『どうやら、ここでお別れのようです』
 弱々しくも穏やかに笑う、大好きな騎士。その命の灯火は、静かに消えようとしていた。
 『まだ、ずっと、お傍にいたかったのですが……人として死ぬことを、お許しください』
 ランスロットがフェードラッヘとの未来のために、人の領分を敢えて超えられなかったことをは理解していた。のためなのだ。ランスロットはいつも、いつだって、のことを一番に考えてくれて。を大切にしてくれるあまりに自分自身の望みはいつだって置き去りで、それが寂しいのだという我儘は終ぞ言い出せなかった。
 『様、どうか幸せに生きてくださいね』
 祖父と孫のようにしか傍目には見えないふたりは、愛し合う伴侶なのに。深い皺の刻まれた大きな手と、ふくふくとした椛のような手。繋いだ手は、ふたりの間にある時という壁を残酷なほど簡潔に示していた。微笑むランスロットの手に、頬を擦り寄せる。ランスロットがずっとを人に戻す術を探していてくれたことを、隠されてはいたけれど知っていた。思えばランスロットの半生はほとんどがのために費やされていて。それなのにどうしてこんなに幸せそうに笑ってくれるのだろう。こんなにもひたむきに愛して尽くしてくれた騎士に、返せたものはあったのだろうか。そんな不安を容易く打ち砕くのは、いつもランスロットの優しい笑顔だった。
 『様、パーシヴァルの老体を労わってあげてくださいね。ヴェインには、もっと甘えてやってください。孫みたいで楽しいと言っていたので。陛下は最近腰を痛めているようですから、抱き着くときは手加減してやってくださいね』
『うん、らんす、わたし、いい子にするよ?』
『ずっといい子にしていると、疲れてしまいますよ。ジークフリートさんとも、いっぱい遊んでください。たくさん遊んで、お仕事もして、ゆっくり大きくなって……様はきっと、とてもお綺麗に成長されるのでしょうね』
 皺だらけの手が、そっとの頬を撫でる。青い瞳は、の未来を夢見ていた。
 『上王陛下なのですから、厨房に突然突撃するのは勘弁してあげてください。木苺の茂みでお昼寝してはいけませんよ? 皆が心配してしまいますから』
『うん、』
『この部屋は……ちゃんと撤去してください。一生懸命、片付けましたから』
『……うん』
『それから……もっと、わがままを言ってください』
『わたし、わがままだよ?』
『そう思っているのは様だけです』
『むぅ』
『心も体も、健やかに成長して……たくさんの人に出会って、充実した人生を送って……たくさんの皺ができた可愛いおばあちゃんになったら、必ず迎えに行きます』
『らんす、来てくれるの?』
『はい、あなたの騎士ですから。様が幸せな人生を過ごして……良い人生だったと思って眠りにつけることが、俺の幸せです』
『…………』
『俺が今、そうであるように』
 満ち足りた笑顔が、最期だった。優しい手から、ふっと力が抜ける。はそれを呆然と見ていて、冷たくなる温度でようやく別れを理解して。
 『らんす……』
 その先は、言葉にならなかった。言い足りないほどの感謝も、愛情も、どれだけ伝えられていただろう。眠っているだけのように見えるランスロットは、けれどもうここにはいないのだ。父王であるカールを見送ったときと同じ、胸にぽっかりと穴が空いたような喪失感。言葉にできない感情を魔法のように見通して理解してくれたの騎士は、たった今空の向こうへと旅立った。はそれに、ついては行けないのだ。
 『……まってるね、らんす、おばあちゃんになるまで、まってるよ』
 この手が、握ったランスロットの手と同じくらいしわしわになるまで。そうなるまで幸せに生きたら、はようやくランスロットに追いつける。今すぐにでも追いかけたいほど悲しくて、揺さぶって起こしたいほど受け入れられなくて。それでも、のためにランスロットが築いてくれた全てのものを、投げ打つことができなかった。

