姉は綺麗な人だ。ランスロットはずっと姉のことが自慢だった。優しくて自立していて、芯の強さを秘めた女性。彼女を姉と呼ぶことのできる存在に生まれたことは、人生最大の幸福のひとつと言っても過言ではない。それほど、ランスロットは姉のを深く愛していた。
優しくも時に厳しく、愛情深く育ててくれた姉。ランスロットが難しい書を読破すれば柔らかな笑顔で褒めてくれて、度を過ぎたイタズラをすれば拳骨をもって叱り、正論に言い返せなくなった大人がランスロットに暴力を振るおうとすれば自らの体を張ってまで守ろうとしてくれた。頭の良かったランスロットだったが、に勉強を教えてもらいたくてわかるものもわからないものも一緒くたに抱えて姉の部屋のドアを叩いた。ひとりでどこにだって行けるという自尊心はあったが、姉と少しでも一緒にいたくておつかいはいつも姉の手を引いて連れ出した。ランスロットはいつだって姉に褒められたくて、姉の自慢になりたくて、姉に見ていてもらいたかった。優しくて賢くて綺麗で強いを、ランスロットは心の底から尊敬して愛していた。だからランスロットが騎士の推薦を受けたあの日、我が事のように喜んでくれた姉の姿に、ランスロットはとても心が満たされたのだ。もっとすごく、もっともっとがんばれば、姉はまた喜んでくれるだろうか。あの頃のランスロットの行動原理は、笑ってしまうくらい不純な純情だった。
「ランスロット、どうかしら。おかしなところはない? 化粧がくどかったりはしない?」
「……綺麗だよ、姉さん。服も化粧も、よく似合ってる」
「ほんとう? あなたがそう言ってくれるなら、安心ね」
 そわそわと鏡とランスロットの間で視線を行き来させるは、普段はもっと落ち着いていて口数も少ない。このはしゃぎようがランスロットのためであれば良かったのにと少し寂しい気持ちで、けれど姉の心躍る様子は可愛らしいと思った。
学者になった姉はいつもフィールドワークだとか言って髪に葉っぱをつけたり頬に土をつけたりしたまま飾り気のない格好で歩き回っているのに、今日は珍しくふんわりとしたスカートを穿いて化粧までしている。そわそわと落ち着きなく髪に手をやるに、そんなに気にしなくても元から十分綺麗で可愛いのに、とランスロットは思った。今度は窓の外にちらちらと視線を向け始めたが心待ちにしているのは、恋人のジークフリートだ。尊敬する騎士団長が姉と交際を始めたと真剣な顔でランスロットに打ち明けたとき、ランスロットは大きな衝撃を受けたものだ。どうしてか、それまではちっとも姉に恋人ができることを考えていなかったのだ。本人が草木や地質に夢中で、色恋沙汰に見向きもしないことにランスロットは少なからず安心していたのだ。ジークフリートであれば反対する理由は何もない。彼はフェードラッヘの誇る英雄で、人格の面でも優れている。何より、姉はジークフリートのためにこんなにも表情をくるくると変えて幸せそうにしている。何も不満は、ないはずだった。
「……姉さん、髪に花びらがついてる。そそっかしいのは相変わらずだな」
「え? おかしいな、今日は草むらに入ったりしてないのだけれど」
「俺が取ってあげるから、じっとしていてくれ」
「ありがとう、ランスロット」
「ほら、取れた……、」
 ランスロットと揃いの黒い髪に引っかかる花びらを指で摘んだランスロットは、見下ろしたの首筋にあるものを見つけて真顔になる。それまで柔らかい苦笑を浮かべていたランスロットの表情がすうっと冷えて、は急に静かになった弟を不思議そうに振り向いた。
「どうしたの? 毒でもある花だった?」
「いや……何でもないよ。それより、髪の先が跳ねてる。梳かしてやるから、そこに座って」
「くせ毛なんて、元々なのに……ランスロットだってそうじゃない。あなたは男だからいいけれど」
「いいから。ジークフリートさんの前では、可愛くいたいんだろ?」
 口を尖らせるの両肩を押さえ、椅子に座らせる。櫛とリボンを手にしたランスロットは、黙々と姉の髪を整えていった。
「…………」
 姉は気付いていないのだろう。白いうなじに残された、赤い痕。いくつか重なるようにつけられているそれは、鬱血痕だ。肌に散る花にも例えられるそれが何を意味するのか、わからないような子どもではない。姉は、ジークフリートと肌を重ねているのだ。
「……姉さんは綺麗だ」
 ぽつりと、本心がこぼれる。
「姉さんは、綺麗だよ」
 ずっとずっと昔から知っていた。ランスロットにとって一番の女性はいつだってだった。言葉にすれば陳腐になるほど、ランスロットはの美点を知っている。挙げていけばキリがない、それほどランスロットはのことを慕っているのに。ランスロットの本心にが返したものは、幼い弟を見るような優しいだけの笑顔だった。

