「……?」
 ファフニールの巨躯が倒れ、騎士団の面々から歓声が上がる。無事な姿で現れたシルフに、ランスロットも安堵した。伏したファフニールに、魔術を使える面々が駆け寄って縛龍の封印を施していく。それを見守りながら、ランスロットは戦いで感じた違和感の正体を探っていた。
(妙に、動きが鈍かったような)
 封印が解けたばかりで、力が戻っていなかったのかもしれない。けれど敢えて理由を求めるのなら、それはまるで躊躇いのようにも思えたのだ。特にランスロットに対しては、それが顕著だった。ランスロットに向けて振り下ろすことができたはずの爪が、一度確かに止まったのだ。考えても理由はわからなくて、ランスロットは剣を軽く振るって鞘に戻す。カチンと軽やかな金属音と共に、思考を王都までのシルフ護衛の任務へと切り替えた。
ランスロットは知る由もない。にファフニールの記憶が流れ込んでいたように、ファフニールにもの記憶が流れ込んでいたことを。がおぞましく恐ろしい夢を見た代わりに、ファフニールは優しく生温い夢を見ていた。それはファフニールという怪物に与えられた、仮初の安寧の時だった。弱い生き物同士が寄り添い合い生きる仕組みそのものは、ファフニールには理解できない、生物として唾棄すべき馴れ合いである。けれどの感じた幸福感や安息は、ファフニールの知らなかった癒しをもたらした。の記憶の中で優しい想いと強く結びついた少年の面影が、ファフニールの動きを鈍らせた。夢の安寧がファフニールの身を錆びつかせ、弱くしたのだ。今は少女との繋がりは失せ、もう優しい夢を見ることはない。知らなければ、二度と手に入らないものに焦がれることもなかっただろう。或いはそれが、多くの命を虐げたファフニールに与えられた罰なのかもしれなかった。

「あれは……」
「どうしたの? ジーク」
 慟哭の谷の洞穴に潜んでいたジークフリートは、ファフニール討伐を終えて山道を下る白竜騎士団を見つける。明らかに騎士団ではない者も何人かいたが、どの道今はジークフリートの障害であることに変わりはないと深くは考えなかった。ジークフリートがファフニールを目覚めさせた目的のひとつである、イザベラの姿は未だ見えない。おそらく、後続の部隊にいるのだろう。今は救出されたシルフに警備が集中している。イザベラを討つには、またとない機会だった。
「……様は、ここでお待ちください。国に仇なす逆賊を、討ち果たして参ります」
「…………」
様?」
「……イザベラ、ころすの?」
 ジークフリートを止める理由はないと、わかっていた。愛用の剣をの前では遠ざけているのも、戦う姿を見せまいとするのも、夢に怯えるへの気遣いだと、わかっていた。それでも問わずにはいられなかった。父親に少し似ていると思ったその手は、時には何かを害すこともある。けれどそれには理由がある。わかってはいても、は訊くべきだと思ったのだ。何も知らないままでいてはいけない。目覚めたのだから、知らなければならない。優しくない世界も、は見なければいけないのだ。
「……可能であれば、そうするつもりです」
 ジークフリートの答えは、飾り気がなく率直だった。それ故に誠実で、偽りがない。私を止めますか、というジークフリートの問いに、は力無く首を横に振った。の心は、十二年の空白に未だ追いつけない。けれど、この胸の痛みは感傷だと朧気ながらわかっていた。夢の中で知った、守るために人は殺すのだ。騎士の剣は、守るべき人々を害す命を奪うためにあるのだ。ファフニールが踏み潰した親子がいた。赤子を守ろうとして、小さなナイフを振りかざした母親がいた。何もできないは、あの赤子と変わりない。ならばは、どうして守るために他者を傷付ける責を負う尊さを阻めるだろう。守られる者は、守る者に血に濡れる咎を背負わせているに過ぎない。
「――すぐに、戻ります。暫しお待ちを」
 目元まで兜で隠して、ジークフリートは山を下っていく。ゆらりと揺れる尻尾が、の不安を表していた。

「貴様、ジークフリート……!! 様を拐かしたのは貴様か! 様は、どこにいる!!」
 イザベラに振り下ろされたジークフリートの剣を阻んだのは、ランスロットだった。ファフニールの封印を解いた、謎の剣士。その正体がジークフリートだったと知って、ランスロットは激昂する。
様を返せ! 貴様、様をどうするつもりだ!!」
「……お前こそ、どうするつもりだ。ランスロット」
「何だと?」
様を取り戻してどうする。再び、真龍封印の任にお戻りいただくのか」
「っ、それは……」
「お前は知るまい、ランスロット。様がこの十二年間、いた場所は――」
 ジークフリートの鋭い眼光が、ランスロットの肩越しにイザベラを射貫く。その瞳は、激しい怒りに満ちていた。
「真龍ファフニールの、腹の中だ!」
 谷全体を震わせるような、咆哮にも似た叫び声。それは、その場にいた全ての者を凍り付かせた。ランスロットもヴェインも、グランもルリアも。ジークフリートの叫んだ言葉の意味に、頭が理解を拒んで凍り付く。いち早く我に返ったイザベラの声が、その空気を切り裂いた。
「戯れ言を……! その様はどこにいるのだ! 皆の者、ジークフリートを捕らえよ!」
「は……はっ!」
 イザベラの命令に、ランスロットは剣を構え直す。けれどその剣先は、微かに震えていた。それを見て、ジークフリートは目を細める。
「皮肉なものだな……ランスロット。お前も、何度もファフニールの目の前まで行っただろう。約束は、果たせなかったか」
「……やめろ」
「『次は必ず見つける』のではなかったのか、ランスロット!!」
「やめろ!!」
 信じたくはない。ファフニールの腹の中に、がいたなどと。信じられるわけがない。けれどもし、もしそれが本当なら、は。ずっと龍の体内で、ランスロットの目の前で、苦しんでいたのではないか。ランスロットが約束を果たしてくれるのを、待っていたのではないか。見つけてほしいと、泣いていたのではないか。ずっとずっと、ひとりぼっちで。ランスロットが見つけ出してくれると、信じていたのではないのか。
 『らんしゅ、』
 認めたくない。認められるわけがない。こちらを動揺させるための嘘に決まっている。脳裏に響いた優しい声が、ぐらりと視界を揺らがせて。気付けばランスロットは、弾かれるようにジークフリートに斬りかかっていたのだった。
 
180210
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