ひらり、花びらのように舞ったのはの口から漏れた小さな炎だった。本物の花びらと混ざって空に舞い上がり、ふっと消える。遠い青に吸い込まれていく花弁の色彩を見上げるの姿は、未だ幼く。けれど悠久の時を経て深みを湛えた瞳を、ジークフリートは静かに見下ろした。
「……ここは冷えます、様」
「だいじょうぶだよ? わたし、竜だもの」
「ではせめて、これを」
自分の羽織っていた外套を、そっとに被せる。ありがとうと笑うの無邪気さは、遥か昔から変わらない。結局、半竜の王女が大人になることはなかった。の成長は、あの日を境に止まってしまって。かつて最初に彼女に傅いた騎士が願ったの未来は、訪れないまま。蕾は花開かぬまま、いつの日か朽ちるのだろう。
「おまつり、変わっちゃったね。シルフさまのだったのに」
少しだけ寂しそうに、は笑う。かつて星晶獣シルフを讃えていたこの祭りは、竜の姫を讃える祭りへと変化した。それほど長い、時が流れた。自身に見立てられた花を見下ろして、はふにゃりと眉を下げて笑う。遠くで行われている劇は、白竜の騎士と半竜の王女の恋愛譚だ。昔日に愛を紡いだ思い出は、今や伝説として語られている。自らの子孫が治める国で、守護竜として祀られて。愛した伴侶も、慕った騎士も、空の向こうの友人も、父も、子も、孫も。は多くの命を見送った。その隣でジークフリートもまた、たくさんの足跡が薄れていくのをただ見送った。
「シルフさま、寂しくないかな」
「様と私が、シルフ様を覚えています。それだけできっと、シルフ様は喜んでくださるでしょう」
「……そうだといいね!」
寂しいのはだろうに、とジークフリートは思う。あまりに永きを生きたが故に、子孫や国との関わりも薄れ神殿から出ることもほとんど無くなって。フェードラッヘ中が沸き立つ祭りの間も、言祝ぎを終えた後は昔のように市を見て回ることもなくひっそりと花の行方を追っている。きっとは、ランスロットから貰った花が忘れられないのだ。同じ花が見つかることは永遠になく、追憶に咲く花に勝るものは得られない。それでも、終わることも離れることもできない。愛した祖国を、愛した血裔を見守り、時には守るために立ち上がり。彼女が子を成した相手はただ一人であったけれど、今やこの国そのものが彼女の子どもなのだろう。フェードラッヘを愛する気持ちだけで、彼女は長い時を生きてきた。
ではジークフリートは一体どんな気持ちに拠って生きているのか。それを言葉にするには、彼の負い目は些か大きすぎた。この国に対しても、に対しても、ランスロットに対しても。今際の際、王女の安寧を願って泣いた弟子の姿が今なお鮮やかに脳裏に浮かぶ。
――お願いします、ジークフリートさん。
――死ぬことが怖いのではないのです。俺は、様がお独りになってしまうことだけが、ただ、怖い。
かつて孤独の中に彼女を置き去りにしてしまったランスロットは、生涯そのことを悔やんでいた。自身との天命を知ってしまってからは、とフェードラッヘを守り続ける体制を築くために奔走して。ランスロットの努力は確かに実った。今でも空に名を馳せる白竜騎士団の名は、彼から始まった栄光だ。それほどまでに、ランスロットは騎士団の未来に心を砕いた。それでもなお、不安は拭えなかったのだろう。
――俺は、様を置いて逝く自分が許せない。お傍にいると、誓ったのに。
――様を二度と、泣かせたくはなかったのに。
ランスロットの床には、入れ替わり立ち替わり皆が訪れた。も、ヴェインもパーシヴァルも、白竜騎士団の面々も、グランサイファーの乗組員たちも。それでもランスロットがうわ言のように悔恨を口にしたのは、ジークフリートの前だけだった。
――俺が、いなくなったあとは、
――どうか様を、
それがジークフリートの聞いた、ランスロットの最後の言葉だった。そのままランスロットは眠りにつき、ジークフリートはと付き添いを交代して。ランスロットの最期の時は、愛する王女とのふたりきりだった。密やかな終わりを迎えるとき、ふたりがどんな言葉を交わしたのかは誰も知らない。ただランスロットの顔は微笑むように穏やかで、は温度をなくした手をずっと握ったまま俯いていた。誰に代わりが務まるはずもないと、ランスロット自身が一番よくわかっていたに違いない。むしろそうあれと望んだのもランスロットだ。を支えているのも縛っているのも、ランスロットの愛情であるのだろう。
なれば、ジークフリートを長らえさせているのはランスロットとの約束だろうか。ジークフリートはランスロットを喪って憔忰するに、竜の血を受けることを願った。竜殺しと呼ばれた由来である、ファフニールの討伐。その時浴びた竜の血が、ジークフリートの体を変質させた。ほどの強さではないが不老長寿の力を持っていたジークフリートは、真龍の血をから授かって同じ時を生きることに決めた。元より竜の返り血で体質が変わっていたジークフリートにしか、できないことだった。
