「お嬢ちゃん、実羽馬村の子かい?」
 リョウエのものではない声に、は地面に落書きをしていた手を止めて振り返る。そこにいたのは、には見慣れない洋風の格好をした中肉中背の男だった。きらきらと光る釦や腕時計が目を惹くが、男が手に持った筒のようなものには好奇心の目を向けた。重そうな鉄の棒にも見えるが、持ち手が奇妙に曲がっている。杖が必要そうにも見えない男に、はこてんと首を傾げた。「あれはなに?」とリョウエに聞きたかったが、生憎リョウエは先ほど「きな臭い」とか何とか眉を顰め、に大人しく社で待っていろと言いつけてどこかに行ってしまった。反応の鈍いを見て、男は目の前の子供を知恵遅れか何かだと一人で合点する。ずいっとに顔を近づけるようにしゃがみこんで、再び口を開いた。
「お嬢ちゃんは、実羽馬村の子どもかい? この山はこの時期出入りが禁じられていると聞いたけど、こっそり遊びに来たのかな?」
「みはま……」
 男の言う「実羽馬」が麓の村の名前であることを理解するのに、は多少の時間を要した。そういえばリョウエがあの村のことを実羽馬と呼んでいた気がする、その程度の認識だった。にとって大事なのは「村に近付くな、手を出すな」というリョウエの言いつけであり、村の名前そのものではない。『山巡り』の間は出入りが禁じられているというのも、どのみちリョウエの言いつけを守るために人との接触を避けているには関わりのない話だった。
「まあ、実のところ僕もその禁を破っているのだがね? 頭の固い村人たちに止められたから、諦めたふりをして山に忍び込んだだけさ。運良くこうして社とやらに先回りできたから、リョウエノカミ様なんかいないのだと種明かししてやりたくてね。こうして子どもが遊び場にしているくらいだ、やっぱり迷信なんだろうね。まさかお嬢ちゃんが、リョウエノカミ様ってことは無いだろうし、ね?」
 目の前の男は、ぺらぺらと勝手に聞いてもいないことばかり話す。は男の話を半ば聞き流していたが、リョウエの存在を否定する男の言葉を訂正すべく口を開こうとする。けれどもの言いたげなの視線をどう勘違いしたのか、男は手に持った鉄の棒をの目の前に見せつけるようにして「これかい?」と鼻の穴を膨らませた。
「これは銃って言って、どんなものだろうがズドンとぶち抜く武器さ。熊や猪だって目じゃない、リョウエノカミ様だって店じまいだよ。この銃は最近出たばかりの最新型でね、何、値は張ったがなかなかの代物だよ。職人に細工を頼んだ一品ものでね」
 よほど銃のことを自慢したかったらしい男は、最早の反応など気にかけることもなく格好つけて銃を構えてみせたりする。銃への興味が失せたが落書きに戻ろうとすると、ふと思い出したように男は振り向いた。
「そうそう、君、この近辺で怪しいものを見なかったかい? 僕はどうにも、神様の伝説をいいことに山を住処にしている賊でもいるのではないかと睨んでいてね。この山にはきっと大物の鹿やらがいるに違いないから狩場にさせてくれと言っても、『リョウエ様がお怒りになるから』とかで話にならないんだ。村人たちに現実を教えてあげようと思うのだがね、やはり物的証拠というものは必要だろう?」
 男の言葉に、は眉を下げる。男の言うことの半分も理解できないが、リョウエは『いる』し、村人たちの言うとおりリョウエは無断で山に入った者を許さないだろう。実際に目にしたことこそないが、まさに神のようなリョウエの残忍な一面はも本能で感じ取っていた。追い返したほうがいいのだろうか、とは悩んで眉を下げる。けれどの返事を元より期待していない男がずんずんと社に近づいていくのを見て、は慌てて男の服の裾を引っ張った。
「おっ、と!?」
 つんのめった男は、予想以上に強い力で止められたことに内心冷や汗を浮かべながらも苦笑を浮かべて振り返る。子どもは手加減ができないからな、と思いつつを窘めようとした。
「こら、君、破れたりしたらいけないだろう? この外套は仏蘭西からの輸入品でね、君なんかにはとても弁償……」
「はいる、だめ。りょーえ、おこる」
