「……?」
気付けばは、深い森の中にいた。ついさっきまでは、ランスロットたちと王城を歩いていたのに。
「らんすー……? ヴェイン、ジーク……?」
繋いでいたはずの手の先には誰もなく、鬱蒼と草木の生い茂る森は王城のそれとは違い日の光がほとんど差していない。濃い土と緑の匂いと、柔らかく沈み込むような足元。空を見上げてみても、網を張り巡らすように枝葉を広げる木々に遮られ青色はほとんど見えない。ここはどこなのだろう。どうして自分はここにいるのだろう。理解できない現状に、はおろおろと辺りを見回す。今日のおやつは俺が作ったんですよとにっかり笑ったヴェインも、それは楽しみだなと柔らかい笑みを浮かべたジークフリートも、はしゃぐが転ばないようにと手を繋いでくれたランスロットもここにはいない。
「らんすー、らんす、どこ……?」
例えここがどこであろうと何が起きていようと、ランスロットがいたならはこんなにも怯えなかっただろう。ランスロットに寄せる絶対的な信頼は、を強く支えている。ランスロットがいれば何でもできるような気がして、ランスロットがいればどんなことでも何とかなるような気がして、けれどここにの一番の騎士はいないのだ。
「らんすぅ……」
呼んでも応えはなく、深い森の静寂に声はただ呑まれて消える。声が聞こえたなら絶対に駆けつけてくれるランスロットが来ないということは、は独りなのだ。見知らぬ場所で独りきりで、ここがどこなのかも、どうすれば王城に帰れるのかもわからない。混乱が収まってくれば代わりに湧き上がってきたのは胸の中に重い氷が落ちていくような恐怖で、はぎゅっと手を握りしめてその場に立ち尽くした。せめて何か動くものの影でもあれば良かったのかもしれないが、この森は不気味な程に静かなのだ。グランサイファーで誰かに教わった森で迷ったときの歩き方を思い出そうとするけれど、どうしてか思い出そうとすればするほど『こわい』という気持ちばかりが溢れていく。とうとうじわりと滲んだ涙が雫となって零れ落ちそうになったその時、ガサッと茂みを揺らす音がの背後から聞こえた。
「……ッ!?」
「人……?」
勢いよく振り返った拍子に、涙がぼろっと零れる。振り向いた先で訝しげに首を傾げたのは、どこか見覚えのある雰囲気の少年だった。
「……不可思議な現象だな。だが、嘘とも思えない」
人に出会えた安心感でびゃあっと泣き出したを開けた空き地に連れてきた少年は、が名乗ると「……ジークフリートだ」と返した。ぐすぐすと収まってきた涙をハンカチで拭うを、ジークフリートは油断なく観察する。異形のような風体ではあるが、魔物ではない。身なりや仕草からして、明らかに人の社会、それも相当に恵まれた環境で生きている子どもだ。このような辺境に、少女のような身分の者は屋敷など構えていない。物好きな貴族が旅行に来たという話も聞いていない。『おうと』にいたのに何故か突然この森にいたのだというの話は、突飛ではあるが信憑性はあった。
「……噂話に過ぎないが、この森では時々奇妙なことが起こるらしい。そういうことだろう」
「う……ジークフリート、王都しってる?」
「おうと……それは街の名前か?」
「? 王都はおうさまがいるところだよ?」
「……王都か? 知っているといえば知っているが……行ったこともない。一日や二日で帰れる距離でもないぞ」
「え……」
呆然と目を見開くを前に、ジークフリートもどうしたものかとわかりづらく眉を寄せる。何となく連れてきて話を聞いてしまったが、途方に暮れている少女に自分はどこまでしてやる気でいるのか。自分より年上に見えるのに物言いの幼いこの少女は、ジークフリートの助けがなければこの森から出ることすら危ういだろう。かといって、ジークフリートが王都までこの少女を送り届けてやれるかと問われればその答えは否でしかない。
