「義勇さま」
 少し目を離していただけだったのに、何やら男に声をかけられていた。義勇の声に振り向いたの肩越しに、そそくさと去っていく男。何を話しかけられていたのかは知らないが、どうせあの表情を見るにまともな用ではあるまい。ため息を吐いた義勇は、の手から籠を取り上げる。慌てたが籠を取り返そうとするのを制止して、義勇はすたすたと歩を進めた。
「…………」
 けれど思えば、こうやって義勇ばかりが常に先を歩いているから、が話しかけられたり躓いたりする度にその姿を探して戻る羽目になるのだろう。ぴたりと足を止めた義勇の背に、ぽすりと軽い衝撃があった。慌てて離れようとするその体の軽さに驚き、思わず腕を掴む。そのまま右手に籠を、左手にの腕を掴んだまま歩き出した義勇に、は目を白黒させながらついてきた。
「ちゃんと食べてるのか」
「は、はい」
「俺がいないときもだ」
「はい」
「……今日は鮭大根は作るな」
「……えっ? 義勇さま、もしかしてお加減が、」
「違う」
「お、おいしくなかったですか……?」
「違う!」
 どうしてそういう方向に考えが及ぶのかと思うものの、背後のにどうやって全てを説明すべきか義勇は逡巡する。そもそも義勇は何かと説明を省きすぎる欠点があるのだ、「適切な栄養を摂っているか不安になるほど体に重みがないから義勇の好物など構わず高タンパクな食事を取れ」と伝えたいのに、そうする術を学ぶ場を今までの義勇はことごとくドブに捨ててきてしまったのだ。思い悩む義勇はの腕を掴んだまま立ち止まるが、上手い言葉が浮かばない。背後でおろおろとするは、物珍しげに自分たちを見る市井の視線にも怯えていた。は臆病なのだ。臆病で、いつも死に怯えていて、そのくせ自分の身を大切にしなくて、死の恐怖が迫るほどがむしゃらに刃を振るう。「生きたい」という一心で振るわれる刀はあまりにも無軌道で時には自身をも傷付けていたが、それでも義勇をしてそら恐ろしいと思わせる鋭さがあった。けれどいつまでもそんな刀を振っていては死んでしまう。執着、肉親、親しい人間、夢や野心――普通ならそういったものが引き留めてくれる命の限界に立ってもなお、は止まることを知らない。だから義勇はその襟首を掴んででも引きずり戻す人間であらねばならない。義勇が原因で壊れてしまった箍ならば、義勇が代わりにならなくては。周囲が思うよりずっと、義勇は情が深い人間だった。
「……お前の、」
「?」
「お前の好物は何だ」
 こうして問わねば好物すら知らぬのだと、義勇は内心肩を落としての答えを待つ。ぴくりと動いた腕からは動揺の気配が伝わって、けれどそこに嫌悪や拒絶の感情が見られないことに安心した。しかし背中の気配は動かないままで、それを訝しく思った義勇は背後を振り返る。そこには、奇妙な表情をして固まっているがいて。
「……お、」
 それが照れている表情だと気付いたのは、もじもじと手を擦り合わせた仕草を目にしてのことだ。の無表情ぶりは義勇と並ぶほどであるから、奇妙だなどと思ってしまったのだろう。
「おはぎが、すきです……」
「……そうか」
 なぜ好物ひとつ告げるのに顔を赤らめるのか、義勇にはわからない。義勇はについて知らないことばかりだ。あまりの自暴自棄ぶりを見ていられなかったから連れて帰ってきたものの、柱であるゆえの多忙さで共にいられる時間はとても少ない。その時間もほとんどを互いに無言で過ごしてきたから、ずっと知らないままでいた。思えば照れた顔を見るのだって初めてだ。義勇が知っているの表情など、いったい幾つあるというのだろう。
「…………」
 掴んでいた腕を離して、そっと手を繋ぐ。果たしてこれが正解なのかもわからない。はいつだって物静かでされるがままで、戦いの場以外ではぼうっとしていることの方が多いのだ。きっと義勇から行動を起こさなければ何もわからないし、変わらない。きょとんとしていると繋いだ手を軽く引き、隣を歩かせる。後ろにいては表情もわからないのだと、ようやく気付いた。
「他には」
「えっ、と」
「自分で食べたいものはないのか」
 その言葉でようやく、は義勇の意図を理解する。僅かな瞠目の後に、ふっと綻ぶような淡い笑みを浮かべて。今度は義勇が、「奇妙な顔」をすることになった。
「義勇さまのお好きなものならなんでも、私も好きなんです」
 だから鮭大根も本当に好きだから食べているのだと、は淡い笑みを浮かべて言う。
「でも、ありがとうございます。義勇さま」
 それは、今までずっと背にしてきたことが心底惜しくなるような。それほどまでに脆くて綺麗な、かたちをしていた。

「腕で攻撃を受けるな! もがれたいのか!」
