「ほら様、右、左、順番ですよ」
「……あのねらんす、わたし、あるき方はわすれてないよ?」
「そうでしたか? はい、左、右、左、」
と向かい合わせになって、両手同士を繋いで歩行訓練をするランスロット。丁寧に一歩一歩声をかけるランスロットに、は少し不満そうにしている。少し転んだり足が縺れたりしやすいだけで、全く歩けないわけではないのに。
「様は飛べるようになってから、歩くよりも飛ぶ時間の方が長いようですから。転びやすいのは事実ですし、練習はしましょうね」
「……うん、ありがとう、らんす」
「いえ、では俺と一緒にあちらの角まで行ってみましょう」
ぽてぽてと危なっかしく歩くの手を引いて、ランスロットはゆっくりと下がっていく。お転婆姫とは言われるが、このところはとてもいい子にしていた。世話役であるランスロットが昔より責務ある身であることを、子どもながら解っているらしい。ランスロットが執務に励んでいる間はほとんど大人しく自習をして過ごしているし(時々寝ているが)、昔のように目を離したらいなくなっているということもない。少し寂しい反面、ランスロットも昔ほど自由の利く身ではないので助かってはいた。ランスロットの動けないときのためにヴェインが補佐についてはいるが、ランスロットはできる限り自分の手でを守りたいと思っていた。はランスロットが危惧したよりずっと、肯定的に民に受け入れられている。不遇を感じさせない無邪気で明るい笑顔は皆の心を癒し、シルフを失ったフェードラッヘでは『竜の加護を受けた姫』として新たな象徴と化している。白竜騎士団の面々は「竜の騎士が、竜の姫様をお守りするのは当然ですよね」などと朗らかに言っていた。翼や尻尾があることで侍女たちがの服の改造に追われているが、彼女たちはそれも楽しいらしい。ランスロットはフェードラッヘの民の心の有り様が好きだと、を受け入れる彼らを見て強く思った。
「――ねぇ、知ってる? 西の泉に幽霊が出るって話」
ふと生垣越しに聞こえてきた声が、ランスロットの耳に届く。
「やだ、怖い話嫌いなのよ」
「でも、皆が話してるわよ? 西の泉に、変な灯りが浮かぶ夜があるって。近づくと消えちゃうらしいわ」
「もー、やめてったら!」
きゃあきゃあと遠ざかっていく声は、城勤めの侍女たちのものらしい。噂話が好きな彼女たちだが、その噂話も中々侮れないことをランスロットは経験上よく知っていた。
(西の泉か……)
水源豊かなこの国は、城内にも川や泉があって見た目にはたいへん美しい。西の泉といえばの部屋が近いところだ、とランスロットは眉間に皺を寄せた。
(一応、見に行っておくか)
を脅かすものがあるなら、先手を打って排除しておきたい。騎士団の見回りの範囲に加えるかとも思ったが、まだ噂の段階で負担を増やすのも微妙なところだろう。を寝かしつけたあとにでも様子を見に行こうと、ランスロットは思ったのだった。
「…………」
相変わらず就寝前のお茶だけはなかなか飲みたがらないに絵本を読んで寝かしつけたランスロットは、今日で三日目となる泉の見回りに来ていた。昨日も一昨日も特に不審なものは見つけられなかったが、噂はまだ続いている。今日も特に異変はないが、と思いつつランスロットは泉のふちに腰掛けた。泉と言ってもそれなりに広さがあり、岸の一部は草木が生い茂って視界の悪い部分もある。静謐な水を湛えた泉は美しいが、夜にわざわざ好んで来る者がいるとも思えなかった。魔物でも棲みついていたら事だと思って念の為剣は持ってきているが、今のランスロットは軽装である。星空を映す水面を眺めながら、少し冷たい夜の空気が肌を撫でるのを感じていた。
「……?」
ちら、と灯りが見えた気がしてランスロットは目を瞬く。どこかの灯りが泉に反射したのかと思ったが、周りに光源はない。じっと目を凝らすと、がさ、と対岸の茂みが揺れた。そして、茂みの奥でちらちらと揺れる光。否、あれは火の明かりだ。赤みを帯びた白いそれは、陽炎のようにゆらりと明滅した。
