「…………」
 宇髄は困惑していた。人を困惑させることは多々あれど、宇髄がここまで感情をかき乱される相手は今は三人の妻たちくらいのものだ。だが、今回の困惑の原因は妻でも最近話題の若手問題児隊員たちでもなく。
「…………」
「…………」
 がっつりと、目が合う。凪いだ水面よりなお読めないその瞳の持ち主が布団に入っているのは、まあ良い。既に日が昇っているにも関わらず布団に入っているのも、まあ良い。なぜ隊服に羽織のまま布団に入っているのかということも、義勇だからで済ませられる。問題は、義勇の胸にひしっと抱き着いてすやすやと眠っている彼の継子(こちらは寝間着)だった。
「……手は出していない」
「あっそォ……」
 一睡もしていないらしい義勇の目の下には、うっすらとクマができている。「何お前らそういう関係だったの?」と揶揄うこともできず、同情を多分に含んだ声で宇髄は生返事をしたのだった。

「お前んとこの継子、藤の毒使ってんだろ? 胡蝶が新しいの作ったとかで見に行ったら、ついでに渡してこいって頼まれたんだよ」
「……手間を取らせた」
「別にそれはいいけどよ」
 ぱたぱたと忙しく立ち働いているの足音を耳に、義勇と宇髄は微妙な雰囲気で言葉を交わす。上弦との戦いで引退はしたものの鬼殺隊への協力は続けている宇髄が新しい毒を預かったのは、この師弟をからかいに行ってやるかという気持ちもあってのことだったのだが。まさか同衾まで進展しているとは思わず大いに困惑させられるハメになった。あまりに義勇が不憫に思えたので、宇髄はあの後出直したのだが。寝起きドッキリを仕掛けに行ったら、逆にドッキリさせられたというところである。
「……訊いてもいいか」
「…………」
「アレ、どういう状況だったんだ」
「…………泣き疲れて、寝た」
「ガキか」
 確かに性行為の痕跡は無かったが、宇髄の目から見たあの光景はどうみても生殺しの状態であった。同じ男として義勇がいたく哀れに思えて、宇髄はそれ以上追及することなく茶を啜った。
「義勇さま、宇髄様、朝餉の用意ができました」
「ああ」
「おう、悪ぃな」
 乏しい表情筋なりに明るい表情で、が二人を呼びに来る。なんでもないように返事をした宇髄と義勇だったが、立ち上がると同時に吐いた息が二つ。この日宇髄は、初めて義勇に親近感を覚えたのだった。

 実のところ、あくまで未遂で終わっただけであるということを宇髄は知らない。それも義勇の理性がぎりぎりのところで働いたとかそういう話ではなく、感情を爆発させて泣き疲れたがうとうとと眠そうにしているところに手を出すほど、義勇は本能に忠実にはなれなかった。多少の前戯めいたことは続けたが、それだけである。むしろを寝かし付けるために口づけをしたり抱き締めてやったりしたようなものだった。欲情はするが、無体を強いることはできない。かといって義勇に縋るを引き剥がしてまで自分の手で欲を収めるわけにもいかず、義勇は悶々としたまま一晩を過ごしたのだった。起きたは顔を赤くして義勇の顔をまともに見れずにいたが、宇髄の来訪(は知らぬだけで再訪なのだが)に慌ただしく働き始めて。けれど、なし崩しに体を重ねなくて良かったとも思う。にあそこまで言わせておいて今更有耶無耶に終わらせる気もなかったが、のことが大切だからこそ然るべき順序は踏んでやりたいと思っていた。
(……順序、か)
 特殊な生活をしている以上まっとうな世間の順序に全て則ることはできないが、通すべき義理はある。まだ全ての迷いが消えたわけではない。の好意は恋情とも家族愛ともつかないほどに幼く、それも刷り込みのようなものではないかと思う気持ちも少なからずある。もっと相応しい人間が、と共に幸せになるべき人間が、いるのではないかと。けれどどうしても譲れないのだ。あの恐ろしいまでに純粋で綺麗な思いが、誰か他の人間に向けられると思うと平静ではいられなかった。そんな資格はないとわかっていても、の言葉で逃げ道は絶たれた。向き合わなければ、またを泣かせることになる。どうしたって義勇は、が泣くことに弱かった。
「――まぁ、がんばれや」
 稽古をつけてやると言っての指南を買って出た宇髄は、隻腕にも関わらずの攻撃を難なくいなして元柱の実力を見せ付けていた。一通り打ち合ったあとは、何やら言葉を交わしていたようだが。ぽん、と頭を叩いて励ましていた。適当に義勇にも挨拶を投げかけて、宇髄は帰っていく。静かになった家で、自分もに稽古をつけるかと思うものの。
「……どうした」
 真っ赤になって固まっているに、義勇は首を傾げる。宇髄と話していた場所に立ったままのに歩み寄れば、は首を押さえて後ずさった。
「そ、その、」
「痛めたのか?」
「ち、違います、その……」
「……?」
「く、口吸いの痕がついてると、宇髄様が……」
 思わぬ言葉に頭を殴られたような衝撃を受けて、義勇もその場で硬直する。ハッと我に返っての手を掴み、隠していた首筋を晒す。そこには確かに赤い鬱血痕が付いていて、義勇は思わずこめかみを押さえた。見えるところに付けたつもりはなかったが、勢いで付けてしまっていたらしい。ご丁寧にも宇髄はにそれがどういうものかを説明までしてくれたようで、は他人に秘め事の痕を見られたことに真っ赤になって固まってしまっていた。知識が無いなりに、他人にみだりに知られていいものではないことは察しているらしい。
「……包帯を巻いておくか」
「はい……」
 宇髄はあれで他人の色恋沙汰を触れ回るような性格ではないが、なかったことと捨て置いておく性分でもない。しのぶや伊黒に知られるよりは良いが、厄介な相手に見られてしまったものである。間の悪さと迂闊さに頭を痛めつつ、義勇は花びらにも喩えられるその痕を指先で撫でたのだった。