邪竜の血によってほとんど老いないジークフリートを見て、ランスロットは何を思っていたことだろう。自らの命を永らえさせる道よりも、未来に託す道を選んだランスロット。その選択のために、もランスロットも多くの苦悩を抱えていた。きっと、探せば寿命を歪める術はあった。けれど、それは摂理を侵す行為だ。やジークフリートのように望むと望まざるに関わらず得てしまった結果ならともかく、意図してそれを望むのはまた別の問題なのだ。ランスロットは国を導く者として、正しく生きた。白竜騎士団の団長として、常に正しくあろうとしていた。ランスロットは自分が他人に、そしてフェードラッヘに与える影響を解りすぎていた。だからランスロットは、人の領分を超えることはなかった。あるべき摂理を歪めた者は、いつか報いを受ける。不老長寿のために国を食い物にしたイザベラと、動機や手段は違えど結果だけを見れば変わらない。愛しいひとの傍に在り続けたいという気持ちと、人として正しく生きねばならなかった自分の立場。苦悩の末ジークフリートにを託したランスロットの判断は、誰にも責められないだろう。
「みて、ジーク、ジークの劇だよ?」
明るいの声に、ふと我に返る。が指さす舞台で演じられているのは、竜殺しの英雄譚。そして、竜の守護者となった英雄譚。
「何度見ても、気恥しいものです」
を生涯の主として剣を預けるようになってからも、ジークフリートは多くの戦いに赴いた。けれど、劇の中で描かれる自分の姿を真っ直ぐに見るのはやはり難しい。自分は一度は王殺しの狂人と謗られた身で、取り返しがつかないほど手を汚して、人ではないものになってまで主を守ることに執心して。物語の勇者などでは、ないのだ。人々の賞賛はいつまで経っても慣れないものだと、ジークフリートは苦笑を浮かべて役者たちから目を逸らした。
「……ジーク、あのね!」
「? はい、様」
「ジークはね、すごくかっこいい騎士なんだよ! わたし、知ってるよ? いちばん知ってる!」
「…………」
唐突な言葉にぽかんと口を開けるジークフリートに、は少し照れながらもぎゅっと拳を握って熱弁する。
「ジークはあの劇、あんまり好きじゃないかもしれないけど、わたしは好きだよ? フェードラッヘのみんなが、ジークがかっこよくてすごい騎士だって思ってくれてるって、ことだもん!」
「様……」
「ジークがいてくれて、ジークががんばってくれて、みんながジークのこと好きでいてくれるの、嬉しいの、だから……」
祭りの日でも武装を解かないジークフリートの手を、篭手越しにぎゅっと握る。鋭利な金属がその白く柔らかい手を傷付けないか怖くなったが、不思議と振りほどこうとは思えなかった。
「ジークにも、ジークのこと、好きでいてほしいなあ……」
「……はい、様」
俯いてしまったの手を、傷付けないようにそっと握り締める。いつだってはそうだ。彼女は祖国を、祖国の民を、いつだって一番に愛して。さながら我が子を溺愛する母のように、欠けたところすら含めて一番愛しいのだと抱き締める。にとってフェードラッヘの民は等しく一番に愛しくて、その平等の例外はランスロットだけだったけれど。盲目的なまでに公平な愛は、少し寂しいけれど何よりも優しい。
きっとは、ひとりでも生きていける。否、フェードラッヘが在る限りはひとりではない。ランスロットが恐れたの孤独は、きっと訪れない。ランスロットの想いは長い時が経っても失われず、彼女の傍に寄り添い続けている。今も見れば、を慕う子供たちがこっそりと神殿に忍び込んでいるところだ。炎を見せてと、お歌を歌ってと、お菓子を一緒に食べようと、そう言って彼女の手を引くのだろう。はジークフリートがいなくても、独りではない。ランスロットとの約束は、ジークフリートがいなくとも果たされる。それでも、終わらせようと思えないのはきっと。
(俺が、傍にいたいと望んだだけの話か)
ただそれだけの、単純な話。にもランスロットにも聞かせられない、とうに凝って胸の奥に沈めた慕情。寂しかったのは、きっとジークフリートだ。情愛や執着というにはあまりにも淡い、ただ幼子が母の裾を引くような慕情。恋でも崇敬でもない、ただ、優しくて寂しい感情のためにジークフリートはの傍にいたいのだ。
ランスロットはきっと苦笑する。ヴェインもきっと笑うだろう。パーシヴァルには叱られるに違いない。だが生憎、が迷子にならないように見守りながら空の向こうへと歩むのはまだ当分先だろう。それまでは見逃してくれと、旧友たちの顔を思い浮かべてジークフリートは苦い笑みを浮かべるのだった。
180611