「ああ……いらしてくださったのですね、守護竜様」
「むぅ……『してき』なばしょで、そう呼ばないって、ルッツがやくそくしたんだよ?」
「はは、そうでしたね……懐かしい、あの頃は私の方が小さかったのに……」
 上王が危篤だと、王城に呼ばれて。珍しく神殿を長期間離れ王城に詰めていたは、上王の枕元に手招きされてぷくっと頬を膨らませた。祖父と孫のようなのに遥か昔からの縁である彼らに、その場にいたフェードラッヘの王族たちは胸を詰まらせる。は、ずっと見送ってきたのだ。上王も、その父も、その祖父も、その曾祖父も、ずっと。気が遠くなるほど昔からフェードラッヘを見守ってきた母なる仔竜は、気が狂いそうなほどの別れを繰り返してきたのだ。
「あの頃は、いつもふたりでやんちゃをして……ジークフリート様に、揃って叱られましたな」
「ジーク、こわかったねー……」
「なんと、様はでこぴんで済まされたではないですか。私など、容赦のない拳骨だったのですよ」
「耳が痛いですな、上王陛下」
「もう……悪童とは、呼んでくださらぬのですか」
 苦笑を浮かべるジークフリートに、上王はころころと笑う。仮初の和やかな空気は、ゴホゴホと激しく咳き込む音によって切り裂かれた。上王の唇から、血が溢れる。肺を患った彼の、最期の時間。残された砂は、もうほんの僅かだった。
「わたしは……ッ、善い王で、あれた、でしょうか」
「うん、ルッツ……いい王さまだったよ」
「あなたに……そう仰っていただけたなら……胸を、張って逝けます、」
「……うん、エリザとフリッツに、よろしくね? らんすにも、ヴェインたちにも」
「我が妻と、父上と……伝説の騎士たち……あなたに祝福、されて、彼らの元に旅立てるなど……こうえい、」
 胸の痛みに苦しみながらもにこやかに語る上王の言葉が、不意に途切れる。ふつりと糸が切れたように、上王の口は閉ざされて。ゆっくりと、瞼が下ろされる。上王の手を握って優しく語りかけていたの表情が、その命の終わりを悟って強ばった。ぎゅっと口を引き結んで、眉を寄せて。血の巡りの途絶えた手に額を当て、泣き顔を隠す。控えていた典医が、上王の崩御を告げた。

「ルッツ、エリザたちに会えたかなあ」
「きっと空の果てで、お会いしていることでしょう。エリーザベト様もフリードリヒ様も、『まだ早い』と追い返してしまいそうですが」
「エリザたち、やさしいけどてれ屋さんだものね」
 喪服に身を包み神殿への帰り道を歩くが、在りし日を思い出して黒いベールの下でにこにこと笑う。けれどその目じりからぼろりと零れた哀悼の名残に、ジークフリートはそっとを抱き上げた。上王の葬儀で立派に『守護竜』としての役目を果たし、その旅立ちを見送って。そしてまた、置いて行かれた。ジークフリートはもう、を置いて行った王の数を数えることはやめていた。彼らも彼女らも、繰り返しに出会い、成長し、そして老いて旅立つ。辛いだろうに、悲しいだろうに、『子どもたち』を忘れてしまうことも離れることもできず寄り添い続けるが、健気ではあるが痛々しかった。
「らんす……まだ待っててくれるかなあ」
「ええ、必ず」
 今や伝説であるランスロットがひとりの人間だったことをこのフェードラッヘで覚えているのは、とジークフリートだけだ。誇り高き白竜騎士団の祖として語り継がれるランスロットの存在は、もはや守護竜信仰の一部と化している。守護竜と契り、とこしえの繁栄を築いた誉れ高き騎士。今の世界では、ランスロットの伝承はそう語られていた。
「らんす、まだはやいよって言うかなあ……」
 幼い問いに答えるすべを、ジークフリートは持たない。それは正解でも間違いでもあるのだと、わからないほどは愚かではない。けれど問わずにはいられないのだろう。ランスロットが、永久の守護を誓った命。誰よりも何よりも愛しい騎士が、その人生の総てを懸けて守ろうとした未来。愛してくれた騎士のために、は自らの命を全うしようとしている。どんなに置いて行かれ続けても、寿命が続く限りは生きなければならないと。愚直な愛を全うするが、いじらしくて哀しかった。
「……ディーデリヒがね、もうすぐ子ども生まれるんだって、いってたの」
