神殿の庭園で、ジークフリートは大木に背中を預けて静かに佇んでいた。視線の先にはと、最近剣の修行を始めたという王子。伝説の騎士の名を与えられた小さな王子は、自らに剣の才も戦いの才もないことに落ち込み、の元を訪れたのだった。一生懸命王子を励ますを、ジークフリートは目を細めて見守る。はいつでも、子どもたちを、フェードラッヘを愛している。また見送ることになると知っていても、愛することから遠ざかりはしない。そのひたむきな姿が、どうしてか少しだけ痛ましく思えた。
「ジークフリート様、こちらにいらしたのですか」
「……ああ、ペレディルか。どうした?」
「この度白竜騎士団団長への就任が決まりましたので、ご挨拶をと思いまして」
「わざわざ俺に挨拶することもないだろうに……律儀だな」
 ふ、と表情を緩めるジークフリートに、「そういうわけにもいかないでしょう」と騎士団長の青年は肩を竦める。
「お前は確か、ウェールズの王位継承権もあっただろうに……この国に骨を埋めるつもりなのか?」
「はい、王位継承権は放棄しました。元より三男坊ですので、玉座への未練もありません。今の私は紛れもなくこの国の民ですから」
「……そうか」
様にもご挨拶をしたいのですが……後にした方が良さそうですね」
「ああ。殿下が泣き止むまで、少し待っていてくれるか」
「もちろんです。 ……様は、普段は子どもたちと一緒に駆け回っていらっしゃるのに、こうして見ると『母』だと強く感じます。不思議なものですね」
 ふたりが視線を向けた先では、ぐすぐすと己の無能を嘆く少年の顔を優しく拭うがいた。あれやこれやと『ランスロット』の生前の話を語ってみせるに、少年は泣いていたことも忘れて話に聞き入る。カニだの褌だの部屋が汚いだの、到底『伝説の騎士様』とは結びつかない話の数々に新騎士団長は顔を引き攣らせていた。
様は、ランスロット様がだいすきなのですね!」
 無邪気な笑顔が、花開くようにに向けられる。は、ふわりと柔らかい頬笑みを浮かべてその言葉に頷いた。
「うん、わたし、らんすのこと大好きなんだよ!」
 迷いのない、愛の告白。受けるべき相手を失くしたその言葉を、ジークフリートは静かに聞き届けたのだった。

 が生まれた日。あまりに小さく脆い赤子に触れることが、恐ろしくさえ思えた。弱々しく柔らかい指が、ジークフリートの指を握り締めて。『姪をよろしく頼むぞ』というヨゼフ王の言葉に、しっかりと頷いた。
 は祝福された子どもだった。家族に愛され、民に愛され、健やかに育ち。ジークフリートが時折惑うほどに、は無垢で無邪気で、ただただ尊かった。その優しい世界を、一片の欠けもなく守り通したかった。優しい世界を疑うことなく愛し続ける稚さを、失わせたくなかった。世話役である少年騎士と過ごす姿を見るうちに、その想いは日増しに大きくなっていった。彼らの優しい世界は、ジークフリートの守るべきものの象徴だった。
 慟哭の谷へ旅立つへ、随伴したあの日。ランスロットとの別れに泣き腫らした目を冷やしてやっていたイザベラが、その腹の中で企んでいたことを見抜けていたなら。王女は立派に真龍封印の任に就いたと言って竜の巣から出てきたイザベラを、少しでも不自然に思えていたなら。慟哭の谷に何度も訪れた中でたった一度でも、に面会したいと強く言えていたのなら。イザベラに怒りを向けた部下が殺される前に、その言葉の意味を問えていたのなら。後悔をいくら拾い上げてもきりがない。ランスロットとの健やかで幸せな未来を、守れていたのかもしれないと思うと。いくら慙愧に胸を掻きむしっても、まるで足りなかった。
「らんす……」
 ジークフリートの太腿に頭を預けて、午睡にまどろむ。その寝顔は、ただ幸せそうで。ふにゃふにゃとした可愛らしい声で、愛しい騎士の名を呼ぶ。きっと王子にランスロットの話をたくさんしたから、懐かしい日の夢を見ているのだろう。黒髪だがランスロットというよりはの面差しがある王子の顔を思い浮かべながら、ジークフリートはそっと柔らかな癖毛を撫でた。
「らんしゅ、……ふふ」
 ランスロットは、の髪を撫でるのが下手だった。いつもガチガチに緊張して、壊れ物に触れるように。王配になってからも主従の感覚の抜けきらないランスロットは、に触れることを恐れてもいた。
(怖かったのだろう)
 一度だけ、生涯でたった一度だけ、に拒絶されたあの日。ジークフリートに向けた憎悪と刃が、を泣かせた日。ランスロットの生涯の悔恨となったその出来事が、いつもランスロットを躊躇わせていた。どんなに言い繕っても、誰かを傷付けた手だ。壊してしまうのが怖くて触れられない気持ちは、ジークフリートにも覚えがあった。ジークフリートが守れなかった、彼らの優しい世界。あの疵こそが、今なお続くジークフリートの後悔だった。
