痛かった。痛くて、怖くて、泣きたくて、泣いていた。きっと死ぬのだろう、なんて諦めることもできずに必死に地面を掻いて這いずった。死はいつも呆気なくそこに転がっていた。みな一様に生の苦痛からの解放に安堵するように穏やかに笑っていて、それがなおのことおぞましかった。朝から晩まで、碌に扱ったこともない農具を振って、ほとんど食事も与えられず。その僅かな食事さえ折檻として抜かれることも多く、いつも腹を空かせてふらふらとしては棒で殴られた。どうしてそんな傷を作ったのかも覚えていない脇腹の傷はいつもじくじくと痛んで、膿んで嫌な臭いをさせていた。僅かな休息の時間である夜さえも、血の匂いで野犬が寄ってくることに怯えて。いっそ死んだら楽だろうか、そんな考えがふと頭をよぎったこともあった。けれどそんなふうに諦めたくはなかった。だって生きているのだ。この世界が地獄ではなかったことを知っているのだ。優しい場所はきっとどこかにあると信じて、腕に噛み付いた野犬の頭に石を振り下ろした。何度も何度も石でそれの頭を打ち据えて、原形も留めないほどに殴って殺した。死にたくなかった。それでも、死にかけていた。喉笛を喰いちぎられる代わりにズタズタに噛まれた腕を抱えて、どうにか息をしていた。
――かわいそうにと、優しい声がした。『 』にしてやろうかと、その声は言った。もう弱者として嬲られることも、弱い体で死に怯えることもないと。救ってあげようと、その声は言った。
「いやだ」
知っていた。それは化け物だ。それは人を食い散らかす恐ろしい化け物だ。そんな悍ましい生き物が、優しい場所に辿り着けるはずもない。そんなものになってしまっては、きっと一生こそこそと夜を這って、惨めに薄暗がりでめそめそと死に怯えて泣くしかないだろう。朝日の暖かさを、ぽかぽかとしたぬくもりを、希望を、忘れてはいなかった。
「でも君は死んでしまうのだろう?」
その青年は、にこにこと優しい笑顔を浮かべていた。ちぎれかけた腕で門の錠前に石を振り下ろし続けるのを、青年は楽しげに眺めていた。どうしてそんなふうに生き足掻くのかと、その目に浮かぶのは純粋な興味の色だった。だから答えた、優しい場所に行きたいのだと。ここは嫌だ、けれど死んだらそこで終わりなのだ。浄土なんてあの世にはない。今生きているここが地獄なら、きっと暖かい場所もこの世のどこかにあるだろう。生きて、この足で探しに行かなければならないのだ。どこにもないと、この目で確かめるまでは諦めてなるものか。辿り着くまでずっと、探し続けよう。失った場所と同じくらい、暖かい場所を。こんなところで死にたくない。糞尿と血に塗れた土の臭いのする場所で、屑肉のように蛆に塗れて死ぬのは嫌だ。こんなじめじめとした暗いところで独りぼっち、死んで朽ちていくことが、何よりも恐ろしかった。もう自分が助からないのだとしても、せめて死に方だけでも選びたい。暖かい陽のあたる場所で、誰かひとりでも手を握ってくれていたら。それならきっと、自分は生きていたと笑って逝ける気がするのだ。
「それは素晴らしいことだ、がんばるといい」
優しくて悍ましい声の主は、鉄の錠前をまるで飴細工か何かのように容易く捻じ切った。「ほら、お行き」と、小さな背を大きな掌で押す。
「走るといい。君の欲しいものを探しておいで」
その青年は、ひとつだけ暗示を残した。死への恐怖がそのまま、鬼への恐怖になるようにと。生きるために鉄に石を打ち付けるその執念が、鬼に向くようにと。鬼を排さなければ安息を得られないようにと。この世の地獄を見た恐怖を、鬼を見るたび思い起こすように、その背中を押した。
