「貴様イザベラ、この外道が!」
聞こえてきた罵声に、近くを通りがかったジークフリートは反射的にそちらへ走った。だが、続いた内容に思わず足を止めて物陰へと隠れる。
「――姫様に、様に何という真似を……!」
。それは何年も前から慟哭の谷で真龍ファフニールの封印を守り続けている姫の名前だった。ジークフリートですらその確かな所在は知らされず、国王から密かに受けた霊薬アルマに関する任務の中でもその存在が不確かな姫。ジークフリートと国王の、イザベラに対する疑念を濃くしている原因のひとつだった。
「よくも主君に対して、あのような酷い仕打ちを……!」
「酷い仕打ち? ただお眠りいただいているだけではないか」
「ならば貴様も姫様と同じことができるのか! もう何年のことだと思っている、おまけによくもあのようなことを『ただ眠っているだけ』などと言えたものだな!」
声を荒らげる騎士の名は、確かアドルフといったか。先日霊薬を作るシルフとイザベラの護衛の任を務めたはずだ。ジークフリートの心臓が、嫌な音を立てる。
(様が、惨い目に遭っている……!?
眠っているとは、いったいどこで……)
なおもイザベラに食ってかかるアドルフだったが、イザベラは煩そうに首を振った。
「いい加減にせよ。私は忙しい……ああ、確かお前には弟がいたな。それも病弱で金食い虫の」
「貴様、何を……」
「何もしないさ、ああ、何も? お前が大人しくしている限りはな」
「……ッ」
「何なら霊薬を分けてやってもいいぞ? 『様』もきっと、民が癒されれば喜ぶだろうからな」
ぎり、とアドルフの拳が強く強く握り締められる。弟の存在を盾にとった脅迫と、その弟の病気を癒す霊薬という甘い餌。アドルフの表情は、イザベラの外道ぶりと自らの無力さに対する憤怒で凄まじく歪んでいた。
「野犬のような顔をするな、品位が落ちるぞ?」
ひらひらと手を振り、イザベラは去っていく。アドルフもまた、歯を食いしばりながら荒々しい足音を立てて去っていった。アドルフの後を追おうと思ったが、イザベラに見咎められるわけにはいかない。歯噛みするような思いで、ジークフリートは踵を返さざるを得なかった。そしてその選択を、ジークフリートは激しく後悔することになる。アドルフはその翌日に死んだ。表向きは、落石の事故という話だった。
「私たちは……ひどい過ちを犯してしまいました、陛下」
「……やはり、おらなんだか。あの子は」
「……はい。慟哭の谷のどこにも、様のお姿はありませんでした」
事切れる寸前の国王に寄り添い、ジークフリートは己が無力さに打ちのめされながらも言うべきことを告げる。国王もジークフリートもの行方に対して疑念を持ち、霊薬の調査と共にの捜索をしていたのだが。は慟哭の谷のどこにもいなかった。国王がイザベラから伝えられていた場所には何人かの人間が暮らせるだけの頑丈な山小屋はあったものの、そこに出入りするのは名目上の護衛であるはずの、イザベラの子飼いの兵士たちばかりで。ジークフリートは必死にの行方を探し続けた。けれど、どこにもいない。生存すら、疑われた。あのときアドルフから何か話を聞けていれば、せめて足取りは掴めたのだろうか。悔やんでも、悔やみきれなかった。
「私の目が、曇っていたばかりに……そなたにもあの子にも、惨い定めを負わせて、しまった……思えば、あの子があの地に向かったのも……イザベラの、奸計なのだろう……そして次は、そなたが……全ては私の、責だ……」
「いえ、陛下。私の往く道は、私の決めたことです。ただ、様だけは……」
「ああ……どうかあの子を、カールの元へ、帰してやって……くれ……ずいぶん寂しい、思いを……させて、しまって……」
イザベラの謀略により命を落とす国王は、姪の救出をジークフリートに託して瞼を閉じる。無念さに歯をぎり、と鳴らしたジークフリートの背後から、叫び声が上がった。イザベラの謀略により、誰もがジークフリートが国王を殺したのだと思って刃を向けてくる。捕らえようと、腕を伸ばす。その人垣の向こうに、唖然と凍り付いたランスロットの姿が見えた。
「――!」
目を見開いたランスロットの、表情が変わっていく様が幾つもの絵を繋ぎ合わせたようにゆっくりと見えた。呆然と驚いて、きゅっと口元を引き結んで泣きそうな顔をして、そして、信じたくないという猜疑と、怒り。迷いながらも剣を手に取ったランスロットに向かって、ジークフリートは叫んだ。
「――お前の、一番大切な人との約束を思い出せ!!」
ランスロットが照れくさそうに話していた、との約束。次は、明日は絶対に、見つけ出す。その『明日』こそが今なのだと、ジークフリートは叫んだ。がもっとも信頼していた騎士。今でもランスロットの部屋に大切に飾られている、世話役時代に使っていた剣。ランスロットならきっと、いつかは真実に辿り着く。そう信じて、ジークフリートは裏切りの夜へと駆け出すのだった。
その燃え盛る火は熱いけれど、不思議と温かかった。体内を駆け巡る、炎。それはいつしか、血と同じくの心臓に息づいていた。
時折微睡みへと意識が浮かび上がると、炎のゆりかごにいるような気がする。目覚めることはなかったが、ふと夢の向こうに現が見えることはあった。シルフに頬を擦り寄せた日のことを、朧気ながら思い出す。シルフの腕と羽の中にいるような感覚が、少しだけあった。
どくどくと鳴る大きな鼓動の音。とくとくと鳴る、小さな鼓動の音。ふたつの鼓動は重なり、溶け合い、同じ時を刻んでいく。混じり合う命の音が、子守唄となって眠りを促すのだった。
180207