様……あっ、ごめんなさい」
「……殿下。このような姿で、失礼いたします」
「ううん、様のお昼寝の時間だから、いいんだ」
 ごそごそと茂みを潜ってやってきた王子に、立ち上がって姿勢を正すこともできないジークフリートは頭を下げる。ふにゃりと笑って鷹揚に頷いた王子は、音を立てないように気を付けながらジークフリートの隣に座り込んだ。そわそわとした王子の様子を、ジークフリートは静かに見守る。王子がさっと隠した傷だらけの手には、気付かないふりをして。の緩み切った寝顔を見下ろして、王子は呟いた。
様は、ずっとこのお姿なの?」
「ええ、そうです」
「ぼくたちのご先祖さまだって、父上がおっしゃってたけど……様、赤ちゃん産むの大変だっただろうな……」
「……はい。様とランスロットの間にはご子息が一人でしたが……たいへんな難産であったと、記憶しております」
 今でも、鮮明に思い出せる。の泣き叫ぶ声。悲鳴に近い産婆や侍女たちの声。ランスロットが、ずっと傍で手を握り締めて励まし続けていたのだそうだ。戦場のような声ばかりが聞こえる部屋の外で、ジークフリートもカールもずっと口を引き結んで立ち尽くしていた。
「そうだよね、こんなにちっちゃいのに……王様だったから?」
「確かに、王としての義務の一環ではありましたが……親戚から養子を迎えるという話もあったのです。様もランスロットもたいへんに悩んで……考えて、考え抜いて、御子をもうけました」
「……それは、どうして?」
「ひとつは、国の為です。親戚といえど、遠戚の者ばかりで……血が薄れると、王権の弱体化を危惧する声もありました」
「…………」
「ですが、それ以上に様がお望みになりました。どんな危険を伴っても、愛した人と一緒なら後悔はしないと。ランスロットも、様を支える覚悟を強く持っていました」
 なまじ、竜の自己回復能力が高すぎるが故に壮絶であったと、産婆は顔を真っ青にしていた。小さい体には重すぎる負担と、それを回復してしまえる血。最終的には、医師がの腹を裂いて赤子を取り上げたのだそうだ。あっという間に塞がった腹と、元気な産声。凄絶な光景にガタガタと震えるランスロットを抱き締めて、はずっと「ありがとう」と語りかけていた。
「今はもう、ほとんど薄れたらしいけれど……様の竜の血が、ぼくたちを守っていてくださるんだって。病気にも罹りにくいし、怪我の治りも早いし……ぼくも、稽古でいっぱいアザができてもすぐに治るんだ」
 とランスロットの息子は、ほどではないが長く生きた。不老でこそなかったものの、老いも緩やかで。フェードラッヘの王が代々長命であるのはそのためだ。中にはその体の頑健さを強みにして、生涯のほとんどを戦場で過ごした乱世の王もいた。
様に、お礼を言おうと思ったんだ。きっと、すごく辛かったと思う。それでもぼくたちのご先祖さまになってくれて、ありがとうって」
「……きっと様は、その言葉にお喜びになられます」
 ランスロットにとってはあまりに衝撃的な出生だったが、たちの息子は健やかに育った。しばらく肉が食べれなかったとぼやいていたランスロットも、息子の成長を目を輝かせて語って。が早くに退位したために親としてより臣下としての振る舞いをすることが多かったが、それでも親子仲は良好だった。
 ――昔、パーシヴァルや様と冗談を言ったことがあるんです。様のために俺は医学を修めるべきかって。
――医学を修めていて良かったと、あの時本気でそう思いました。そうでなければ、取り乱して医師に掴みかかっていたでしょうから。戦場とは違う、恐ろしさでした。
 開腹手術は、あの時代まだ一般的ではなかった。医学的には正しいことだとわかっていても、ランスロットは強い恐怖を抱いたことだろう。自力での出産が難しいのために、万が一に備えて色々と準備をしていたらしいが。唯一の主にして伴侶の腹が裂かれたとき、ランスロットは何度も震える手を握り締めたという。当然の恐怖だと、ジークフリートはランスロットの勇気に敬意すら抱いた。産声の少し後、侍女たちに呼ばれて部屋に招かれて。床にへたり込んで真っ青な顔でに頭を撫でられているランスロットを見た時は、状況の理解に苦しんでいたものだ。侍女たちに哺乳瓶を手渡されたが、四苦八苦しながら息子にミルクを与えて。その次に授乳を担当したランスロットの手は、見てわかるほどに震えていたのだ。
 ――ありがとう。
 小さな命を見て静かに呟いたランスロットの表情は、を見るときとはまた違う慈しみに溢れていて。が生まれた日のことを、少しだけ思い出した。守るべき命が増えたことを、心の底から喜ばしく思った。
「ジークフリート様。ぼく、ランスロット様みたいにはきっと、なれないよね」