「っ、」
ちゃぷ、と静かな水音が鳴る。誰かが、泉に足をつけた音だ。再び瞬いた灯りが、ランスロットの目に信じられない光景を見せた。
白い足首。水に浸かる踝。その水の中で、足を駆け上がった炎。人の体が、火を発しているのだ。それも、水の中で。ちゃぷんと音がして、人影がより深く泉に沈む。ランスロットは思わず、対岸へと走っていた。
「誰だ……!?」
「ッ!?」
びくりと人影が震えて、岸から遠ざかろうとする。その瞬間、また炎が揺らめいた。
「様……!?」
「ら、らんす……!」
炎が照らしたその顔に、ランスロットは目を瞠る。一瞬見えたの表情は驚愕に染まっていて、ランスロットから距離を取ろうと動く。何故寝たはずのがこんなところに、と驚きながらも、泉の深いところに行っては危ないとランスロットも泉に入ろうとした。
「らんす、きちゃだめ!」
けれど、は来てはいけないと鋭い声を上げた。水の中で、ぼうっと炎が揺らめく。の肌が炎を発しているのだと、それは思わず魅入られるほど幻想的に思える光景で、けれど我が身が燃えるは傷付いているはずで。
「……ッ、」
ランスロットは、構わず泉に飛び込んだ。ざぶざぶと水をかき分けて、怯える仔猫のようなへと近付いていく。不可思議な火を発するのその手を臆面もなく掴めば、ぴゃっとが飛び上がる。は薄い下着同然の姿だったが、今はそんなことを気にする余裕もなかった。
「様」
「……らんす、おこってる?」
「はい、少し」
「……かってにお外、でたから?」
「違います。あなたの身に異変が起こっているのに、俺に知らせずにこうして夜な夜な一人で解決を図ろうとしていたからです」
「でも……」
じゅっと、軽い痛みがの手を掴むランスロットの掌を焼いた。どうにも自身制御できていないらしいその火は、の身から溢れるように肌の表面へと現れるらしかった。それでもランスロットは、の手を離そうともしない。それどころか、背中に腕を回してぎゅうっと抱き寄せる。いつ火が出て周りを燃やしてしまうかわからない状態のは慌ててランスロットから離れようとするが、ランスロットはそれを許さなかった。
「俺が水や氷の力を使うのはご存知ですね、様」
「は、はい……」
「俺は火で傷付いたりしません。あなたの火で、焼かれたりなどしません」
ファフニールとの同化の影響だろう。その体内に火を宿し、それが制御できずに溢れ出す。否、昼の内は懸命に自分の中に火を押し込めて、こうして人目を憚って水の中で放出していたのだ。周りを、傷付けないように。
「どうして、おっしゃってくださらないのですか。俺はそんなに、信用に値しないのですか?」
「ちが、らんす、泣いちゃうとおもって、」
当事者であるよりも、の変化に責任を感じて傷付いているランスロット。騎士団長という身であるのに自分の時間を割いて献身的に尽くしてくれるのも、その罪悪感の故でないとは言いきれなかった。ランスロットが泣いた理由を、も幼いながら解っている。がファフニールの炎で悩んでいると知れば、ランスロットは以上に悩んで、そして自分を責めるだろう。にはそれが、悲しかった。
「ですが、俺が責を負うべき問題です」
「らんす、わたしが『こう』なの、らんすのせいじゃないよ……?」
「俺のせいです、俺があなたを、見つけられなかったから」
「ちがうよらんす、ちがうの、」
必死に言い募るの感情の昂りにつられたのか、の体全体が炎のように熱を持つ。けれどランスロットは、より強くを抱え込んだ。
「俺は、あなたに罰を負わされたかった……どうして見つけてくれなかったのかと、責めてほしかった……!」
「らんす……?」
の泣き顔が、ランスロットの脳裏に焼き付いて離れなかった。ここにいると、助けてと、泣いたを救えなかった。どうして約束を守ってくれなかったのか、そう詰られたかった。はランスロットを責めるどころか、柔らかい笑顔を浮かべてありがとうと言う。忙しいのにごめんねと、申し訳なさそうに笑う。それが一層、ランスロットを苦しめた。
