「おはぎ、好きなの?」
「うん、好き」
ひどくゆったりとした空気が、そこには漂っていた。
「…………」
「…………」
頬を緩めて黙々とおはぎを食べると、おはぎにはあまり手を付けず湯呑みを抱えているカナヲ。二人とも口数が少ないが、元よりそういう気質であるため気まずそうな雰囲気ではない。楽しいのかどうかは傍から見ていてわからないが、少なくとも嫌な空気ではない。そう、しのぶは思った。
「気になるのなら、声をかけてきたらいかがです?」
「…………」
気になってなどいないと言いたげな視線を向けられたが、しのぶはどこ吹く風である。の体のどこにどんな傷があってどんな危険性があるのか、今のはどのような健康状態なのか、師範としてきちんと把握しておきたいというから時間を割いて説明しているというのに。聞く気がないなら自分でひん剥いて見ればいいんじゃないですかね、とも思うものの義勇なら本当にそれをやりかねないと思っている辺りしのぶが義勇をどう見ているかよくわかる。それでも同性のしのぶにを預けたり、同じ年頃の女子であるカナヲと話す時間を与えたりと、義勇なりにを女子として気遣っているらしいことはわかるのだが。
「少なくとも冨岡さんよりは人付き合いに長けていますから、心配ないと思いますけど」
はどちらかというと、善逸と同レベルのビビりであるがゆえの「人付き合いが苦手」である。善逸はうるさいビビりだが、は静かなビビりだ。怯えれば怯えるほどに、声が出なくなっていく。だがカナヲや義勇のように根本的なところがズレているわけではないので、安心を覚える相手には素直で照れ屋な一面が顔を覗かせる。カナヲやアオイたちのような、を怖がらせることのない相手であれば義勇よりよほど円滑に人間関係を築いていると言えるだろう。
「おはぎ……好き?」
「うん……好き」
このところ無関心無感動さから脱却してきたカナヲは、けれど他人に話題を振るということに関しては不得手であるらしい。二個目のおはぎを大事そうに頬張るに、先ほどと同じ問いを投げかける。それを訝しむこともなく頷いたは、あのね、と照れくさそうに笑った。
「義勇さまが、わたしに初めてくれたもの、おはぎなんだ」
「の師範が?」
「うん……義勇さま、たぶん覚えていないけど」
「そうなの……でも、は嬉しいのね」
「うん、嬉しい」
まったりと和んでいる少女たちの会話に、しかし義勇はどことなく気まずそうに目を逸らし口を引き結んでいた。
「その顔は、覚えていなかったんですね」
「…………」
「不憫ですね、さん」
「…………」
「覚えてなくても嬉しいだなんて、健気じゃないですか」
しのぶと義勇は決して仲良しこよしという関係ではない。むしろ那田蜘蛛山での一件以来、ギスギスしていると言ってもいいだろう。義勇はその性格の難及びそれ故に避けられていることを自覚していない節があり、しのぶは礼儀正しくも義勇を煽るように毒を吐く。なまじ義勇は他の柱や隊員たちにも遠巻きにされがちで、本人ものことがなければそれを改善しようとは思わなかっただろう。義勇に聞かれているとは露知らず、はぽつぽつと義勇のことをカナヲに語る。カナヲもと同じくらいのゆっくりとしたペースで、ぽつりぽつりと蝶屋敷の面々のことを語った。二人は大丈夫そうだと判断して、しのぶと義勇がひっそりと立ち去った後も、そうやって長閑な時間が過ぎていくかと思われたのだが。
「――猪突猛進! 猪突猛進!」
カナヲとに、突如影がかかる。大きな声と暗くなった視界に反射的に顔を上げたが目にしたのは、ぬらりと屋根からぶら下がってこちらを覗き込む猪頭だった。
「……っ、」
ひくっと、の喉が動く。伊之助と、初対面というわけではない。けれど突然の登場と、到底人とは思えない柔軟さで屋根から不気味にぶら下がる猪頭。極めつけは、伊之助が両の手に持っていた二本の箒。逆光による不気味な影のせいで、の頭はそれを伊之助ではなく得体の知れない何かとして認識した。ぶつんと、恐怖が閾値を超える音がして。気付けばは、「こわいお化け」に飛びかかっていた。
「ぎゃあああああッ!?」
「ちゃん待って! お願い落ち着いて!」
「さん、それ伊之助! 伊之助だから!!」
「……あれは何の騒ぎでしょうね」
「伊之助さんが、に追い回されていますね。箒でどつかれながら」
