「……あっ、ま、待ってください、」
 聞こえてきた声はとても小さかったが、常人より優れた感覚を持つ宇髄の耳にはしっかりと届いた。声をかけても誰も出てこないことを訝しんでいた宇髄は、足音も立てず家屋に侵入する。
「……俺とするのは嫌か」
 とある部屋の前に立った宇髄は、聞こえた言葉に思わず我が耳を疑った。宇髄の聴覚が狂っていなければ、今のは義勇の声である。そして宇髄の感覚は狂ってなどいない。しかしあの義勇の口から発せられたとは思えない言葉に、宇髄はぽかんと口を開いたのだった。
「い、嫌じゃないです、でも……っ、」
「……でも?」
「ぎ、義勇さま、じっと見てるじゃないですか……あ、あ、だめです、まって、」
「見たらいけないのか」
「……は、はずかしいんです……いっ、いたっ、」
「ちゃんと呼吸をしろ」
「む、無理です……! ま、まって、ぅあ!!」
「何昼間っから盛ってやが……んだ?」
 漏れ聞こえてきた声に、来客にも気付かず何をしているのかという怒りがこみ上げて。爆発した苛立ちのままにスパンッと襖を開けるものの、そこには宇髄の予想していた光景はなかった。
「あ、わ……お、お客様……ですか?」
「何の用だ、宇髄」
 卓の上に肘を付き、互いの手を握って。けれどそれは甘酸っぱい戯れなどではない。両手で必死に義勇の手を倒そうと力を込めると、片手しか使っていないのに涼しい顔の義勇。突然の闖入者で注意が逸れたの手の甲を、義勇はゴンッと容赦無く卓に叩き付ける。つまるところ二人がしていたのは、腕相撲であった。
「あっ……ず、ずるいです義勇さま、」
「勝負の最中に集中を切らすな、もう一回だ」
「……お前ら、地味に紛らわしいんだよ!」
 勘違いしてしまった気恥しさと、宇髄そっちのけで二回戦を始めようとする師弟。どうして腕相撲であそこまでいかがわしい雰囲気になるのかと、宇髄の怒りは爆発したのだった。

「勝手に勘違いをしたのはそっちだ」
「それにしたって他に言うことがあるんじゃねえのか? あのちんちくりんはともかく、お前は俺が来たことに気付いてただろ」
「訓練中だった」
「はいはい邪魔した俺が悪かったよ」
 その後義勇が「今日は終わりだ」と言うまで腕相撲が繰り返されるのを待たされた宇髄は、が出した茶を片手に呆れた顔を見せる。宇髄の勘違いの意味をわかっていないと、わかっているがしれっと涼しい顔の義勇。あの後義勇はに肘を卓に付けなくてもいいと許可を出したりの手ではなく手首を握ってハンデを与えたりしていたが、当然のようにの全敗であった。は散々打ち付けられた手の甲を摩っているし、宇髄はド天然師弟の無自覚なイチャつきを散々見せ付けられて辟易としている。「こいつだけ楽しんでいたんじゃないのか」という視線を向けられ、義勇はふいっと目を逸らした。
「……まぁそれはいいとして、だ。冨岡、そいつ貸せ」
「断る」
「理由くらい聞けや」
「俺の継子だ」
「理由を聞けって言ってんだろうが」
、部屋に下がっていろ」
「は、はい……」
 にべもなく宇髄の要求を断った義勇は、に視線を向けて下がらせる。自分に関わる話が気にならないと言えば嘘になるが、義勇が下がれと言ったのならは従うだけだ。茶菓子を出して下がったをちらりと見て、宇髄は「ふーん」と呟いた。
「ずいぶん大事に仕舞い込んでるもんだな」
「そうだ。だから貸さない」
「鬼殺隊の剣士だろ」
「まともに任務をこなせる状態じゃない」
「何だってそんなのを継子にしてる?」
「必要なことだからだ」
「……任務に女の隊員が必要だ」
「他を当たれ」
「そうかよ」
 湯呑みの中身を一息に煽り、宇髄はさっさと立ち上がる。頑として聞く耳を持たない義勇にこれ以上粘っても、時間を浪費するだけだと判断したのだろう。少しだけ恨めしくも思ったが、義勇の気持ちもわかる。何しろ宇髄がを借りようとしたのも、私情が大いに含まれているからだ。妻を助けたい宇髄と、には荷が勝ちすぎると察した義勇。譲れないのなら、どちらかが引くしかなく。
