花の咲いたような笑みだとか、無垢な赤子のような笑みだとか、純粋な愛らしさを讃える言葉で形容されるであろうの笑顔。セルエルがその笑顔を例えるなら、砂糖菓子のようだと言うだろう。甘ったるくて、地に触れたら汚れてしまいそうな。
「こんにちは! おそうじとうばん、よろしくお願いします!」
「……ええ。よろしくお願いします」
にこにこにっこりと、何が楽しいのか満面の笑みを浮かべて。それは常日頃彼女の傍に寄り添う騎士のうち、金髪の者によく似ていた。今こっそりと物陰からこちらを伺っている黒髪と茶髪は、セルエルがこの笑顔を翳らせないか心配で様子を伺っているのだろう。セルエルが気付いていることに、あちらも気付いてるようだった。むしろ気配を隠さないのは、牽制の意味もあるのだろう。彼らの姫を謂れなく傷付けることは許さないと。
小さなため息を吐いたセルエルに、はこてんと首を傾げてセルエルが差し出したハタキを受け取る。高いところの埃落としを頼めば、は顔を輝かせて衒いなく頷いた。グランサイファーに来た時から、はそうだった。王族であり、今まで掃除も洗濯もしたことなどなかったのに、厭うことなく積極的に雑事にも取り組む。その姿勢は嫌いではない。そう、決してセルエルはを嫌ったり蔑んだりしているわけではないのだ。ただどうしても、自国の民がいる前で躊躇いなく誰にでも頭を下げ教えを乞い、白い指を汚すが同じ王族として不可思議に思えた。セルエルとて、王族という立場に関係なく雑事をこなしている。騎空団に個人として属している以上出自に関わりなく負うべき負担だと、むしろ積極的に動いている方である。だが旅慣れた自分はともかく今まで城の中で安穏に暮らしていた姫が、という驚きはあった。初対面の挨拶の時に思わず皮肉が口をついたのも、平民に易く頭を下げる王族の存在に少なからず驚かされたからでもあった。あまり王族に権威のない国なのかとも思ったが、彼女に傅く騎士たちの姿を見ればその考えはすぐに消える。あれは、王権が強い国の騎士の在り方だ。この騎空団に対するの態度だけを見ていれば、とてもそうは思えないが。同じ王族としても、騎士と主君という関係性を持つ者としても、セルエルがに抱く疑問から糧になるものがあるかもしれない。無駄のない手付きで通路を掃きながら、セルエルは日頃の賑やかな印象とは裏腹に黙々と埃を落としていくに己の疑問をぶつけてみることにした。
「、貴方はフェードラッヘという国の王族だと聞きました」
「うん、そうだよ?」
「私も、王子と呼ばれていた身です。同じ王族として、貴方に訊きたいことがあるのです」
「なあに?」
物陰で、ジークフリートとランスロットが身を固くするのが判った。セルエルの言葉次第では、彼らはすぐに飛び出してくるだろう。よほど大切に思われているのだな、と不意に口元に笑みが浮かんだ。取って食いなどしませんよ、と内心思いながらセルエルは手と共に口を動かす。
「このグランサイファーにおける貴方の態度や行動は、とても王族には思えない。けれど品性や教養は、紛れもなく王族のそれです。貴方はどうして、『王族らしくなく』振舞っているのですか」
ぱたぱたと聞こえるのは、ハタキかそれともの翼の音か。それが一瞬、ピタリと止んだ。それまで意図的に自分の手元を見たまま言葉を発していたセルエルは、思わずに視線を向ける。止まったのはハタキだったようで、はセルエルを見下ろしてぱちくりと目を瞬いた。
「セルエルから見たら、わたし、へんかな?」
「……変とまでは言いませんが、珍しく思えるのは確かです。国にいた頃から水仕事をしていたわけではないのでしょう?」
「うん! わたしのおしごとはおべんきょうとあそぶことだって、お父さまがおっしゃったから」
礼儀作法と教養を身に付けること、子供らしく健やかに育つこと。それがカールが王として王女のに命じた、ただ二つのことだった。剣をとるのは騎士の仕事。筆を執るのは文官の仕事。掃除や洗濯は使用人の仕事。皆、それぞれに仕事を持って王城にいるのだと父は幼い日のに説いた。にはのするべきことがあり、それを投げ打って他者の仕事を奪ってはいけないと。そしてのやるべきことは、次代の王として育つこと。今はよく学びよく遊ぶことだと、カールは大きな手での頭を撫でたのだ。
「お父さま、いってたの。わたしたちは、おーぞくっていう帽子をみんなから預けてもらってるんだって」
「帽子、ですか」
「うん、その帽子をかぶってるひとは、『せきにん』をもって国をおさめるんだって。そのかわりに、みんながごはんを作ってくれたり、おそうじしてくれたり、大切にしてくれるんだよ? わたしたちが、みんなと国をたいせつにするお返しなんだよ」
それでね、とは言葉を続ける。にこりと笑うその表情は、容姿以上に幼かった。
「国からでるときは、その帽子をおいていきなさいって、お父さまがいったの。フェードラッヘのみんなが預けてくれてる帽子だから、お外にもっていっちゃだめだよって。お外のひとが帽子を預けてるのはわたしじゃないから、ここでしてもらってたことはじぶんでしなきゃダメなんだよって、いってたの」