「……
「?」
 その夜、義勇は部屋に下がろうとするを呼び止めた。何事も順序である。いつだって足りないのは時間だが、焦りに任せて段階を飛ばすことは好ましくない。義勇にとって鬱血痕を宇髄に指摘されたことは、痛恨の失敗であった。特に何の説明もないまま自室に連れてきたと、布団の上で向かい合わせに座る。暫くの沈黙の後、義勇は顔を上げて口を開いた。
「……俺がいるときは、ここで休め」
「は、はい」
 背筋を伸ばしたまま頷いたに手を伸ばし、首に巻かせた包帯に指をかける。留めてあるのを解いてはらりと落ちた包帯を取り去って、首筋を撫でる。たったそれだけのことで茹だったように赤くなっているに、こんなに初心で昨日はよくあれだけ自ら迫るような真似ができたものだと内心首を傾げた。義勇の不安定さを感じ取り、義勇が自己完結で出した結論で離れていくことを察したがゆえの無謀だったのだろう。女の勘だとか恋する乙女の勢いだとか、そういった類のものだ。決してそれらが侮れないことは昨夜思い知らされたわけだが、平生のと義勇のどちらが優位にあるかなど、今この状況を見れば明白である。急いてはならないと、義勇は自らに殊更に言い聞かせた。
、こっちに」
「は、い……」
 従順に義勇の言うままにするは、きっと義勇が求めれば拒絶などしない。無知であるが故に無謀で、無垢であるが故に無防備なのだ。義勇はに愛恋の情を認めたが、けれど保護者でもある事実は変わらない。少しばかりどころか大いにややこしい仲であるわけだが、欲を抱く一方守らなければならないという責務の念もあるわけで。決してその手のことに明るいわけではないが、義勇が正しく手を引いてやらなければならない。粗雑に身体を拓いてしまうことのないようにと、義勇は自らを戒める必要があった。
「……いきなり最後まで致すつもりはない」
「はっ、はい」
 性交渉について、まだ最後まで至っていないことは昨日の端的な説明でも理解していたようだった。緊張で強ばっているを抱き寄せて告げると、少し肩の力が抜ける。思えば腹に異物が入ると言われて怖くない方がおかしいと、義勇はあまりに省略しすぎた説明を今更反省した。ただでさえは人より臆病なのだ、それでも受け入れようとするのはそれが義勇だからなのだと、の表情や動作の全てが語っている。その姿はあまりにいじらしく健気で、けれど煽られるままにことを進めてはいけないのだと思えるほどに幼気だ。それでも、共に関係を進めていきたいと思う。は解っていなくとも、義勇はから向けられる信頼に耐えられずそれを壊そうとして乱暴に貞操を奪おうとしたのだ。そのくせがそれすら受容しようとすると逃げようとして、不安に泣くを突き放そうとした。性交渉にこだわる必要はないが、触れ合うことで愛情を確かめ合うことも義勇がに与えられる安心のひとつだろう。義勇が与えうるものは全て、に与えたかった。形としての愛情も、いつか実を結ぶかもしれない可能性も。歩くような速さで、それでも辿り着くべき場所へ。どこにも行けないかもしれない、同じ場所を巡っているだけかもしれない。それでも、過去に蹲ることのないように。
「……義勇さまの手……あたたかいです」
「……そうか」
 頬を撫でるだけで、胸がいっぱいになったように笑う。ひとの形をした愛は、義勇が触れるには少し綺麗すぎた。
 
190227
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