「おおきい、ね……ふぁふにーる……」
「ええ……とても恐ろしい怪物なのです」
イザベラに手を繋がれてやって来た慟哭の谷で、は初めて目にする真龍ファフニールを前にぎゅっと胸元で拳を握り締めた。宥めるように、イザベラがの頭を優しく撫でる。ランスロットはたまにを撫でてくれたが、の髪を乱さないように気を遣いすぎてカチコチだったことを思い出す。いつも傍にいてくれた騎士の姿を思い出せば、巨大な竜が目の前にいる恐怖も少し和らぐ。イザベラに優しく促されて、はそっとイザベラから離れて前に進み出た。
「ふぁふにーるの、おなかにさわる、んだよね?」
「ええ、私が術をかけますから、様は心を穏やかになさっていてください」
イザベラが封印の術をかけ直す手伝いをすると聞いていたは、事前に言われていた手筈のとおりファフニールの腹に手を当てる。ひんやりとした鱗の奥に熱く巡る血の温度があって、はびくりと肩を震わせた。
「ねえいざべら、このあとは――」
どうすればいいのか、そう問いかけようとした言葉は紡がれることはなかった。イザベラの術が狙った先は、ファフニールではなくだった。一瞬で意識を失ったの小さな体は、どさりとその場に崩れ落ちる。深い昏睡状態に落とされたが確かに眠っているのを軽く揺さぶって確認すると、イザベラは口の端を歪めて笑った。
「お許しください、様……これもフェードラッヘのためなのです」
言葉こそ許しを乞うものであるものの、その声には隠しきれない愉悦が滲んでいて。イザベラに呼ばれて物陰から現れたシルフは、倒れるを見てぽつりと呟いた。
「良いのか」
「ええ……シルフ様。さあ、後はあなたのお力で」
いくつかに術をかけたイザベラは、シルフに力の行使を促す。幾許か躊躇う様子を見せたが、その根幹はイザベラに従順なシルフはそっと杯を翳す。すまない、と呟いたシルフの力で、を覆う球状の結界が作られた。
任務の休憩中に見つけた木苺の茂みに、ランスロットは頬を緩める。ひとつ摘んで口元に運べば、隣にいたパーシヴァルが意外そうに目を細めた。
「お前、そんなに木苺が好きだったか」
「……ああ、いや、なんと言うか」
「?」
「少し、懐かしくなったんだ。様のことを思い出して」
「ああ……もう五年になるのか」
が慟哭の谷に赴いてから、長い年月が経った。ランスロットは黒竜騎士団の副団長として、同じく副団長であるパーシヴァルと共にジークフリートの支えとなれるよう日々努力している。あれからは一度も王都へ戻ってこなかったが、イザベラとシルフによると息災であるらしい。が封印を守ってくれているおかげでこの国の安寧は保たれているのだ。目覚めようとしたファフニールを再び眠りに就かせ、それからずっと封印を守り続けている優しい王女に民は皆感謝していた。
「せめて、一度だけでも会いに行けたらいいんだけどな」
「様のいらっしゃるところは安全のために秘されているのだろう。仕方がないことだ」
「ああ、そうだな……」
が慟哭の谷のどこにいるのかは、極一部のものしか知らない。何度か霊薬作りの護衛として慟哭の谷を訪れたランスロットたちだったが、に会えることはなかった。慟哭の谷へ行くたびに、手紙と花を残した。時には木苺も持って行った。厨房勤めのマーサに頼んで、日持ちのする菓子を持って行ったこともあった。高齢のために暇乞いをすることになったマーサは、「最後に様の『おいしい!』って言ってくださる声を聞きたかったんだけどね」と寂しげに笑って城を去っていった。は孤独と危険の中で、ファフニールの封印を守り続けている。ならば自分もが帰る日までに騎士として自分を磨かなければ、とランスロットは決意を新たにしていた。
「それにしても……様はいつお戻りになるのだろうな」
「ファフニールが目覚める危険があるうちは戻れない、との話だった。元より様は、ある程度のお年になったら慟哭の谷へ赴く予定だったんだ。それが何年か、早まったんだが……」
「そうか……子どもの数年は早い。次に会ったときには、お前の想像もつかないほど成長されているだろうな」
「ああ、きっととてもお美しくなっているに違いない」
「…………」
「どうした? パーシヴァル」
「いや……お前はそういうやつだったな」
呆れたふうに首を振るパーシヴァルに、ランスロットはきょとんと目を瞬く。と一緒にいた時間よりも、離れてからの方が長くなってしまった。けれど遠い空の下できっとも笑っているだろうと、騎士の誓いを捧げた主を想うランスロットの表情は明るかった。
夢を見ている。それは真龍と呼ばれた怪物の夢だった。ファフニールの吐き出す炎に、鋭利な爪や牙に、怯えるちっぽけな生き物。本能のままに、ファフニールは彼らを蹂躙した。彼らの住処を焼き払い、鱗のひとつも持たない脆弱な体を引き裂いた。竜として生きているだけのファフニールは、いつしか悪しきものと呼ばれていた。
そのうちに彼らは、武器を持ってファフニールに立ち向かいはじめた。ファフニールの爪と比べれば、あまりにもちゃちな玩具のような武器だった。ファフニールの強固な鱗はその尽くを弾いたが、薙ぎ倒してもなお立ち向かってくるその弱い生き物はとても煩わしかった。だからファフニールは、彼らを燃やし尽くした。
そしてファフニールは、人間に追われるようになった。もっとも彼らは弱く、ファフニールは強い。尾のひと薙ぎ、爪のひと振り、羽ばたきのひとつでも彼らは容易に死んでいく。ファフニールは躊躇いなく力を奮い、多くの命を奪った。時折彼らの武器がファフニールを傷つけることはあったが、真龍はそれを遥かに上回る報復を行った。燃えろ。全て燃えるがいい。善悪や正誤はそこにはなく、ただ命の奪い合いと生存競争がそこにはあった。
あるとき、ひとりの男がやって来た。黒い鎧を纏い、赤い大剣を背負っていた。その男はファフニールの敗北の記憶だった。今までファフニールが虐げてきた生き物と同じであるはずなのに、その男は弱くも脆くもなかった。男の振るう大剣はファフニールの炎を裂き、翼を打ちのめし、爪を砕いた。ファフニールを斬るその男の表情を、よく覚えている。こうして夢に見るほどに。あの生き物の表情などまともに見たのは初めてだった。ファフニールは男の前に敗れた。そして、窮屈な眠りの中に押し込められた。
――これは夢だ。それでも、ファフニールの見る夢は昔に起こった出来事そのものだった。人を殺し、人に傷つけられ、人に封じられた記憶。ぽろりとこぼれた涙は、どこにも落ちずに乾いて消えた。
180206