「――これも、報い」
目覚めたファフニールに呑まれる直前、シルフは誰にも聞こえない声で呟いた。鎧の男の腕には、と思われる少女がしっかりと抱きかかえられている。怒り狂った龍に食われるというのに、何故か安堵にも似た気持ちが胸を過ぎった。
『しるふしゃま、あったかいね!』
自分を慕ってくれていた、小さな人の子。温かくて、優しかった。それを、結界に閉じ込めて竜の腹へと押し込んだ。あの男がを目覚めさせたのだろう。ごめんなさい、とシルフは誰にともなく呟いた。
「様……!」
ファフニール討伐軍の編成をするランスロットは、やるせなさをぶつけるように机に拳を振り下ろした。ファフニールに喰われたシルフを救出するのが、今は優先順位の一番だというのはわかっている。シルフの護衛の兵たちの話によると、谷に現れた謎の剣士はを丁重に扱っていたという。必ず王都に帰すから退けと告げられ、ファフニールの脅威を前に兵たちは引き返すしかなかった。それまで必ず王女は守ると、剣士は言ったらしい。だが、その言葉の何を信じればいいのか。現に封印は解かれ、は連れ去られた。に何かしらの危害が加えられたから封印は解けてしまったのだろう。普段冷静なイザベラさえ、ひどく狼狽えた様子を見せたのだ。所在のわからない謎の剣士と王女の捜索よりも、シルフの救出の方が緊急性が高いのはわかっている。目覚めたファフニールを打ち倒し、再び縛龍の封印を施さなければならない。今は持ち堪えているらしいシルフだが、一刻も早い救出が望まれる。目覚めたファフニールが暴れれば、民にも被害が及ぶのだ。疑わしいとはいえ王女の身柄の返還を約束した謎の剣士の優先度が下がるのは、致し方ないと言えた。そう、頭ではわかっていた。
「…………っ、」
悔しさを押し込めるように噛んだ唇が切れて、血が滴る。の父であるカール国王は、が攫われたという話に倒れるのではないかと思うほどに顔色を悪くしていた。とても親子仲が良かった、それでも国王は気丈に、まずはシルフの救出を、とランスロットたちに命じた。もきっと、『シルフ様を先に助けて』と言うだろう。だからこそ、余計にやるせなかった。ファフニールの力は強大だ、万一に備えての王都防衛の戦力を残して討伐軍を編成すれば、余剰の兵力はほとんど残らない。慟哭の谷に近い地の駐屯兵には謎の男や王女が現れたら身柄を確保するようにと命じてあるが、王女を攫った者がのこのこと人里に姿を現すとも思えなかった。
騎士団長という立場がなければ、王都を飛び出していたかもしれない。ランスロットは熱くなりやすい性情を自覚していた。なればこそ、立場や規則を自身に殊更に言い聞かせて自制を強いてきた。だが、が危険の中にあると思えば激情が収まらなかった。自分が立場ある者でなければ、そんな思いさえ生まれてしまう。の騎士だと、誓ったのに。今は何ものためにできることがない。それがあまりに、悔しくて。
「――許さない」
を奪った謎の剣士。その男をランスロットは絶対に許さない。何としても見つけ出して、を救わなければ。その為に、一刻も早くファフニールを打ち倒す。そう決意したランスロットは、冷静に思考を切り替えて編成表を見下ろす。出立は、明日だった。
「ご加減はいかがですか、様」
「うん、だいじょうぶだよ? ありがとう、ジーク」
水を差し出したジークフリートに、は幼い笑顔を浮かべる。滑舌はしっかりとしているもののその口調は幼い頃のままで、ジークフリートの胸はずきりと痛んだ。十二年の空白は、あまりに大きい。ジークフリートが調達してきたワンピースを着たは、見た目には年頃の少女だ。今年で十六歳になるはずの少女は、長年特異な環境にあったせいか発育が遅れていることを差し引いてもあまりに幼かった。確かには、元よりファフニールの封印を守る役目を担うはずだった。けれどそれは、こんなに痛ましいものではなかったはずだ。縛龍の封印を定期的にかけ直し、霊薬作りの補佐をする。表向きは巫女姫のような立場といえど、実際はシルフの次代の世話役のようなものだったはずなのだ。それが、自らの身と時間を引き換えに龍を眠らせ続ける人柱だったとは。本来であればはこの十二年、自然な速さで成長できていたはずなのだ。たとえ危険な土地であろうと、花も咲けば鳥もいる。ランスロットたちがせめてもの慰めにと谷に来るたびに植えた花は、幾つかが逞しく芽吹いていた。会うことはできなくとも、想いは通じているはずだった。託した手紙の存在も、は知らない。暖かい優しさから隔絶され、燃え盛る夢の中に囚われて、十二年もの歳月を奪われ。それでも変わらぬ笑顔でジークフリートを労うに、ただ胸が痛くなる。これから告げる幾つもの事実は、このあどけない笑顔を曇らせてしまうだろうから。
