「……義勇さま?」
どうして、そんなに呑気でいられるのかと。理不尽にも責めてしまいそうになる。いつだってはそうだ。雛鳥のように義勇を慕って、刀を抜いているとき以外は恐ろしいほどに無防備で。夜半に帰ってきたときは迎えなくていいとあれほど言っているのに、簡素な寝間着のまま走り寄ってきて。あれだけ臆病なくせに、血を落としている義勇の姿に怯えることもなく怪我を心配する。怪我はないと伝えれば、食事や湯浴みの必要の有無を訊かれて、もう休むと答えればはわかりましたと頷いて。着替えやら寝具やらをてきぱきと準備するに、もう遅い時間だから構わず休めと、そう言いたかっただけだったのに。
「…………」
ぱちぱちと、不思議そうに目を瞬いて義勇を見上げている。この状況に危機感すら抱かないのは、義勇の育て方が悪かったとしか言いようがない。二人きりの家で、男の部屋で、布団に組み敷かれて。そんな状況でただどうしたのかと首を傾げるは、本当に何も知らないのだ。同棲だとか男女の仲だとか、そう揶揄されることはあれども義勇も「そういう仲ではない」と狼狽えることもなく淡々と否定してきた。けれどは知らないのだ。そう揶揄されることの、指すところを。恋だとか婚姻だとか、蝶屋敷の少女たちと語らう中で聞き齧ることはあれど、直接的な行為に関してはまったくの無知なのだ。少女同士のふわふわとしたおしゃべりの中では語られない、本能的な欲に基づいた行為。皆大人になる中でそれとなく知っていくものを、は知らない。教えてやるべき大人が、義勇が、それを怠ったから。知らないからこそ、こんなにも無防備でいられる。男に押し倒されている、そんな危機的な状況でただ義勇を心配するように首を傾げて。
「義勇さま、血が……」
頬についている返り血を、落としきれていなかったらしい。遠慮がちに伸ばされた指が頬を擦る感触に、ぞわりと背筋が震えた。前に過呼吸を落ち着かせたときにも思ったが、には義勇と触れ合うことに対して迷惑か否かという方向にしか頭が働かない。男女の機微になど、微塵も思いを馳せることができない。元々受動的なは流されやすくされるがままなところがあるが、義勇に対しては特にそれが顕著だった。信頼しているのだろう。義勇はにとって安心の場所なのだ。
「義勇さま……どこか、痛い、ですか?」
「……いや」
義勇の様子がおかしいと、そこまではわかってもに想像できるのは怪我や病気による不調くらいのものだ。義勇が精神面で揺らぐことがあると、には想像もつかないのだろう。鬼を斬って、助けた親子に感謝されて。ありがとうございますと何度も平伏する親子の言葉が、胸に刺さった。隠に事態の収拾を任せ、夜にも関わらず歩き通しで帰ってきたけれど。の顔を見て、ぎゅうっと胸の奥が痛んだ。誰を助けようが、誰を救おうが、をあの時救えなかった事実は変わらない。の笑顔を見るたび、自分の手元にあるべきものではないと自覚するだけだ。義勇の手にあっていいものではない、義勇に向けられていい信頼ではない。償いたいのに、それ以上には義勇に報いてしまう。は義勇から奪う権利があるのに、いつだって義勇に応えようとする。それが堪らなくなって、理不尽な苛立ちにも似た感情のままにを押し倒した。どうして今更助けようとしてしまったのか。どうして今更与えようと思ったのか。全部が間違いだったような気がして、が義勇に抱く安心や信頼さえも恨めしく思えて。それを砕いてしまえば、に怯えと刃を向けられれば、あるべき形へと収まるのだろうか。寄り添って互いの無事を喜びあっていた親子の姿、あれこそがに与えられるべきものだったのに。義勇はそれをに差し出せない。先に進むしかないと解っていながら、義勇はずっとに返せるものを探し続けていた。そんな愚かさを目の前に突き付けられて、から向けられている信頼を壊そうとした。自暴自棄は義勇の方だ。
「……義勇、さま」
おそるおそる、躊躇いがちにが手を伸ばした。義勇の髪をぎこちない手付きで撫でて、そっと義勇の頭を抱え込む。薄い寝間着だというのに頓着することもなく胸元に義勇を抱えたに、眩暈すら覚えた。何をしているのかと、問わずとも解る。は義勇に安心を返しているのだ。義勇が与えた安心に、同じ形で報いようと。何も言わない義勇の心情を、どうにか読み解こうとして。わからないなりに、一生懸命考えて。自分が安心した行為で、義勇に安心を与えようと。
「……俺は、お前に救われるに値しない」
添えられた手を掴んで、身を離そうとする。けれどは、反発するようにぎゅっと腕に力を込めた。振り解けない力ではなかったが、が義勇に反発したことそれ自体に驚いて、義勇は動きを止めた。の表情は見えないが、掴んだ手は冷たい。義勇の拒絶を恐れて緊張しているのに、それでも手を伸ばしたのだと。震える手と、怯えている心音。精一杯の勇気を出して、は義勇に安心を与えようとしていた。