「腹が立つけどよ、お前も普通の男みてえなところがあるんだな」
「……元から俺は普通だ」
 義勇の返答を「はっ」と鼻で笑って、音もなくその場から消え去る宇髄。仲間の期待に応えられない罪悪感はあったが、義勇は表情を変えることもなく茶を啜った。

「……? 宇髄様は、もうお帰りになられたのですか?」
「ああ」
 の元に向かうと、は手紙に目を通していた。予想よりだいぶ早く終わったらしい宇髄と義勇の話の内容を、は問わなかった。
「お前は……」
 手紙を畳んで義勇のために座布団を出したに、義勇は問いかける。ずっと訊くことを避けていたけれど、いずれは訊いておかなければならないと思っていた。煉獄は死んだ、宇髄もまるで死地に赴くような目をしていた。義勇の番はいつかわからないけれど、だからこそ今訊かなければならないと思った。
「お前は、どうして鬼殺の剣士になろうと思った」
 それは、兄弟子としての問いでもあり、師範としての問いでもあり、義勇個人の問いでもあり。真剣な眼差しに問われたは、姿勢を正して拳を握り締めた。
「……死にたくなかったんです。最初は、鱗滝さんの言う通り、静かに狭霧山で暮らそうと……」
 けれど、は鱗滝との暮らしの中で否応なく鬼の存在を知った。人間より遥か高みに君臨する、恐ろしい生き物の存在を知った。
「鬼狩りは鬼を斬ってくれます。鬼から人を守ってくれます。けど……いつも間に合うわけじゃなくて、当たり前みたいに守ってくれるわけでもない、そんなことに気付くまで、時間がかかりました」
 ある晩、鱗滝の帰りが遅くて。夜は絶対に出歩くなという言い付けを破って、鱗滝を探しに出てしまった。そして、鬼に襲われて。
「無我夢中で逃げたけれど、必死に抵抗したけれど、殺されそうになったんです。当たり前です、私は鬼に抗う術を何一つ持っていなかった」
 間一髪で、鱗滝は間に合った。狭霧山に入った鬼の気配を感じ取り、斬りに出ていたからこその幸運であった。間に合わなければは死んでいた、それだけの話だった。
「本当に、怖くて……この先いつか鬼に会った時、ただ殺されることしかできないのかと思うと、本当に怖くて仕方なかったんです。鬼に殺されないためには、鬼を殺せるようにならなければと、思ったんです」
 鬼に立ち向かうための呼吸を、鬼の頸を落とせる刀を。鬼に殺されない術を持つのは、鬼殺の剣士だけだ。この世でいちばん死に近い生き物に殺されたくなくて、は日輪刀を手に取った。
「鱗滝さんは反対したけれど、修行をさせてくれて、最終選別に送り出してくれて……七日七晩、鬼の殺し方を必死に覚えて……剣士になりました」
「だが鬼狩りとして生きるということは、それだけ死の危険を伴うことだ」
 あの自暴自棄な戦い方は、の生き方そのものだった。殺されないために殺し方を覚えて、殺される前に殺して。死にたくないから人を殺す化け物を狩る存在になったというの動機は、破綻しているのか整合性があるのか。
「でも、守られることはすごく幸運なことなんです。誰かの助けに縋っているより、自分で自分を守れたらって、そう思って、いたんです……」
「……?」
「炎柱の煉獄様が、お亡くなりになったと聞きました」
 がぽつりと零した言葉に、義勇は目を見開いた。義勇はそれをに知らせていない。隠たちも、ただの継子であるにわざわざそんな報告はしないだろう。ならば、と視線を走らせた義勇は、机に置かれた文を手に取る。差出人は、竈門炭治郎。煉獄の死を看取った、彼らの弟弟子だった。
「煉獄様、あんなにお強かったのに……それでも死んでしまうのだと、それでも笑って逝かれたのだと……どうして、」