 また、フェードラッヘ王家に生まれる新しい命。現王の元に授けられた新しい命に、はまた微笑むのだろう。
「男の子だったら、『ランスロット』にするって、ディーデリヒいってたんだよ」
「それは……ランスロットが空の上で大慌てしそうですな」
 今の世で伝説と語られていようと、ランスロットはフェードラッヘに対する忠誠が厚く謙虚な騎士である。自分にあやかって王族の名がつけられたと知れば、真っ赤になって慌てふためくだろう。
「ジーク、らんすに会いたい?」
「……いずれは。いつかきっと、空の果てで会うことでしょうな」
「そっかあ」
 幼い問いかけと、読めない真意。単純なようでいて、無邪気な笑顔の影に何もかも隠してしまうのことを、ランスロットはずっと案じていた。ファフニールとの同化は、目には見えない傷跡をに残していて。あの頃より医学や魔術が発達した今、のその言葉の足りなさはあの十二年間がに残した後遺症だと解っていた。そしてそれが、今となっては治しようのない障害であることも。は、意志や感情の言語化を司る部分を痛めてしまっているのだそうだ。思うところがあっても、本当はいろいろなことを考えているのかもしれなくても。はそれを言葉にできない。誰も彼も、の『本当』など解ってやれないのかもしれない。心の中さえ見通せたあの万能の魔女なら、或いは。けれど彼女は不必要に他人の心を暴き晒すようなことはしなかった。可愛がっていた弟子であれば、なおさら。
「……様?」
 不意にジークフリートの腕の中から降りたに、ジークフリートは怪訝そうに小さな頭を見下ろす。繋いでいた手が、急に焼けたように熱くなって。咄嗟に手を離そうとしたを、ジークフリートは離さなかった。縋るようにジークフリートを見上げたの顔色は、真っ青になっていて。ベールの影に隠れた小さな唇から、血と共に炎が吹き出す。倒れ込んだを抱き上げて、ジークフリートは神殿までの道を駆けた。

「ジークフリート様、様の容態は……」
「……数百年に一度の発作です。いずれは治まるものですが、それまでは……」
 見舞いに来た現王に、ジークフリートは重々しく首を振る。何もできない自分が歯痒く、それは王を含めを慕う誰もが抱いている感情だろう。
様は、元は人です。アルスター島の真龍は、王家の魔力を借りて器を定期的に作り直していましたが……様は人の身を有しているが故に、直接自らの体を『作り直さ』なければならないのです」
「……それは」
「生きながらに、体の自壊と再生が繰り返されています。 ……その苦痛は、察するに余りあるかと」
 ジークフリートの言葉に、王が息を呑む。その周期の長さ故に直接目にする者も少ないこともあり、守護竜の器の再生についてはフェードラッヘでもあまり知られていない。今ジークフリートが背にしている扉の影では、が業火の中独り苦しんでいる。この世の誰にも分かち合えない、歪められた命の痛み。ジークフリートがの血を受ける時とは比にならないほどの、人の領分を超える代償。
「我々に、できることはございますか」
「……当分、この神殿には人を近づけぬようお願いいたします。今、この石室は火の海なのです。魔術がかかっておりますので、炎が漏れることはありませんが……万一『事故』が起こっては、様が嘆かれます」
「……承知しました。特に子どもたちには、よく言って聞かせます」
 ジークフリートの言わんとすることを察した王は、誓うように胸に手を当て頷く。常人には到底耐えられない業火が誰も傷付けることのないように、この神殿は作られたのだ。可憐な容貌も、ふわふわと広がる長い髪も、赤子のように柔らかい肌も、全てが焼け爛れて。人の部分が焼け落ち、剥き出しになる半端な竜の身。その身は絶えず炎を溢れさせ、気の狂うような苦痛に晒される体は床をのたうち回り、爪や尾が石を抉る。ランスロットが、終ぞ目にすることのなかった姿だった。
踵を返した王を見送ったジークフリートは、振り向いて石室の扉に手をかける。はきっと、自らの悍ましい姿を見られることを恐れているだろう。眷属であるジークフリートはの炎に幾許かの耐性があり、多少体が傷付いたところで再生できるとは言っても、自らの炎が人を傷付けることにが悲しむことも十分に解っていた。それでも、ただ傍にいて手を握っていたいのだ。ジークフリートが血を受ける苦痛に耐えるとき、がジークフリートに寄り添って頭を撫でてくれるように。ジークフリートも、ただ寄り添っていたい。決して独りではないのだと、繋いだ手を通して伝えていたい。
