「ひ、ひと思いに! おねがいします!」
ぎゅっと固く目を閉じ差し出されたの手を、ジークフリートはそっと握り締めた。ぴくりと反射で瞼が動いたが、それでもは動かずにジークフリートに身を委ねている。いつもの事とはいえその信頼が少しくすぐったいような気持ちになって、ジークフリートは申し訳なさすら感じながらもそっと短剣の先端を白い指先にあてがった。ぷつりと容易く裂けた肌から、赤い血がぷくりと溢れる。短剣を置いたジークフリートは、表面張力が破られ肌を伝い落ちた赤い血を小さな杯で受け止めた。少しだけ深めに切った指先から、ぽたぽたと血が滴る。いつも固く目を瞑るは、この美しくすら見える光景を知らない。それでいいのだと、ジークフリートは思う。小さな杯が満たされる頃には、既に血は止まっていて。杯を卓に置いたジークフリートは、指先に固まった血を濡らした布で丁寧に拭い取る。
「お、おわった? よね?」
「はい、様。いい子にしていてくださって、ありがとうございます」
おそるおそる目を開けてジークフリートを窺うの指先には、もはや傷痕さえ残っていない。ジークフリートより余程強い自然治癒力を持つは、けれどジークフリートよりずっと痛みを怖がる。長い長い時を生きていても、見た目通りの幼い心を持っている。当たり前に痛みを恐れるのひとらしさを、ジークフリートは愛しく思っていた。きっと本当に痛みを忘れてしまった時が、人としての生の終わりなのだ。
「……謹んで、賜ります」
杯を両手で持って頭を垂れたジークフリートは、顔を上げて一息に真龍の血を飲み干した。飲み慣れた鉄の味。慣れることすら、畏れ多く思えて。ジークフリートの命を繋ぐファフニールの血。人の身には劇毒であるその血は、ジークフリートの体を破壊しながら作り変えていく。の傍に在り続けるための痛みを疎んだことはなかったが、ただの辛そうな顔を見るのは胸が痛んだ。自分に寄り添い続けるために並々ならぬ痛みと苦しみを自身に強いるジークフリートの姿が、には痛ましいものと映るのだろう。歯を食いしばって痛みを表情に出すまいとするジークフリートをはそっと抱き寄せ、その額に浮かぶ汗を優しく拭ってくれた。
は痛みを恐れるのに、ジークフリートに触れることを躊躇わない。かつてを苛んだ、ファフニールの記憶。刃を向けられることに深い心の傷を抱えてしまっただったが、ジークフリートその人を厭うことはなかった。はジークフリートに信頼を寄せてくれている。感謝すら抱いてくれている。今でもにとって、ジークフリートは英雄なのだ。無垢な信頼を向けられる度に、ジークフリートはかつてランスロットが抱いていた苦悩に己の苦悩を重ね合わせた。
『俺は、不甲斐ない男です』
『あんなことがあっても、様は俺に笑いかけてくださるんです』
『俺はそれがとても嬉しくて、それがとても苦しい』
ファフニールの魔力に体の組織を上書きされていく苦しみは、並大抵のものではなかったはずだ。ジークフリートが今感じている痛みの比ではない。全身の血液が沸騰して、内側から体を灼き尽くされるような苦痛。骨も肉も、全てが灼熱の中に溶けて打ち直される。皮膚の下から、別の生き物に変わっていく恐怖。眠っていたからわからないと、は言う。けれどその眠りさえ、安息ではなかった。意識は殺し殺され続ける悪夢の中、身体は竜の腹の業火の中。の幼少時代は、そうして灰に還った。
「ジーク、まだだめだよ?」
苦痛を押して立ち上がろうとするジークフリートを、の小さな手が押し止めようとする。柔らかな手、永遠の少女。とこしえを生きる主は、こんなにも脆くて、弱くて、小さくて。守らねばならぬのだ。守れなかったと悔やむのは、一度で十分すぎる。
「大丈夫です、様」
これでも昔より、笑うのが得意になった。かつて忘れかけたその表情を緩やかに取り戻してくれたのは、この優しく寂しいひととの日々で。それでも忘れはすまい、自分がに自責の念を抱かせてまで永らえている理由を。守ると誓いながら傷付けるなど、そんなことは二度とあってはならないのだ。
「寝る前のご本を取りに行って参ります。すぐに、戻りますので」
「……うん、」
ふにゃりとした手が、そっとジークフリートの外套を離す。きっと、わかっていて騙されてくれたのだろう。は自らを案じる者の嘘を、責めたことがない。きっとそれが守られる者として、が尽くす誠実の形なのだ。
