わずリョウエは小さな体を抱き上げた。の行動はあまりに自然でリョウエも思わず見逃しそうになったが、昨日までのはどこまでもただの幼子だったのだ。リョウエの後を引っ付いて歩き、色んなものに怯えながらも子どもらしい好奇心で見えるもの全てに手を伸ばして。それでも片手は常にリョウエの着物やら掌やらを握っていた。鬼になったことを恐れ、母を殺したことを恐れる子どもだった。
それが今日は、どこからどう見てもおかしいのだ。リョウエから片時も離れなかった幼子がリョウエの元を離れて掃除やら洗濯やら、リョウエの身の回りの世話を焼く行動はまるで幼妻のそれだ。もっと言うなら、母親とでも言うべきか。リョウエは思わず、ぱたぱたと働くの動きを止めてしまっていた。
「……、あのな」
 顔を拭った拙い手つき。歪に畳まれた寝具。手際の悪い掃除。下手くそな襷の結び方。きっと洗濯だって、まともにしたことがないのだろう。けれどはまるでそれが自分の習慣であるかのように自然な顔をして動く。あまりにも当然のような顔をしてするものだから、歪な出来栄えがなおのことちぐはぐだった。
「お前、自分の名前言ってみろ」
「?」
「いいから、言ってみろ」
「……×××?」
 が発した音は、知らぬ女の名前だった。リョウエは、思わず額を押さえる。それはきっとの母親の名前なのだろう。つまるところ、は心を壊してしまったのだ。母親がこの世からいなくなった現実に耐えきれず、自分に母親を上書きすることで心を守ろうとした。だが、そうなればはどこに行ってしまうのか。あの寂しがりで怖がりな小鬼は、消えてしまうつもりなのか。妙な苛立ちに似た感情さえ覚えて、リョウエはの瞳から目を逸らすことなく真っ直ぐに覗き込んだ。

「…………」
「まだボケるにゃちょっとばかし早ぇぞ、
「…………」
 リョウエの言葉に反応を示さないは、硝子玉のような瞳でリョウエの姿を映していた。その瞳に光はなく、を呼ぶリョウエの言葉に心を閉ざしてしまっている。小さく舌打ちをしたリョウエは、の口元に自らの手を押し当てた。それでも何の反応も見せないの目の前で、一度手をの口から離して自らの口元へと持っていく。ゴリっと嫌な音を立てて、リョウエは自らの小指を噛みちぎった。溢れ出した血の匂いに、の瞼がぴくりと動く。リョウエがちぎった指を再びの口に押し付けると、怯えるようにが後ずさる。その後頭部を押さえつけて、親指で小さな口をこじ開ける。自らの指を、リョウエは幼い口の中に押し込んだ。
「ほら、わかるか。お前の喰らう骨の味だ」
 ぼろぼろと、の瞳から涙が溢れ出す。鋭い牙が、リョウエの指を食んだ。ごきっ、ぼり、と悍ましい音を立て、小さな口がリョウエの指を咀嚼していく。
「可哀想にな、。でもな、逃げられねえんだ。一度鬼になっちまったら、二度と元には戻れねえ」
 哀れだと言いながらも、リョウエは続けて薬指を噛みちぎる。そして、それもに無理矢理に食べさせた。泣きながらリョウエの指を喰らうに、心壊による逃避を許さず現実を思い知らせる。我ながら酷い鬼だと、リョウエは笑った。
「美味いか、
「……うん」
 こくんと、小さく頷く幼子。その瞳には、感情が戻っていた。リョウエの骨を食んで、はぽろぽろと泣いた。その涙を掬って、リョウエは笑う。
「そういや、血と涙は同じものなんだってな」
 涙は美味いのかねぇ、そう呟いてリョウエはの涙に濡れた指を口に含む。けれど大した量でもないそれを舐めて「よくわかんねぇな」と零したリョウエは、の目元に口を寄せた。眼前に迫る鋭い牙を、呆然とは見つめる。
「安心しな、目玉は食ったりしねぇよ」
 べろりと伸びた舌が、の大きな瞳から溢れた涙を舐め取る。悪かねぇな、と言うリョウエに、自分もリョウエもやはり鬼なのだと幼心に刻み込まれて。それでも母の影を追いたい気持ちから、は不器用に結ばれた襷をぎゅっと握り締めるのだった。
 
171123
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