「俺は、まだあなたの騎士ですか、様」
「……らんす、わたしの騎士で、いてくれるの?」
「あなたの騎士でいたいのです、許されるなら、あなただけの騎士でありたいと願うほどに」
水に濡れてもなお燃えるように熱い小さな体を抱き締める腕に、縋るように力を込める。いっその炎がこの身を燃やしてしまえばいいのにとすら、思った。火傷を負ったとしても構わない。むしろ痕が残ればいい。罰も与えられないのなら、消えない傷が残ればいい。の十二年は誰にも取り戻せない。ランスロットは、同じだけの何かを失ってしまいたかった。それがによって与えられるのなら、それ以上に望むものはなかった。
「俺は、白竜騎士団の団長です。そう、なりました……あなたを置き去りにした、この十二年で。もう、戻らないのです。あなたの失った年月を、積み直すことはできない。俺は、こんなにもあなたから離れてしまった」
「らんすろっと、ここにいるよ? わたしのこと、ぎゅってしてくれてるよ?」
「……それでも俺は、様の知る俺ではないでしょう」
稽古をつけられる少年騎士は、稽古をつける側になった。に訊かれることは全て答えられるようにと必死に勉強していたあの頃と違い、「これはなに?」というあどけない質問に執務の片手間に答えられるようになった。ジークフリートに羨望の視線を向けていた少年は、今は騎士見習いから羨望を浴びせられる騎士団長だ。それはランスロットがこの十二年、歩いてきた結果だ。を、置き去りにして。
「らんす、らんすのままだよ? いっぱい優しくて、つよくて、なんでも知ってて、なんでもできて、すごいの!」
「様……」
「らんすはずっとずっと、いちばんの騎士だよ」
ふにゃりと笑ったの体が、だんだん元の体温に戻っていく。発火もほとんどしなくなって、もう炎は治まってきたようだった。炎が落ち着いたなら水から上がらなければ、とを抱えたまま泉から出ようとするランスロットに、が少し残念そうに言う。
「ほんとうに、みつかっちゃった」
「え?」
「つぎは見つけますって、らんす言ってた。ないしょにしようって、おもってたのに」
「……約束、ですから」
その言葉にどれだけ胸を打たれたか、が知ることはないだろう。泉から上がって、が持ってきていたタオルでの体を丁寧に拭いていく。ランスロットが風邪を引いてしまうから早く戻った方がいいとが言ったが、ランスロットは首を横に振った。どうせ飛んで帰るおつもりでしょう、と言うと元気よくは頷く。お転婆は健在だったかと思いつつ、が脱いで置いていた寝間着を着せた。このままを抱えたらが濡れてしまうと思って、のタオルを借りる。ふわりと香ったの匂いについては、極力考えないようにした。
「帰りましょう、様。西の泉にお化けが出ると噂になっていますから」
「おばけ? みたい!」
「あなたのことですよ」
「わたし、おばけじゃないよ?」
「ええ、そうですね。ですからどうか、これからは夜の外出をお控えください」
「? うん、わかった!」
にこにこと笑うを抱えて、ランスロットは城の中へと戻っていく。はいつも、自覚のないままにランスロットを救う。無邪気に無垢に、相手の欲しい言葉を与えてしまって。いとも容易く与えられるその救いが、時には苦痛となるのだと。知らないは残酷だ。その稚い愛は、容易くランスロットの葛藤を踏み砕く。清濁も正誤も問わずに、掬い上げてしまう。それは痛みも温もりもランスロットにもたらすけれど、離れようとは思えない。その幼い笑顔を見ていると苦しくて、けれど例えようもないほど幸福で。
「……あなたの傍に、いさせてください」
まだ湿っている前髪を指先で撫でると、は躊躇いもなく頷いた。一緒にいようね、とあどけなく笑う。それが一番の、幸福であるかのように。そういうところがランスロットの胸を刺すのだと、それでも愛おしいのだと、ようやくランスロットはひとつの答えを出せたような気がした。
180212