ずび、とヴェインが鼻を啜る音が響いた。ルリアやソフィアも、痛ましそうに瞳を潤ませている。ビィが「その、よう……リンゴ食うか?」と隠し持っていた林檎を差し出し、ビィの林檎好きを知るグランはそれを驚愕の表情で見ていた。「ありがとう、可愛いとかげさん」とふわふわの笑顔でお礼を言ったに対し、「トカゲじゃねぇやい……」と返すビィの言葉には力が無い。ランスロットはただ、の手を強く握り締めていた。離せばまたが恐ろしい目に遭うような気がして、怖かった。
ジークフリートの口から語られた、霊薬アルマが製造される裏で生まれる毒物、カルマの存在。そのカルマが、ルフルス村の住民を長年に渡り苦しめていたこと。窮状を訴えに来た村民たちは皆、この地下牢に幽閉され表向き死んだことにされていたこと。霊薬アルマの調査を命じていたヨゼフ王はイザベラの手にかかり、ジークフリートはその罪を被せられてこの地下通路から逃げたこと。
そしてそれよりも前、偶然ここを見つけてしまったが、ファフニールと同化させられ、十二年もの間龍の腹の中に閉じ込められていたこと。その間ずっと、が見ていた惨い夢。ファフニールと同化していた影響で、半人半竜と化した体。幼かったに負わされたものと、奪われた時間。ランスロットは、ぽつりと呟いた。
「俺たちは……様を犠牲に、安寧を得ていたのか? そうして得たものが、霊薬アルマだったのか? それも……民に、毒を撒き散らして」
「そうだ。それも、言わば無用な犠牲だ。ただ口封じと実益の釣り合いが丁度良かったから、奴の理由はそんなところだろう」
民を思っていたはずのイザベラがそんな非道をしたとは俄かには信じられない。けれど事実は、イザベラがに強いた犠牲をただ語っていて。その結果が、今ランスロットが繋いだ手の先にいるだ。頬や首には竜の鱗が浮かび、翼や角が生えて。皆に愛されるべき姫に、一生奇異の目を向けられるようなものを負わせて。それどころか、同化が進んでいれば龍そのものになっていたという。なんて恐ろしいことを、そう呟いたソフィアの言葉が、皆の気持ちを代弁していた。ルリアと命を共有するグランも、眉間に皺を寄せる。ルリアの力とその禁術は、よく似ている。けれどそれはルリアが自分のために自ら命を分け与えてくれた結果で、自分とルリアは同じ『人』で信頼関係があるから今まで破綻せずにやって来れたのだ。人を襲う恐ろしい龍と無理矢理命を繋げられ、果てには龍になっていたかもしれない。考えるだけで背中が震えるが、自分たちにはその本当の恐怖は想像することしかできないのだ。
「……お前は何を信じる、ランスロット」
絶え間なく襲いかかってきてくる兵士たちを薙ぎ倒しながら、ジークフリートはランスロットに問いかける。答えられずに、ランスロットは剣を握りしめて俯いた。思えばおかしいことは幾つもあった。一度も返ってこない手紙、いつ行っても会えることのない王女。が攫われたという報告は、の護衛兵ではなくシルフの護衛兵からもたらされたものだった。ランスロットに攻撃するのを躊躇ったファフニール、を偽者だと断じようとしたイザベラ。ランスロットを探して、泣いた。
「……俺の、目には。様の『今』が見えている。同時に、この国の今も。俺たちを襲う、白竜騎士団の兵士も!」
ランスロットに縋って震えるに、迫る刃。守るべき主君に向けられた刃を弾き飛ばし、ランスロットはジークフリートへと向き直った。
「俺は……この国の真実を確かめたい。何も見えないままでは、守りたい人さえ守れない……!」
を助けたのは、ランスロットではなくジークフリートだった。その事実が、ランスロットに重くのしかかる。何も見えていなかったからを救えなかったというのなら、自分は今度こそ真実から目を背けてはいけないのだ。
「お父さま!!」
「お主はまた妙なところから……玄関から入ってこいと、さっきも言ったではないか!」
「えっ?」
「へ、陛下?」
ジークフリートと共に闖入した妙な一行のひとり、であるはずのとカールのやり取りに、兵士たちもランスロットたちも、イザベラでさえ呆気に取られて思わず親子を交互に見る。ランスロットがジークフリートに説明を求めるように見れば、「先約があると言っただろう。カール様の元へ様を帰してやってくれと、王命を賜っていたからな」としれっと答えられた。とカールの対面を密かに心配していたランスロットは脱力感とやり場のない怒りに苛まれるが、今は先にやるべきことがあると気持ちを切り替える。ジークフリートの話を聞いてほしいと王に訴えるの姿は、少しだけ眩しかった。