「いってらっしゃい、ジーク」
「はい、様」
微笑んで、部屋を辞す。隣の部屋に行くだけのはずなのに大剣を背負ったことにも、部屋の鍵をかけたことにも、は何も問わなかった。それがの、幼気な誠実さだった。
「夜分に女性の寝所に押し入ろうとするなど、感心せんな」
暗闇に呑まれるように倒れ伏した侵入者たちを前に、ジークフリートは呟く。顔のほとんどが兜に隠されていることを差し引いても、その表情は全く読み取れない。竜の王女と騎士の伝承は、時折こうした招かれざる客を呼ぶ。竜の血が人の身には耐えられぬ劇毒であることも知らず、不老長寿の力を持った王女を拐かして利用しようとする輩。親切に事実を教えてやる気はさらさらない。下手に噂が広まろうものなら、かつてのイザベラのような者が現れないとも限らない。竜の血のことも、ジークフリートがそれによって永らえていることも、知る者は少ない方がいい。いつだって傷付くのは、弱くて優しいだ。
「……、」
手にした大剣を振るって血を払ったジークフリートは、一人の呟きを拾って目を瞬く。地に伏したその男から漏れた、化け物、と罵る声。ぱちりと目を瞬いたジークフリートは、フッと口の端を吊り上げて笑った。
「昔の俺であれば、『そうだな、俺は化け物だ』と否定しなかっただろうが」
思い浮かぶのは、くりくりとした大きな丸い瞳。ジークフリートの瞳を覗き込んで、「おそろい!」だと笑った。人のそれより、縦に細く開いた瞳孔。力を振るう時に、うっすらと緑の光を帯びて輝く金色の虹彩。半分、人ではなくなったふたりの瞳は同じなのだ。
「俺が俺を化け物と認めると、あの方も化け物だと貶めることになる。それは許容できんな」
強くうなじを打ち据えて、完全に意識を落とす。ジークフリートはもう、自身を化け物と許容しない。優しい主は色んなものを背負ってはいるけれど、その心はどこまでもただの人なのだ。ジークフリートを英雄と信じる、幼気な子どもだ。
「今の俺は、様の騎士だ。それ以上でも、それ以下でもない」
遠い昔日に、ジークフリートが自嘲気味に笑うたびに苦い顔をしていたランスロットたち。今にしてみれば、その気持ちは痛いほどよくわかる。けれど今気付いたところで、「遅い」と叱られてしまうのだろう。ランスロットもパーシヴァルもヴェインも、ジークフリートは紛れもなく人だと幾度となく言葉にしてくれたというのに。
警備兵に侵入者を引き渡して部屋に戻ってくれば、はベッドの上でぎゅっとぬいぐるみを抱き締めて縮こまっていた。ジークフリートが部屋に入ると、ぱあっと花開くように表情が華やぐ。眠っていてくれても良かったのにと思うが、がそういう性格ではないこともまたよく解っていた。
「ただいま戻りました、様」
「おかえりなさい、ジーク!」
『隣の部屋で本を選んでいた』などという言い訳は到底通用しない時間が過ぎていたが、は何も訊かずぽすぽすと自分の隣を両手で叩く。畏れ多いという気持ちだけは忘れないようにと自戒しつつも、ジークフリートは慣れた動作での寝台に腰を下ろす。即座にぽふっとジークフリートの膝を陣取ったが、にこにこと綿飴のような笑みを浮かべて見上げてくる。ゆらゆらと嬉しそうに揺れる尻尾は、ジークフリートが語る物語を心待ちにしていた。本を開いたジークフリートの手元を、小さなつむじの頭が覗き込む。こみ上げる庇護欲のままに、その丸い頭を撫ぜた。
「ジークになでてもらうの、すき! あんしんするの」
「それは光栄です、様」
在りし日より、縮んだ距離。家族でも恋人でも友人でもない、それでも、世界にふたりだけのいきもの。同じ目をして、同じ時を生きて、それでもこんなにも違うのだ。違うけれど、寄り添って生きている。ただそれだけで、満たされる。許された安息の日々は、少しだけ息苦しく。それでも、幸せで。
「……様」
「?」
「ありがとうございます」
「わたしも、いっぱいありがとう!」
ジークフリートの唐突な言葉に帰ってきたのは、花咲くような笑顔。家族でも、恋人でも、友人でもないけれど。今のジークフリートの、唯一のひとだった。
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