 煉獄は、度々この家にも顔を出していた。の作る飯をうまいうまいと食べ、褒めるようにの小さな背中をばしばしと叩いては義勇に睨まれていた。時々に稽古もつけてくれたし、呼吸の歴史など義勇があまり率先して教えないことを諳んじて語ってくれた。の浅葱色の日輪刀を見て、きっと義勇の良き後継になると笑ってくれた。
「炭治郎さんたちは、柱が目の前で殺されても折れずに立ち上がって……わからなく、なりました」
「…………」
「どうして私は、こんなに死ぬことが怖くて……いつも自分のことばかりで……でも、義勇さまが、水柱の、義勇さまが、」
 ぎゅうっと拳を握り締めて、は義勇を真っ直ぐに見つめる。義勇が思わずたじろぐほどの、強い眼差しだった。
「義勇さまがもし、志半ばで……た、斃れることが、あるなら……きっとそれは、誰かの為なのだろうって、思ったんです。義勇さまもきっと、誰かを守って命を落とすことに後悔はしないと、そう思ったら……」
 縁起でもないことを言うなと、そんなことを言うつもりはなかった。義勇もも、今まで口には出してこなかった可能性だった。ずっとそれを、避けていた。けれどは今、敢えてその可能性を語る。その勇気は、脆くも鋭かった。
「少しだけ、自分の死が怖くなくなりました……どうしてこんなに怖いのか、まだ言葉にはできないのですが……何となく、わかったような、気がして」
 きっとは、記憶がないからこそ死がひどく恐ろしかったのだろう。手のひらも心も空っぽのまま、死んで無に帰すのが恐ろしかった。だってには誰もいない。が死んだ後には何も残らない。初めから何も無かったようにいなくなるのが、きっと怖かった。今もまだ記憶は戻らないけれど、それでもには義勇がいて、鱗滝たちがいて、鬼殺隊という居場所がある。自分の実在を確かめるように傷や痛みを厭わなかったの弱さを、義勇が正してくれたから。
「でも、義勇さまが死ぬことはもっと怖くなりました。義勇さまも、鱗滝さんも、しのぶ様も、アオイちゃんたちも炭治郎さんたちも……怖いことがいっぱい増えて、わからなくて、怖いんです」
「……ああ」
 全部自分のせいだと、義勇は思う。義勇が間に合わなかったからは守られなくて、義勇が見捨てたからは縋ることを忘れて、義勇が与えたから今は失う怖さに泣いている。
「すまない」
 ふるふると首を横に振るに、違うのだと言いたくなる。けれど義勇はそれを口に出せなかった。の拠り所は義勇だと、自惚れではなく思う。義勇を信じていなければ、突然増えた大切なものを失う恐怖に押し潰されてしまう。義勇が楽になるために、に全てを打ち明けることはどんなに易いか。罪悪感から救われたくて助けたようなものだった。けれど今は、を見る度に胸を締め付ける罪悪感が相応の罰なのだとわかる。
「お前は俺の継子だ」
 死なせたくなくて、人らしく生きてほしくて、立場に縛り付けるように継子にした。目を離しても死ななくなるまでは、面倒を見るつもりだった。きっともう、生きるための足枷は必要ないけれど。せめて義勇が生きている間は、守ってやりたいと思うようになった。明日のことすら約束できないけれど、それでも。
 ――お前にも、守るべき妹分ができたのだな!
 見ていられないだけだ、とあの時義勇は煉獄に答えた。その時は本心だった。今はが大事だと、守るべきものだと、臆面もなく言える。宇髄にそう、答えたように。ぽろぽろと子どものように泣くの髪に、手を伸ばす。短いけれど柔らかい髪に指を通しても、今度はは怯えなくて。こんなことで心が満たされる自分は、弱くなったのだろうか。これ以上を望む資格はないと解っていても、もう手放すことはできなくなってしまっていた。
 
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