「……殿下がお望みになるのであれば、きっとどのような御方にもなれるでしょう。ですが、無理に誰かを真似る必要もありますまい。殿下は殿下なのですから」
「うん……ありがとうございます」
 王子はきっと、『伝説の騎士ランスロット』にはなれないだろう。けれどきっと、良い王になる。努力を怠らず優しさを忘れない、フェードラッヘの王らしい子だ。
「むぅ……?」
 さすがに近くで話し込んでいた声で起きたのか、がぱちぱちと目を瞬く。身を起こしたは、寝ぼけ眼を擦りながらふわふわと微笑んだ。
「ランスロット、いいこいいこ」
 王子の頭に手を伸ばして、はわしゃわしゃとその癖毛をかき回す。「ひゃっ!?」と高い声を上げた王子は、あたふたと慌てている。王子の癖毛をくしゃくしゃにして満足げにむふーと胸を張ったは、ふにゃっと綿飴のような笑顔を浮かべた。
「ランスロットはいいこなんだよ、わたし知ってる!」
「ひゃっ、ひゃいっ!?」
「ディーデリヒも知ってる! あとね、ペレディルも! ジークも知ってるんだよ!」
「はい、存じております」
「だからね、だいじょうぶだよ?」
 そっと少年の手を取って、はその手をそっと撫でる。血豆の潰れた痕に触れないように、優しく慎重に。期待に押しつぶされそうな子どもを、そっと抱き寄せた。
「だいじょうぶ、ランスロットはいいこだって、みんな知ってるんだよ」
「……ぅ、」
 ぽろっと、不意に零れた涙。愛し子の努力の証を包み込み、涙を拭ってやる。ジークフリートは、ちらりと木陰に視線を向ける。そこにはおろおろと佇む王妃と王と、薬箱を抱えた騎士団長の姿があって。竜の姫君の翼に隠れて泣いた記憶は、王子だけのものではない。フェードラッヘの子は皆、の庇護の元で安らぐのだ。そうして立派に成長し、今度は守る者となる。幾重にも連なって繋がれてきた、優しい愛の記憶。郷愁の少女は今日も、哀しいほどに稚い。
「無理しちゃだめなんだよ?」
 ――無理しちゃだめなんだよ? らんす、
 優秀であるが故に、いつも働き詰めだったランスロット。小さな王女に手を引かれて寝室へと連行されるランスロットの姿は、王城の名物にすらなっていた。苦笑したジークフリートもヴェインもに見つかり、ぽこぽこと頬を膨らませるに部屋に押し込まれたことを覚えている。そして時には自身も、パーシヴァルに捕獲されて部屋に放り込まれて。みゅーみゅーと鳴きながら抗議するを庇いに駆け付けたランスロットとパーシヴァルが、小競り合いを起こして。そして揃って、カールに叱られた。容赦のない拳骨をに落とすのはカールくらいなもので、きゅうっと目を回したをさっさと布団に放り込む手際は見事な親のそれだった。
「ランスロットがいっぱいいたいと、みんなもいたいんだよ?」
 王子の頬をちょっとだけ抓るに、王子はへにゃりと泣き笑いを浮かべる。ジークフリートの視線で察した国王夫妻と騎士団長が、わらわらと駆け付けてきて。無茶な修行で痛めてしまった掌に、心配そうに眉を下げる。きっともう大丈夫だ、とジークフリートは思う。もう少年は、伝説を重荷には思わないだろう。そっと王子から離れたが、ジークフリートの手を引く。首を傾げるジークフリートに、はふにゃりと笑った。
「いかがなさいましたか? 様」
「なんでもないんだよ?」
「なんでもないのですか」
「うん、なんでもないの」
 ふたりでひっそりと、踵を返す。明日からはきっと、少しだけ寂しくなるに違いない。ここのところ毎日のようにの元へ駆け込んでいた少年が、の庇護がなくとも顔を上げられるようになったから。まれびとは日常に帰り、明日からはまた優しくて少しだけ寂しい日々が始まる。いつかは彼の枕元で、幼かった日々を語るのだろう。そして彼は空の果てで『ランスロット』に会うとき、によく似たあのふにゃりとした笑顔を浮かべるのだ。
「ジーク、あのね、」
「はい、様」
「あのね……、」
 うまく言葉にできないようで、は困ったように眉を下げる。きゅうっと、繋いだ手に力が入る。は何度か言葉を探すように口を開けては閉じてを繰り返していたが、やがて諦めたように唇を引き結んだ。ぽすっと軽い衝撃とともに、がジークフリートに抱きつく。ぽふっとジークフリートのお腹に頭を押し付けたは、泣いてはいなかった。震えてもいない。悲しんではいないようだが、ジークフリートにはわからない。いくら憶測を重ねても、その心に辿り着く道はない。だからジークフリートは、そっとの背中に腕を回す。僅かに腕に伝わる、の温度。今はこの体温だけが、確かだと言えるものだった。
 
181107
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