「……様」
 後ろ手に扉を閉めて、閂をかける。僅かに顔を動かしたは、炯々と光る眼を音のした方に向ける。見えて、いないのだろう。聴力も、普段よりずっと衰えているはずだ。僅かに動いた唇らしきものが、掠れた音を漏らした。轟々と燃え盛る炎の音にかき消されたそれは、この部屋に入ったジークフリートを咎めていたのだろう。目を開けていられないほどの熱さが、本能的な恐怖をジークフリートに抱かせる。それでも炎の中へと歩みを進めたことが、の意思に反しているとしても。
様、」
 火柱の中に躊躇なく腕を差し入れ、矮躯を抱き上げる。燃え盛る炎そのものを抱きかかえているような感覚だった。瞬く間に燃えて炭化した自分の体は、すぐに再生する。真っ黒な棒きれのようになったの左手に、そっと口付けを落とした。唇が触れただけで崩れ落ちた手は、炎に呑まれて再び人の形を取り戻す。けれどそれも瞬時に燃え上がり、ジークフリートの頭部と共に灰に帰る。今のの右手は竜のそれであるために焼け落ちはしていなかったが、見境なく手近なものに爪を突き立てて痛みを逃がそうとしていた。抱き上げたの顔の半分は火に呑まれていたが、残った方の眼は虚ろながらもジークフリートの姿を映していて。今は聞こえないと知っていたから、ジークフリートはそっとの手を握って口を開いた。
「……ッ、」
 途端に、真龍の炎が喉を焼く。目も、口腔も、あっという間に水分を奪われて。張り付くような痛みも一瞬で、知覚もできない内に燃え上がる。
様……私は、あの十二年間、こうする、べき……だったのかも、しれません」
 今となっては取り返しのつかないことだと、解っていた。もしもの話に意味などないと、痛いほどに解っていた。この痛みも、この懺悔も、ジークフリートの自己満足だ。の痛みが和らぐわけでも、過去や未来が変わるわけでもない。だからこそ、今しか吐き出せない感情だった。
「救えないのなら、せめて……せめて共に、苦しむべきだったと……痛みに逃げる浅ましさを、お許しください、」
 繰り返し、焼け落ちて。繰り返し、口を開く。ひとつの炎になって混ざり合うこの時だけ、の『本当』に触れられている気がした。
「お許し、ください……様、あまりにも遅すぎた、私に……罰を、お与えください……あなたに、こんな宿業を負わせた、贖いを……」
 カルマの毒を除いても、アルマの存在が忘れ去られても、ずっと胸に残り続ける後悔。ランスロットのそれと似ているようで異なっている、への罪悪感。愛する人と同じ時を歩めなかったことが、ランスロットが自らに課した罰だとするならば。同じ痛みを分かち合った気になって、届かないのがジークフリートの贖いだ。置いて行かれる痛みも、人外に貶められた苦しみも、本当は何一つジークフリートには解っていないのだろう。それでも今、言葉にできないの剥き出しの心に、触れている気がした。
「……、」
 普段の火の粉とは比べ物にもならない劫火を吐き出すひび割れた唇が、誰かの名前を呼ぶ。炎に焼かれながらも目を見開いて、ジークフリートは懸命にその動きを読み取ろうとした。
 『らんす』
 ジュッと音を立てたのは、の目じりで蒸発した涙だった。がこんな苦痛を負ってまで、守ろうとしているもの。それが今更理解できた気がして、ジークフリートは目を瞠る。
 『らんす、やくそく、』
 ああ、きっとがランスロットと最期に交わした言葉は、約束だったのだ。ランスロットがのために築いた未来を、全うするという約束。どうか幸せに生きてほしいと。成長し、大人になり、老いて、看取られて。そんな一生を、歩んでほしいと。の未来など見ることができないランスロットは、真っ当な幸せをに願ってしまったのだ。
 『まだ、』
 紡ぎかけた言葉は、灼熱に呑み込まれる。ジークフリートの意識は、そこでふつりと途切れたのだった。
 
181009
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