「いつか聞かせてもらうとしよう。人を殺す鬼と、鬼を殺す人間、そのどちらが恐ろしいのか」
ハッとして、目を覚ます。目を開いたことすら、知覚するのに時間を要した。恐怖と焦燥が、胸を焼く。どくどくと鳴り響く心臓がうるさくて、いつもどうにか保っていた全集中の呼吸も途切れてただ荒い呼吸をしていた。
「……っ、」
ぽん、と背中を叩かれて顔を上げれば、を見下ろす義勇がいて。子どもをあやすように背中を繰り返し叩く義勇の手に、強ばっていた体が弛緩していく。義勇の腕に頭を預けて眠っていたことを思い出して、ほっと息を吐いた。義勇はの安心だ。義勇の傍にいると、深く息を吸えるような気がした。背中を叩いていた手が、そっとの頬に触れる。その手に自らの手を添えて頬を擦り寄せると、あんなにうるさかった鼓動が静まって落ち着いていく。魘されていたに、義勇は何も訊かずにいてくれた。
「……怖い夢を、見た気がします」
黙って頷く義勇に、はぽつぽつと言葉を連ねる。何も思い出せないけれど、怖いと思ったことだけ覚えている。何かに追い立てられているかのような感覚だけは残っていて、走らなければならないという焦燥がじりじりと燻っていた。それでも、義勇の体温がの呼吸を落ち着かせる。ゆっくりと深呼吸をしたは、義勇の胸に額をくっつける。遠慮がちに甘えるの頭をぐいっと抱き寄せて胸に埋めさせた義勇は、が目を覚まして息をしていることに内心安堵していた。の呼吸が止まっているのを知覚して、義勇は夜半に目を覚ましたのだ。義勇が動く前には呼吸をし始めたが、すぐに苦しそうに魘され始めて。起こそうとしたが、揺すっても頬を軽く叩いても声をかけても起きることはなく。いっそ殴ってでも起こすべきかと悩み始めたところで目を覚ましたに、心の底から安堵した。本人は夢の内容を覚えていないようだが、決して良い夢ではあるまい。怪我や毒の熱に魘されるときも、もしかしたら過去の夢に苛まれていたのかもしれない。すっかり冷えてしまっている体を、体温を分けるように抱き込む。どうかから安息を奪わないでくれと、祈ってしまいそうになるのを堪える。どうしてが苦しまなければならないのか、その一因でもある義勇が問うことは滑稽なことだと解っていた。願ったところで、問うたところで、意味は無いのだ。世界は優しくない。理不尽は人を選ばない。ただそこには現実があるだけだ。立ち止まっていたところで、誰も救われはしない。例えが救われなくとも、一生恐怖に苛まれるとしても、義勇はの傍にいて安息を与え続けるのだ。義勇にできることはそれだけかもしれないが、それだけでもと胸に刻む。これ以上が何も奪われないように、失わないように。神も仏もこの世にはいない。いるのはただ、鬼と人だけだ。人の手は太陽には届かないけれど、隣にいる人間くらいなら抱き締めてやれる。そうやって人は、誰かの手を取って生きていくのだろう。
「義勇さま、あったかい、です」
柔らかな頬が、義勇の胸でふにりと潰れる。この温もりが義勇の手の届く唯一ならば、義勇はの手を離さずにいよう。義勇が与えるほどに報うに、安息を与えられて生きている。深い水の底に沈んだような心が、水面に引き上げられて息をする。気付いたときにはもう、愛していた。
「……」
「はい、義勇さま」
顔を上げたの顎を掴んで、口付けを落とす。途端に真っ赤になったは、あわあわと狼狽えて。もう一度、ゆっくりと長く口付けを交わした。
「――おやすみ」
「お、おやすみなさい」
義勇は自分がどんな顔でその言葉を口にしたのか、目にすることはない。慈しむような表情に、が赤くなって俯く。今度は眠りを悪夢に妨げられることのないようにと、義勇はをしっかりと抱き締めたのだった。
190327