 姉を迎えに来たジークフリートを出迎え、デートに出かける二人を送り出して。手持ち無沙汰になったランスロットは、ごろりと自室のベッドに転がる。姉やヴェインがこまめに掃除してくれている部屋は、帰省のときしか使わないこともあって殺風景なほど片付いていた。
「…………」
 ふと思い立って起き上がり、自室を後にして姉の部屋へと足を踏み入れる。城勤めのランスロットとは違って実家を活動拠点にしているの部屋は、適度に散らかっていて生活感があった。部屋の中に籠る草花の匂いに、姉を感じてふと頬が緩む。けれどそれも、部屋の様子を見てすぐにちくりと痛む棘へと変わった。
いつも紙とペンが広がっている机にあるのは、色とりどりの化粧道具。積まれた本の上に置かれたのは、今日は選ばれなかった髪飾り。ベッドの上にはああでもないこうでもないと姉が試行錯誤した結果の洋服がまとめて寄せてあって、ランスロットはそのうちのひとつをなんとなく拾い上げてみた。その青色のワンピースは、姉が昔こっそりと買ったものだということをランスロットは知っている。思えばそのときにはもう、姉はジークフリートに好意を抱いていた。特に帰省する先がないからと休暇中も城にいるジークフリートを、自分の生家へと連れてきて。憧れの騎士団長と一緒に過ごせることに浮かれていたから、大抵の男が聞き流す姉の研究の話にジークフリートが真剣に耳を傾けていたことにすら無邪気に喜んでいたのだ。あの頃は嫉妬なんて知らなかった。嫉妬なんてするまでもなく、ランスロットのだった。自分だけが姉を肯定的に受け入れられる、なんてどうして自分はそうも幼く思い上がっていられたのだろう。
元々生物への知的好奇心が強かったらしいジークフリートが姉と親密になるまで、そう長くはかからなかった。お互いに身なりを気にせず森で動き回ったり、じっと同じ場所でひとつのものを観察し続けていられる性分であることもその一因だろう。気付けばジークフリートはランスロットを介さず姉の元を訪れるようになっていて、騎士団の同期と休日に出かけた先で姉と並んで歩くジークフリートを見たときにようやく抱いた危機感はあまりに遅すぎた。どこに行くにも飾り気がない、そのはずだった姉は青いワンピースに身を包んでいて。
 『姉さん、今日は何だか子どもっぽく見えるね』
 帰ってきた姉にそんな意地悪を言ってしまったことを、ランスロットはずっと後悔している。あの日以来、姉がそのワンピースを着ているところを見ていないのだ。本当はとてもよく、似合っていると思ったのに。
「……、」
 ぼすりと、今度は姉のベッドに倒れ込む。少し崩れた服の山が、ランスロットの頭に雪崩れた。
は、ジークフリートを自室に招いたことはない。だからここはまだ不可侵域だ。ジークフリートはどこで姉の初めてを得たのだろう。「ほとんど帰らないがな」と言っていた下宿でだろうか。誰も知らない場所に、ジークフリート以外の誰も足を踏み入れない場所に、姉を招いて。そうして、姉を抱いたのだろうか。帰って寝るだけの場所だったはずのそこに、ランスロットの姉を組み敷いて。ジークフリートのためだけにが選んだ服を脱がせて。ランスロットと揃いの癖のある黒髪を、シーツに散らして。そうして、ランスロットだけのものだった唯一の女性を、その体を拓いて奪ったのか。
ぎゅ、と思わずシーツをきつく握り締めていた。姉は情事のときどんな顔をするのだろう。ジークフリートが年下の純朴な恋人に無体を強いるとは思えないから、ただただ幸福な睦み合いだったのだろうか。それとも姉は羞恥の涙を浮かべるのだろうか。ジークフリートの背中に爪を立てて、いやいやと首を振ってみせたりするのだろうか。ランスロットは知らない。恋人にだけ見せる姉の表情を、弟が知れるわけもなかった。
「姉さん」
 まだ情事に汚れたことのないシーツの上で、ランスロットは身を丸める。青いワンピースをぎゅっと抱き締めて、静かに目を閉じた。今日はは帰ってこない。ランスロットの分だけ夕飯を作って、鍵は閉めてしまっていいと言った。の肩をさりげなく抱いて歩いて行ったジークフリートは、髪に隠された痕を今日も新しく塗り替えるのだろうか。羨ましくて、恨めしい。のこともジークフリートのことも大切だから、ひとりだけ傷付いている自分自身がただただ惨めだった。
 
180914
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