「知り合いや血縁が、この近くにいたりはしないのか」
望み薄だが、頼れる者が近くにいれば保護してもらうこともできるだろう。ジークフリートの問いにううんと眉を下げたは、ふと思いついたようにパッと顔を明るくした。
「騎士団の『ちゅうとんち』、あるかなあ?」
「……騎士団?」
「はくりゅうきしだん、あちこちに『ちゅうとんち』あるって、らんす言ってたよ?」
「白竜騎士団とは……そんな名前は聞いたこともないが」
「え……? ら、らんすろっとは? 騎士団長の……」
「フェードラッヘの騎士は皆、ほとんどが王都に仕えている。白竜騎士団という名も、ランスロットという名も聞いたことがない」
お前はどこの国から来たのだというジークフリートの言葉に、は頭が真っ白になる。ジークフリートの言葉はの中では矛盾している。ここがフェードラッヘであるなら白竜騎士団は存在するはずで、白竜騎士団がいないならここはフェードラッヘではないはずなのだ。けれどジークフリートは、ここは白竜騎士団のないフェードラッヘだと言う。
「あ、あのね……」
「どうした」
「今のおうさま、誰かなあ?」
王都から来たはずの少女の問いにジークフリートは明らかに訝しそうにして、それでも口を開いて答えを与える。そしてその答えに、は愕然と目を見開いたのだった。
「……落ち着いたか」
「うん……」
「水は持っているか」
「ううん……」
「俺の水筒でよければ、飲むといい」
「ありがとう……」
よく泣く子どもだ、と嫌味ではなく単純な感想としてジークフリートは思う。ちみちみと水を飲む少女は、本人やジークフリートが思っているよりも遠くから来てしまったらしい。二度目の大泣きをした少女は、憔悴した面持ちで口を開いた。
「あの、ね、わたしのいたところも、『フェードラッヘ』なんだよ? でも、ここはちがう『フェードラッヘ』みたい……」
「……同じ名前の異国ということか?」
「……たぶん」
ジークフリートもあまり他の島のことを知っているわけではないが、少なくとも知っている範囲に他の『フェードラッヘ』など存在しない。もしかしたら空域を超えている可能性すらあるな、とジークフリートは腕を組んだ。
「あの、ジークフリートって、ジーク?」
少女の唐突な質問に、ジークフリートはパチリと目を瞬く。その仕草にはある確信を得たが、ジークフリートがそれを知る由もなかった。
「……愛称をつけるとすれば、そう呼ばれるのだろうな。生憎と、呼ばれたことはないが」
「……うん、そっかあ……あのね、ジーク」
は、目の前にいる『ジークフリート』が、自分の知る彼と同一人物なのだと思った。そしてそれは、おそらく間違っていない。無造作に伸ばした栗毛と、土に汚れていても整った顔立ち。傷だらけの甲冑と、背丈ほどもある大剣。ぼろぼろの外套。そして何より、時折浮かぶ表情や仕草が、不器用ながらもを慈しんでくれる騎士の姿に重なって。目の前の少年はよりも幼く見えるのに、その表情は乏しく態度や物言いは大人びている。ほとんど感情の色が浮かばない目は鋭い光を宿してはいたが、への敵意はそこに見当たらなかった。
「あのね、その……はじめまして、ジーク」
「……? ああ」
敢えて『はじめまして』を言った理由を、ジークフリートは知らない。ここはきっと過去の世界だ。どうしてかはわからないが、はジークフリートの過去へ巡り合ってしまったらしい。どうしてそんなことが起こったのか、何か意味のあることなのか。それはわからないけれど、目の前にジークフリートがいることでの不安は晴れていく。だってジークフリートは、ランスロットが師と敬愛する英雄で。目の前の彼は幼く、の騎士でもランスロットの師でもない。それでもきっと大丈夫だと、どうしてかそう思えたのだった。
180726