アオイが冷静に告げた通り、箒を刀のように構えたが伊之助に斬りかかりながら追いかけ回していた。全力で走りながら箒で防御する伊之助と、怯えて真っ青になった顔で箒を振り回しつつ追いかける。ぼんやりと様子を眺めているカナヲにしのぶが説明を求めると、カナヲは淡々と説明した。カナヲとが縁側でのんびりしていたとき突如屋根から不気味な姿勢で現れた伊之助に、がとてつもない驚愕と恐怖を抱いたこと。隣にいたが、床を蹴って飛び上がり伊之助の箒を片方奪ったこと。その後ずっとが、生生流転で伊之助を追い回していること。伊之助も反撃を度々しているが、怯えきったの暴走が凄まじくほとんど殴られっぱなしであること。掃除中にいなくなった伊之助を探していた炭治郎と善逸が、二人を止めようと必死に追いかけていること。止めに入らなかったのか、とカナヲに今更訊くアオイとしのぶではない。アオイはの気が済むまで殴らせてもいいのではないかと思ったが、技を使い続けているの体が心配だった。しのぶも同じ考えだったようで、どう収拾をつけたものか思案する。ここはやはり保護者の出番だろう、と義勇を呼ぼうとしたものの。
「何をやっている、!!」
呼ぶ前に現れた義勇が、を叱りつける。善逸と炭治郎の目が、希望に輝いた。けれどそこに続いた言葉は、その場の誰もが想像しなかったもので。
「振りが甘い、脇を締めろ! 無闇矢鱈に得物を振り回すな! 頸を狙え!! そう、そこだ!」
「そこだ、じゃないんですけど?」
まさかの展開にその場ですっ転んだ炭治郎と、ドン引きした表情で義勇を見る善逸とアオイ。何にも反応を見せないの返事は無いが、確実に義勇の指摘に従って動きが良くなっている。カナヲが相変わらずの頬笑みを浮かべているのはいつものこととして、しのぶは義勇に皆の心を代弁して抗議した。けれど義勇は聞いているのかいないのか、腹式呼吸で指導を続ける。
「斬撃から斬撃への切り替えが遅い! 相手に体勢を立て直す余裕を与えるな! 一歩一歩をしっかり踏み込め、雑な呼吸をするな! もっと心拍数を上げろ!!」
「嘘でしょ……」
両手で顔を覆った善逸が、その場に崩れ落ちた。可愛くて優しいと思っていたは突然変貌し、それを止めてくれるかと期待した柱は全力でをけしかけている。水の呼吸の使い手ってもしかしてみんな脳筋なのかな、と少々失礼なことを善逸は考えた。
「ねえ冨岡さん、もっと他に言うことがあると思いません?」
「……? 負けたら百叩き、か?」
「あなたが叩くなって、何度言ったらわかるんですか」
「……勝ったらおはぎだ」
「罰じゃなくてご褒美にしろって言いたいわけじゃないんですよ、今考えた時間は何だったんですか。どうしてさっきから心配してるのが勝敗だけなんですか。さんの体を心配しろって言ってるんですよ? わかります?」
「互いに箒で心配することなどあるのか」
「わかりました、一番に黙らせるべきは冨岡さんですね」
あまりに食い違う会話に、しのぶが剣呑な笑顔を浮かべる。けれどカナヲがぽつりと呟いた言葉に、不穏な空気は霧消した。
「転んだ」
短いがわかりやすい言葉に、義勇たちは再び視線をたちに向ける。伊之助がに足を払われて体制を崩し、けれどその異常な柔軟性を活かし足での箒を掴んで巴投げのようにを投げ飛ばした。受身を取り損ねたは地面の上を転がっていったが、小柄なためか衝撃は少なかったようですぐに起き上がった。なんとか箒を奪ったものの息が上がっている伊之助を、炭治郎は庇おうとするが。
「……?」
投げ飛ばされた衝撃のせいか普段のぼーっとした顔に戻ってきょとんとしているに、炭治郎たちは大きく安堵の息を吐いたのだった。
は生生流転だけ異常に得意だ、というのは義勇の言葉である。女子に叩きのめされて落ち込んでいる伊之助を励ましながら、炭治郎は同じ水の呼吸の使い手としてののことを考えていた。
――の戦い方は単純だ、相手が動かなくなるまで生生流転で斬り続ける。
長時間にわたる技の連発で腕がもげそうになっても、どんなに傷を受けても。今まさに斬ろうとしている相手が、攻撃を繰り出そうとしていたとしても。連撃する毎に威力が上がっていく斬撃で、斬れるまで斬る。言葉にすれば単純だが、決して容易いことではない。そこまで呼吸を保たせることだって容易ではないだろうに。伊之助を追い回していた時間だって、短くはなかった。我に返ったは伊之助やしのぶたちに土下座で謝り続けてはいたが、技の使いすぎで倒れるということもなく義勇と共に帰っていった。おそらく常の戦闘から、あのくらいの呼吸の維持は当たり前なのだろう。卓越した剣技を持つわけでもなく、全ての技を同等に使いこなせるわけでもなく、新しい技を編み出せるわけでもない。人間の域を超えた五感を有しているわけでもなければ、身体能力がずば抜けて高いわけでもない。そんなが鬼を狩る唯一の方法がまさに、斬れるまで斬ることなのだ。何度でも、何度でも、ただ鬼が動かなくなるまで。
は、狭霧山の岩を斬れるまで斬った。刀を何本も折ったが、折れた刀でも斬り続けたらしい。悲しいほどに愚直で、恐ろしいまでに一途な太刀筋。ずっとからしていた、色濃い恐怖の匂い。怯えに突き動かされて、相手が動かなくなるまで剣を振り続ける女の子。炭治郎にとって、は哀しいひとに思えたのだった。
190219