「……様に強いた非道が真実であれば、一発は殴らないと気が済まないと思ったのが正直なところではあるが」
「……まあ、気持ちはわかるぜ。ランちゃん」
殴る気も失せた、というよりは殴るに殴れない、と言ったところだろう。ランスロットの隣のヴェインは、ランスロットの肩を叩いて同意を示した。
ジークフリートから突き付けられた幾つもの真実に本性を現し、シルフに全てを破壊させようとしたイザベラ。ランスロットたちの手によってシルフが倒され、捕えられ投獄されたイザベラは、今まで霊薬を投与し続けていた反動か見るも無残に老いさばらえていた。老婆の姿となってまで美に執着するイザベラの姿には、いっそ狂気さえ感じられて。こちらの憤りをぶつけようにも、あの狂った老婆が相手では殴ったところでの苦しみを欠片とて理解しないだろうというやるせなさがあった。
「……様、王都に戻るんだってな」
「ああ。暫くは治療に専念させると、陛下がおっしゃっていた。もう慟哭の谷に戻すことはない、とも」
元より、ファフニールが目覚めそうだというのもイザベラの嘘だった。地下の秘密を見てしまったを、一刻も早く王都から遠ざけたかった故の虚言。そしては谷で禁術をかけられ、ファフニールの中で眠ることとなった。封印の守役というのも、自分が執政官としてやりやすいように王女を王都から遠ざけようとしていたイザベラの発案だ。縛龍の封印は定期的に巡検隊が確認し、異常があれば白竜騎士団がすぐに出動する。はもう、あの地に戻らなくてもいいのだ。失われた十二年は戻らなくとも、その事実はのみならずランスロットたちをも喜ばせた。
「おお、来たかランスロット。それにヴェインも」
「白竜騎士団団長ランスロット、陛下のお呼びと聞いて参りました」
「同じく白竜騎士団ヴェイン、陛下のお呼びで参りました!」
玉座の間では、カールが待っていた。その隣には、典医と思しき婦人が控えている。
「よくぞ参った。突然ですまんが、そなたたちに頼みがあってな」
「頼み……ですか?」
「うむ。のことだ。これはの主治医のエレオノーラという……彼女の見立てによると、あのお転婆娘は中身がちっとも成長しとらんのだそうだ。よくて八歳程度、とのことだ」
「八歳……」
ランスロットとヴェインは、痛ましげに俯いた。は今年で十六歳になる。けれど、その人生の半分以上を龍の腹の中で眠らされていた。カールの言葉を引き取って、エレオノーラが二人にの現状を説明する。龍は長命種であり、ファフニールと同化していたは体の成長も多少遅れていること。実年齢は十六歳であっても、体の年齢は十二歳から十三歳程度であること。更に精神年齢でいえば、実年齢の半分にも満たないこと。これからは、少しずつ体と心の年齢だけでも近付けていかなければならないこと。また、ファフニールとの記憶の共有により、本来の記憶が相当摩耗してしまっていること。ランスロットたちのことは比較的多くを覚えているが、それでも忘れてしまっていることも多いこと。ファフニールの夢によって、重大な心的外傷を負ってしまったこと。竜のような外見は、おそらくもう戻らないこと。表情を暗くしながら語るエレオノーラの説明が終わると、カールは髭を撫でながら口を開いた。
「要は、また一から面倒を見なくてはならん。それも知っての通り、あの子はお転婆でな……おまけに、翼まで生えおった。どんなことをしでかすか、想像もつかん。何しろ中身は子どものままなのだ」
「は、はあ……」
「今はそなたも白竜騎士団団長という、責務ある身であるのは重々承知で頼みたいのだが……もう一度あのお転婆娘の、世話役を任されてはくれんかのう」
「……えっ?」
「何しろが一番懐いておるし、扱いもよく知っておる。ふらふらと飛んでいっても、そなたなら追いつけるであろうし……」
ちなみにジークフリートには断られてしまったと、カールは言う。のトラウマは、ジークフリートがいるだけで悪化する可能性が高いと。引き受けたいのは山々ではあるが、とジークフリートはたいへん申し訳なさそうに頭を下げたという。
「ヴェインを補佐に、の世話役を任されてくれんか?」
改めて頼むカールの言葉に、驚いて固まっていたランスロットは我に返って何度も頷いた。自分以外の人間になど任せないでほしい、騎士団長という身分も忘れそうなほど、その思いは強かった。
「謹んで、拝命致します……!」
「同じく、世話役補佐の任を拝命致します!」
償いでも、あの日々の続きでもない。それを求めてはいけないと、わかっていた。ただ、今度こそ守りたい。もう一度、の騎士でありたい。その思いを胸に顔を輝かせるランスロットに、カールは優しく目を細めるのだった。
180211