「……貴方の父君は、優れた王であるようだ」
「うん、お父さま、いい王様だよ!」
胸を張ってセルエルの賛辞を肯定したの笑顔はやはりあどけない。グランから断片的に聞いた、幼い王女に背負わされた重荷と、噛み合わない時間。例えばが王族としての責務を幼いながらに全うしようとしなければ、その歪みは負わなくて済んだのだろう。今の旅は、言わば療養か。セルエルの故郷の他にも、悲劇の起こった国は数え切れないのだと改めて思わされる。その一つの『結果』が、目の前で笑っていた。セルエルは、未だ見えぬ友を脳裏に思い描く。ひとつの悲劇を終わらせたは、先へと歩んでいくために今ここにいるのだろう。未だ幕の下りぬ過去の中にいるセルエルは、を前に自分と友の『結果』へと思いを馳せるのだった。
「……様は、朧気ながら国の変革を願っているようなんだ」
その夜、上等なワインを土産にセルエルの部屋を訪れたのは竜殺しの騎士だった。今の彼らに共通する話題といえばひとつしかなく、それを肴に静かに酒を嗜む。唐突な切り出し方にも驚くことなく、セルエルは黙ってジークフリートの言葉に耳を傾けた。
「我が国では、王政国家のほとんどがそうであるように貴族が幅を利かせていてな。特に騎士団はそうだ。ランスロットは平民から騎士団長にまでなった男だが、陰で何かと言われていたのは想像のつくことだろう」
「……ええ。成り上がりの平民だとか、嫉妬や僻みの声もあったのでしょう」
「ああ。それを……幼い日の様が、耳に入れてしまってな」
地方の平民ごときが、何故王女の世話役などに。それは、幼いにも解ってしまうほど悪意に満ち溢れた声だった。から見たランスロットは、おとぎ話に見る英雄のようで。何でも知っていて、強くて優しくて、いつだって自分を助けてくれる。そんなランスロットが、何故あんなふうに悪し様に言われなくてはいけないのだろう。大好きな騎士を貶める言葉を聞いてしまって泣くを見つけたのは、ジークフリートだった。
「ランスロットを様の世話役に付けたのは、俺の判断だ。ランスロットには貴族や王族の何たるかを学ばせたかったし、様には貴族だけが優秀なのではないと知っていただきたかった……だが、様を泣かせたかったわけではなかった」
ジークフリートに縋って泣くは、どんなに言葉を尽くしても中々泣き止んでくれなかった。好んでいた高い高いをしようとしても、脚にしがみついて離れなくて。そのうちランスロットやパーシヴァルに見つかって、慰めるのが下手だと若い二人に揃って説教を受けたものだ。今となっては懐かしい思い出だが、思い出す度に苦い笑みが浮かぶ。
「それまでのフェードラッヘでは、王族が直接平民と触れ合うことなどなかった。強い国でもあったが、歪みを抱えた国でもあった。国は簡単には変わらない。それでも、きっかけはできた」
「その歪みに彼女が触れたことにも、意味があるということですね」
「ああ。様が将来国を背負うとき、その歪みを知っていることは変化のきっかけになる」
すぐには変えられずとも、大きくは変わらずとも。少しでも、歪みを正していく契機になる。自分で流した涙の意味は、心の深くに焼き付いているはずだ。
「自らの目と耳で感じたことは、幾千の書物の知識にも勝る。この旅は、様にとっては療養ではない。為政者として、知見を広めるための旅だ」
「なるほど、だから彼女は何事にも躊躇いなく取り組むのですか。この度の全てが、彼女の糧であると」
「そうだ。鉢が狭ければ根が広がらないように、狭い世界での成長には限度がある。今の様には、広い世界が必要だ」
「……それで、何故貴方は私の元へ?」
「同じ王族として、ひとつの在り方を様に見せていただけないかと思ってな」
「私が優れているのは事実ですが、参考になるとは限りませんよ」
偉ぶらず、驕らず、それでもただ淡々と自らが優秀である事実を語るセルエル。自信に満ち溢れた亡国の王子の姿に、ジークフリートは口元を緩めた。
「何が学びになるかなど、わからないものだ」
の中に答えの断片を探したセルエルのように、もまたセルエルに刺激を受けて学ぶこともあるだろう。大きな成長は時に痛みを伴うと知っていながら、ジークフリートはそれでもの触れる世界が優しいものであるようにと願っていた。だからこうして、つい要らぬ根回しの真似事さえしてしまう。上物のワインまで持ち出して過保護なことですねとセルエルは呟いたが、その言葉に嘲りや毒はなかった。
「なに、迷惑料も兼ねているからな」
「迷惑料?」
「様も、貴方に興味を持ったということだ」
訝しげに目を細めるセルエルと、口角を上げて笑うジークフリート。酒瓶を軽くしていきながら、騎士と王子の夜は静かに更けていく。その翌朝、好奇心を隠さないに飛びつかれてあれやこれやと質問攻めにあったセルエルは、こういうことかと内心で盛大にジークフリートの澄ました笑顔に毒づくのであった。
180509