様……」
 今日は膝に座ってくれないの隣に腰掛けると、がもぞもぞとジークフリートとの間に距離を開ける。密かにショックを受けながら距離を詰めれば、たしーんと尻尾ではたかれた。痛くはないが、繰り返しはジークフリートをたしたしと尻尾ではたく。頬を膨らませてぷいっとそっぽを向いたの姿は、いつもと変わりない愛らしい幼子の姿で。丸い小さな頭をそっと撫でれば、じとっとした視線が向けられた。
「おこってます」
「お怒りなのですか」
「おいかりです」
 ぷくぅー、と餅のように膨らんだ頬が愛らしい。怒られているのに呑気にそんなことに気が向いてしまうところは昔からの悪癖だという自覚はあった。
「はいっちゃだめって、ずっと言ってるよ?」
「申し訳ありません」
「ごめんですんだらきしだんいらないもん」
 ぷくぷくと膨らむ頬を、つい指先でつついてしまう。「もー!」とぽこぽこ怒るは、ジークフリートが何度言っても器の再生の場に来てしまうことを叱責していた。今回だって、石室の床で気が付いた時には隣にジークフリートが転がっていて。器の再生が終わったばかりで疲弊しているの力では、厳重に閉ざされた扉を開けることだって一苦労なのだ。ずるずるとジークフリートを引き摺ってへたり込んでいたを見つけてくれたのは定期的に様子を伺いに来てくれた王や騎士たちで、ジークフリートが自ら火の海に入ったことを知り何とも言えない顔をしていた。もう何十代も離れて血も薄れた子孫だが、王がジークフリートに向けた表情はどことなくランスロットがジークフリートに呆れた様子を見せたときのそれによく似ていて。確かに繋がっているのだなあと、ジークフリートの体に溶けて張り付いてしまった鎧を容赦なく剥がしながらは思ったのだった。
「よろいげんきん」
「ですが、ただの服ですと燃えてなくなってしまいます。様に見苦しいものをお見せするわけには」
「おへやに入らなきゃいいとおもうの」
 そういえば自分は裸を見られているのだと気付いただが、裸どころではないとも気付いてその件は思考の外に打ちやる。の服はジークフリートが石室の外に用意してくれていたが、ジークフリートは着替え以前に外科手術レベルの大怪我である。癒着した金属鎧を剥がした先から癒えていくので、最初は悲鳴を上げていた騎士たちも途中からを手伝ってくれたが、呑気に起き上がった真っ裸の男を見てやはり何とも言えない顔をしていた。そっとの目を隠してくれた王と、ジークフリートにマントを差し出した騎士。謎の連携ができあがっている中マイペースに礼を言ったジークフリートに、ウェールズ出身だと以前言っていた騎士だけが果敢に説教をしていたのだった。
「ペレディル、ジークにおせっきょうしたあとすごくつかれてたよ?」
「今度、のど飴を差し入れしておきます」
「もっとおこるとおもうなぁ……」
 のほほんとしたジークフリートに、はもはや説教を諦めて項垂れる。ジークフリートがをひょいっと抱き上げて膝に抱えるが、今度はされるがままだった。
「……あぶないんだよ?」
「そうですね」
「ジーク、しんじゃうかもしれないんだよ?」
「……そうですね」
「ジークしんじゃったら、わたし泣くんだよ?」
「…………」
「いっぱい泣くんだよ」
「……はい、申し訳ありません」
 を泣かせてしまっては、空の向こうでたくさんの人間に殴られるだろう。ランスロットたちだけではない、が今までずっと慈しんできた、フェードラッヘの命たち。が生きてきた道筋を証す人々。ランスロットが目指した未来に、生きていた者たち。が愛し愛された証だった。
「もうしない?」
「…………」
「もう、しない?」
「……はい」
「ジーク、こっちみてお返事するんだよ?」
「…………」
「もー! ジークわるいこ! いっぱいわるいこ!」
 振り向いたに、ぎりぎりと頬を抓られる。さすがにこれは痛かったが、ジークフリートはの気が済むまでされるがままにしていた。
の体は、人と竜が混ざり合っている。人の部分は幼子だが、竜の部分は成体なのだ。なまじ外見が人らしいためにそうは思えないが、の体組織のほとんどはファフニールのそれである。人の部分は、ほんの薄皮のようなものでしかなかった。竜としては完成しているが故に成長が止まり、人の部分が成長しようとするとそれを老いや衰えと認識して器の再生が始まる。だからは、ずっと大人になれないのだ。ランスロットの予想を、大きく超えてしまったの未来。長きに渡るであろうの人生が寂しくないようにと心を砕いたランスロットは、の行く先に終わりが見えないと知っていたなら同じ道を選んだだろうか。とうに眠った弟子の想いに、たらればを考えても詮無いことだとはわかってはいても。
「ずっと、お傍におります」
「……むぅ」
 頬を抓るのをやめたは、ぺたぺたと頬や首を触る。の炎に呑まれたジークフリートに、異常がないことを確かめるように。
「……いつも、ありがとう、ジーク」
 伝えても伝えきれない感謝を、拙い言葉に精一杯に込める。をそっと抱き締めて、ジークフリートは静かな頬笑みを浮かべた。

「……ジークフリート様、この貼り紙は」
様にいただいたのだが」
 修理に出していたジークフリートの鎧を届けに来た騎士が、ジークフリートの部屋に貼られている紙を指さす。件のウェールズ出身の彼は、『ついてきちゃだめなばしょ』と書かれた紙の内容に何とも言えない顔をした。
「『おふろ』『トイレ』『女子かい』『石のおへや』……」
 守護竜の再生の場が、風呂や女子会と同列で良いのだろうか。思春期の娘とその父親のようなやり取りに、妙な人くささを感じてしまい脱力するのであった。
 
181011
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