「だからね、君……リョウエノカミなどいないのだと……」
「かってはいる、りょーえ、だめっていった。りょーえおこる、たべられる」
「食べられる……?」
 いやに真剣な幼子の眼差しに、男は怪訝そうにしつつも不気味さを感じて動きを止める。けれど、自らの行動を顧みるには少し遅すぎた。
「おう、こんなところにいやがったか」
 愉しげな声に男が振り向くよりも早く、鋭い爪が男の首筋を掻き切っていた。背後に立つ鬼を認識することもなく、男は絶命する。吹き出た血がの頬と言わず髪と言わず濡らしたが、は死体になった男が落とした銃の方に目を向けていた。きらきらと光る精緻な鉄の細工にそっと手を触れてみるが、手についていた血が鉄色を赤く汚してしまう。拭おうと手に力を込めれば、硬いはずの金属はぐにゃりと歪んでしまった。曲がったそれに慌てて逆方向の力を加えれば、無理な負荷に耐え切れずバキンと細工は割れてしまう。その後もああだこうだと銃を弄り回しただったが、一層無惨にひしゃげてしまうばかりのそれを見下ろしてしょんぼりと肩を落とす。バラした男の腕から血を飲んでいたリョウエは、まだまだ力加減が下手だなと言って笑った。
「それより、どこも怪我とかはしてねぇな? お前が拐かされそうになってんのかと思ったぞ」
「かど、わか?」
「あーっと、騙されて連れて行かれるってことだ」
「ちがう、、このひととめた」
 ちゃんと言いつけ通りリョウエを待っていたは、ぷうっと頬を膨らませて男を指した。
「やしろはいる、だめっていった。かってはいる、りょーえおこる、だめって」
「お、そうなのか? そりゃ悪かったな」
「たべられる、いったよ? りょーえ、おこるって」
「……お前ぇの中の己はどんだけ怒りっぽいんだ」
 懸命に主張するに脱力したリョウエだったが、実際山に侵入した余所者は皆殺しにしているのだから反論のしようもない。今もまさに殺した男の血を食らっているのだから尚更だ。禁を犯した者に報いを与えることを『怒る』とが認識している以上、その言い草も仕方のないことであった。
ふと、リョウエはがじっと自分の手元を見つめていることに気が付く。リョウエが手にしている男の腕の骨を見つめているのだとすぐに察して、リョウエは木乃伊になった男の腕を地面に落として踏み砕いた。つられて視線を地面に落とすの額を、軽く指で弾く。
「こら、こんなもん食いたがるな。腹ぁ壊すぞ」
「でも、りょーえたべてる……」
「己はいいんだよ、大人だからな」
 残念そうに腕の残骸を見下ろすの口元に、リョウエは自分の左手を差し出す。小指だけな、と言って聞かせると、は素直に頷いてリョウエの指をはむ、と口に含んだ。
「……っ、」
 小さくも鋭い牙が、皮膚を突き破り肉を裂く。本能的な欲求に忠実に歯を立てたは、躊躇いなくリョウエの指先を噛みちぎった。人間よりよほど丈夫とはいえ鬼とて痛みは感じる。とはいえ耐えられる痛みの範疇だ。リョウエがあらかじめちぎって渡さずとも小指までと言われたら食欲をきちんと抑えられるようになったを、リョウエは褒めるように撫で回した。遠回りをしつつも、この小鬼もしっかりと成長している。ばりばりと音を立てて、小さな口がリョウエの指の骨を砕く。骨髄すらもしっかりと飲み下すが健気に見える自分はやはり鬼なのだろうと、リョウエは思った。
何故男の骨を喰らうことを止めたのか、自分でもよくわからない。満腹にさせてやれば数日は楽だというのは解っているし、現に自分自身が殺した男の血で腹を満たしている。噂でしか聞いたことはないが同族喰らいは酷い味だそうだ。はリョウエに養われている身だからか文句一つ言ったこともないが、特段男の骨を食べることを止める理由もないはずだった。何となくそれを避けた理由は、リョウエ自身にもわからない。わからないが、リョウエの手を小さな指でしっかりと握りしめてリョウエの骨を食むを、可愛いと思う気持ちは確かに自覚していたのだった。
 
171129
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