「……」
「…………」
「、離せ」
「…………」
「、」
呼べば呼ぶほどに、頑なに義勇を抱き竦める。突然妙な真似をして悪かったと、何でもないから大丈夫だと、そう言い募ってもは義勇を離そうとしなかった。嘘だとわかっているのだろう。なんでもないはずがないと。普段なら嘘とわかっていてもそこで引き下がるのに、今日のはどうしてか頑なだった。
「……義勇さま、おいていかないで、」
「……?」
ぽつりと、が呟く。縋るようなその言葉の弱々しさに、義勇は訝しげにを呼んだ。
「見捨てないで、ください、いらないって、言わないでください……」
「…………、」
「継子として駄目なこと、わかって、います……いない方が楽だって、わかってます……でも、」
悲痛な声で、は義勇に懇願する。離したら義勇がいなくなってしまうかのように、はぎゅっと義勇を抱き締めて離さなかった。
「嘘でも、いいです……ここにいろって、おっしゃってください……」
「……駄目だ」
「っ、」
びくりと、腕が震える。掴んだ腕を布団に押し付けて、身を起こす。見下ろしたの顔は今にも泣きそうで、どれだけ自分がの中で絶対的な存在であったのかを突き付けられた。今更取り返しのつかない過ちを、けれどもうこのままにはしておけるはずもない。
「……何も知らないだけだ。俺はお前の拠り所になるべき人間じゃない。本来なら、お前が俺を見捨てるべきだ」
「そんなこと、」
「……知らないから言えるだけだ」
反駁を封じ込めるように、突き放す言葉をかける。けれど泣くかと思われたは、必死に泣くのを堪えて頬を膨らませた。
「……知らないです、そんなこと」
「何を、」
「だって、知りません……! 義勇さま、何にも言わないです、いっつもそうです、」
最早堪え切れていない涙は、ぼろぼろと堰を切ったように溢れていた。えぐえぐと泣きじゃくりながら、は義勇の手をぎゅうっと握り締めた。
「知らないです、義勇さまが本当はどんな人かなんて、私の知ってる義勇さましか、知らないです……! 嘘でも本当でも、義勇さましか、知らないです……」
普段はぼうっとしているだが、感情は人並みにあるのだ。臆病すぎて胸の奥にしまい込みがちだが、それでも確かな心がある。痛いほどに愚直な心を訴えるの手を振り解けずに、義勇はの涙を拭う。子どものように泣きじゃくるは、見放さないでほしいと懇願した。突然義勇に突き放されて、精神的な負荷に呼吸が危うくなっている。それでもは、必死に言葉を紡いだ。
「義勇さまのお傍にいたいんです、本当は、任務も連れて行ってほしいです、義勇さまがいないのが、いちばん怖いんです……!」
「、もう、」
「恋でも愛でも、なんでもいいです、義勇さまが、いてほしいって、」
その先は、言葉にならなかった。子どもの癇癪のように爆発した感情が、とうとう喉を詰まらせてしまって。ひゅうひゅうと危うい音を立てる喉に、が手を当てる。息を吸いすぎて吐き出せなくなっているのだと気付いた義勇は、落ち着かせようとを抱き起こす。けれどぼろぼろと泣きながらも義勇を突き飛ばしたは、痛ましい音を立てて大きく咳き込んで。必死に呼吸を押さえ込もうとするの肩を掴み、振り払おうとする手をものともせずに頬を押さえて強制的に顔を義勇の方へ向けさせる。自家撞着に陥っていることを自覚しながらも、義勇はの唇を自らのそれで塞いだ。
「……っ、ふっ、」
ばたばたと暴れる手足を押さえ込んで、口腔に舌を割り込ませる。涙に濡れた頬をがっちりと掴んで、拙い知識のままに深く口づけた。舌と舌が触れ合う感触に、押さえ付けた肩がびくりと跳ねる。貪るように息を奪って、与えてを繰り返し。舌を絡めて、吸い上げる。組み敷いた体からは次第に力が抜けて、抵抗も弱くなり大人しくなっていった。危うかった喉の音は収まっていたが、義勇はなおもの口腔を蹂躙する。やっと義勇が口を離したときには、は別の意味で息も絶え絶えになっていた。
「……、はぁッ、」
ぷつっと切れた唾液の糸を、義勇の指が拭う。越えるつもりのなかった一線を越えてしまった義勇の胸には、後悔と自嘲が綯い交ぜになって渦巻いていて。けれどふつふつと、仄暗く浮き上がってくるその熱が劣情なのだと、誰に教えられたでもなく知っていた。虚ろな目で義勇を見上げるに、浅ましい欲を覚えているのだと。
「……逃げるなら、今逃げろ」
卑怯な言い方だと、解っていた。義勇に突き放されることを恐れている子どもが、こんな言い方をしたところで退くはずもない。案の定、は首を振って義勇の胸に縋りつく。愚かだと思いながらも、義勇はの背中に腕を回した。
190224