「様……様は、ご自分がどのような状況にあったのか、どれほどわかっていらっしゃいますか」
「うん……と、ずっと、ファフニールの中に、いたような気が、するの。でも、それだけ……ごめんなさい」
「謝るようなことは何一つありません、許しを乞うべきは私です。あなたを十二年も、ファフニールの中に……この命を差し出しても、贖いきれぬ咎です」
「でもジークは、助けてくれたよ?」
「様……」
ありがとう、とはジークフリートの髪を撫でる。長きに渡る放浪生活で荒れた髪の手触りに、は目を丸くした。
「ジーク、髪がひどいよ? またパーシヴァルに怒られちゃう」
「…………、」
「ジーク?」
は、ジークフリートが国を追われたことを知らない。伯父であった国王の死も、イザベラの謀略も。今のが知っていることは、自分が十二年もの間ファフニールの中で眠っていたことだけだ。鱗や尾に驚いてはいたが、ファフニールと夢を共有して何かしら思うところがあったのか、寂しげな目をしてそれを受け入れていた。「お父様たち、驚いちゃうね」と言ったは、ジークフリートの剣に怯える様子を見せた。たどたどしいの話を纏めると、はずっと夢の中で人間を殺し、ジークフリートに殺されていたらしい。十二年もの間、ずっと。争いとは無縁に生きてきた幼い王女が心に負った傷は、如何程のものか想像もつかない。ジークフリートを見ただけで泣き叫ばれないだけ幸運だとすら思えた。の前ではしばらく抜刀すまいと、ジークフリートは密かに誓った。これ以上に負担を負わせたくはないが、知らなければならないことだ。はイザベラの謀略でファフニールと同化させられていたこと。霊薬アルマの恩恵の裏で、カルマに侵される命のこと。医者のボリスがイザベラに賊を差し向けられ命を落としたこと。ヨゼフがイザベラの策により、儚くなったこと。自分がその犯人だと濡れ衣を着せられ、国を追われたこと。王に村の惨状を訴えるために来た村人たちが、皆捕えられて地下牢に幽閉されていること。カール国王やランスロットたちは、何も知らないこと。ひとつひとつ説明していくジークフリートの言葉に、の表情はどんどん泣きそうに翳っていって。けれど雨が降り出すことはなく、はそっとジークフリートの頭を抱き寄せた。
「様……!?」
「ジークフリート、つらかったね。いっぱい、がんばってくれたんだね。ありがとう、ジーク」
この国のために、ヨゼフの最後の頼みのために、のために、ジークフリートは逆賊の汚名を着せられてもたった一人で奔走してくれた。今のには何もない、忠義を尽くしてくれた騎士に対する報いは、ただ誠心誠意感謝を伝えることだけだ。動揺するジークフリートを、の温もりが落ち着かせる。弱いけれど強い人だ、とジークフリートは目を細めた。
「……私は、王都に参ります。霊薬アルマの真実を、皆に伝えなければ。様も、ご同行願えますか?」
「うん、行く。わたしも、お父様たちにお話しするよ!」
パタパタと翼をはためかせて、はジークフリートについて行くと笑う。けれどハッと何かに気付いたように固まったは、しゅんと尻尾や翼を萎ませて不安げに呟いた。
「お父様……ランスも、わたしのこと、わかってくれるかな……退治されちゃったり、しないかなぁ……?」
「様……ご安心ください、カール国王様もランスロットも、あなたのことをわからなくなったりなどしません。ランスロットと約束なさったのでしょう、あれはあなたを絶対に忘れません」
「うん……うん、そうだと、いいなあ」
「……それに、私は『竜殺し』ではありますが、様を傷付けたりなど致しません。様は、退治されるべき悪しき龍などではないからです」
「ジーク……」
「あなたの騎士が馳せ参じるまで、私があなたをお守り致します。恐れることはございません」
ジークフリートの真摯な言葉に、の瞳からぽろりと涙が零れる。柔らかい頬に浮かぶ真紅の鱗の上を、暖かい雫が滑っていった。その涙を拭って、ジークフリートは思う。心無い邪悪な龍は、大切な人に突き放される不安に泣いたりはしない。の心は、人のままだ。優しくて、脆くて強い。慈しみに目を細めて笑ったジークフリートに、は不思議そうに首を傾げるのだった。
180210