 義勇の突きを反射的に腕で止めてしまったに、容赦ない叱責が飛んだ。まさに腕ごと持っていくような勢いで突きを放った義勇は、返す刀で鋭く胴を薙ぐ。脇腹に食い込むそれを抱え込んで動きを止め、首を獲るべく刀を振るうが手応えはなく。ぐんっと強い力で後ろ手に腕を捻りあげられて、義勇が背後に回り込んでいたことを知る。そのまま勢いよく地面に引き倒されて、強かに頬を打ち付けた。ぎりぎりと捻られる腕はびくとも動かなくて、は脚の仕込み刀で義勇を斬りつけようとする。けれどその瞬間に背中を膝で蹴るように強く押し付けられ、かはっと血の混じった息を吐く。それを見た義勇はを戦闘不能と見なしたようで、背中を圧迫する膝を退けた。そのままを引き起こし、切った口に容赦なく水を含ませる。いつも通りの、義勇に一太刀も浴びせられない訓練の終わりだった。
「あ、りがとうございました、」
「攻撃は受けるな、躱せと何度言えばわかる。肉を切らせて動きを止めるつもりでも、腕ごと持っていくのが鬼だ。毒や術を仕掛けられることもあるんだ、不用意に攻撃を受けるな馬鹿者」
「は、はい……申し訳ありません」
 今までずっと、そうやって鬼を倒してきたのだろう。毒を食らおうが、罠に嵌ろうが、馬鹿の一つ覚えのように目の前の頸だけを見て。死ぬ前に殺せば生き残れるのだと、頸に刃を振り下ろすその一瞬のためならどんな苦痛でも負ってきた。何かを差し出さなければ勝てないほどに弱いから。勝ったと思わせるその一瞬が、敵の得物が身を貫くその一瞬が、唯一にして最大の勝機だったから。けれど鬼はそう易い敵ではない。防御した腕ごと頭を持っていくような膂力を持つものもいれば、掠っただけで致命傷となるような毒を持つものもいる。がこんな戦い方で生き残ってこれたのは、単に運が良かっただけだと義勇は切り捨てた。
「今目の前にいる鬼だけが敵か? 戦いはその後も続く、常に万全の状態で戦えるわけでもない。自ら傷を負いにいく隊員など足でまといだ、そんなことをするなら戦いになど出るな」
 義勇の言葉は鋭いが、事実である。を案じる想いも確かに含まれているその叱責を、は泣くこともなく真剣な面持ちで受け止めていた。
「……呼吸を極めろ。水の呼吸は防御に優れている」
「はい、義勇さま」
 義勇の訓練は、いつだって実戦一本勝負だけだ。一切の手心なく叩きのめし、容赦なくの弱さや欠点を晒す。散々打たれた体はきっと、明日には痣だらけになっているだろう。鱗滝のそれより遥かに容赦のない訓練はしかし、の感覚を確実に人のそれへと戻しつつあった。
「立てるか」
 そう問いながらも既に、義勇はの腕を掴んで引き起こしてくれていた。呼吸を使って痛みを鈍くしているに、義勇は眉を顰めた。全集中の呼吸を使いこなせるように鍛錬するのはもちろん推奨すべきことだが、痛覚を鈍らせていてははすぐにころっと致命傷を食らって死んでしまいそうな気がしてならない。痛みは身体の発する危険信号だ。それを無視し続けていなければ戦えないというのならいっそ、
(剣士など辞めてしまえ)
 そんなことを言う資格など、義勇にあるのだろうか。少し近くなったつもりでいても、隣にいる存在はこんなにもわからない。目を離したら死んでしまいそうなところが危うくて、義勇との訓練で多少は生き急ぐような戦い方も改善されてきたものの、その根底がわからない。けれど、そこに踏み入ることを躊躇わせるのは自らの罪悪感だ。が本来どんな生き方をしていたのか、どんな道を歩むはずだったのか、義勇にはわからない。本当はよく泣きよく笑い痛みを忌避する、ありふれた普通の少女だったのではないかと思ってしまう。義勇を恩人であるかのように慕うを、一度は見捨てているのだと。せめて事後処理に隠が駆け付けるまで、その場に留まっていたなら。火事場泥棒のごとく現れた人買いに、家も家族も失い怪我を負っていたが連れ去られることもなかったのだろう。ろくな手当ても受けられないまま労働を強いられていたの体には、鬼に襲われたときの傷痕がくっきりと残っている。鱗滝がを拾ったとき、死人かと思ったほどに惨憺たる状態だったのだそうだ。日常的に苦痛を強いられる場所にいて、痛みに鈍くならなければ耐えることなどできなかったのだろう。或いは耐えられなかったからこそ、壊れてしまったのかもしれなかった。
「痛みを恐れろ」
 結局義勇にできることは鬼狩りとしてのを鍛えることだけで、に普通の人生を与えてやることなどできないのだ。そのくせ、笑う顔が見たいだとか色んな表情を知りたいだとか、馬鹿げた期待を抱いてしまう。ひとり救えたところで、いったい何が変わるというのか。何も変わらないと知っていても、笑って生きていてほしいと思う。その感情を何と呼ぶのか、義勇は気付こうともしていなかった。
 
190216
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