初めて鬼を斬ったとき、鬼の体で原形を留めている部分はほとんどなかった。藤の花の牢獄で、飢えて理性を飛ばしていた鬼。正面からぶつかれば、非力な自分が押し負けることはわかっていた。必死に回り込んで、頸を狙って。でもなかなか狙いが定まらないから、脚を落とした。激昂した鬼が振り回した腕が頬を掠めて痛かったから、腕も落とした。それでもすぐに腕や脚を生やしてしまうから、生えるたびに斬った。再生が追いつかないようにと、とにかく斬り込んで。腕が生えなくなったと思って見下ろせば、鬼の体は崩れていた。いつの間にか頸を斬っていたらしい。一撃で頸を落とせる技量がないから、こんなに無残なことにしてしまった。それでも、少しだけ安心した。この鬼はもう、を殺さない。が殺したから、を殺せない。少しだけ、深く息を吸えた。
の最終選別は、生憎の雨だった。本来なら、陽の差している日中は体を休めることができたのだろう。けれど分厚い雨雲によって、鬼を殺す陽の光は遮られて。昼夜を問わず襲い来る鬼と、体温を奪っていく冷たい雨。その年は、いつもより多くの子どもが死んだらしかった。過酷な状況ではあったが、は不思議とそれに「慣れていた」。朝も夜もろくに眠れないのも、傷を負った状態で雨ざらしになるのも。じくじくと痛む傷を抱えたまま動くのも、休まず気を張り続けるのも、慣れていたような気がした。怖かったけれど、怖かったから、は七日間を必死に生きた。雨は血の匂いを消してくれる。激しい剣戟の音も、隠してくれる。鬼が近付くと恐怖でぞわっと背筋が震えるから、どうにか鬼の存在に気付くことはできた。殴られたり切られたり、刺されたり。とても痛かったし雨で血を多く失ってふらふらと頭が揺れたが、それでもどうにか生き延びた。の厄除の面を割った男の子が、肉塊になって死んでいた。可哀想だと思った。怖いと思った。だから、その場から逃げた。その子を殺した鬼は、まだ近くにいるはずだった。風車の模様が描かれた厄除の面を脳裏に浮かべて、つきんと胸が痛んだ。鱗滝に謝らなければならないと、そのためにも生き延びなければと、藤の花の牢獄を駆けずり回った。
「お前が生きて戻ることの他に、大事なことなどない」
包帯でぐるぐる巻きになって帰ったを抱き締めて、謝るに鱗滝はそう言った。その声は震えていて、きっと鱗滝は泣いていたのだろう。親のように慕う鱗滝の元に帰ってこられたことが嬉しくて、鱗滝が迎えてくれたことが嬉しくて、体中が痛くてわんわんと泣いた。手持ちの包帯では到底手当てに足りなくて、剥き出しの傷も多く血が滲むを鱗滝は医者のところまで抱えて駆けてくれた。刀が届くまでの十五日間、熱でふらふらとする体では狭霧山を歩き回った。きょうだいのように慕った彼らに会いたかった。もう自分はここからいなくなってしまうから、傍にいてくれたことのお礼を言いたかった。は彼らが死んでいることを知らなかった。あの藤の花の檻に彼らの仇がいることも、自分がたまたま運良く生き延びたことも、この時は知らずに。けれど彼らは、現れてはくれなかった。探しても探しても見つからなくて、を連れ戻しに来た鱗滝に叱られた。それでも一度、ふらりと崖から落ちそうになったときに首根っこを掴んでくれた手があった。「せっかく生き残ったのだから、馬鹿なことをするな」と耳元で叱る声がした。
「……錆兎お兄ちゃん、」
振り向いたときにはもう、誰もいなくて。とん、と背中を押したのは小さな手だった。
「真菰お姉ちゃん……?」
行かなきゃだめだよ、と言われた気がした。鬼に襲われて、鬼殺の剣士を志して。鱗滝が、素顔を見せてくれなくなって。お面の子どもたちにも、会えなくなって。岩が斬れなくて、刀を折ってしまって。刀を折った罰として鱗滝に骨を折られて、それでもまた刀を振り上げた。もうやめろと言うかのように腕の骨を折られたときも、岩に刀を振り下ろした。岩を斬ったときのことは、よく覚えていない。ぼろぼろになった岩と刀の前で、ぺたりと座り込んでいた。真っ赤に皮の剥けた掌を握って、鱗滝は苦しそうに「よくやった」と言った。大好きな鱗滝にそんな顔をさせる自分が嫌いになって、それでも最終選別へ向かった。だから、帰ってきたのなら今度は旅立たねばならないのだ。鬼殺の剣士になったの安息の場所は、もうここではない。鬼を殺して息をするあの場所にしか、もう安息はないのだ。それに気付いては泣いた。泣きながら鱗滝の元に帰って、ごめんなさいと泣き続けた。それでも旅立つ馬鹿娘でごめんなさいと泣くに、鱗滝は何も言えなかった。この臆病な子はきっと、剣士になるべきではない。けれどは行くしかないのだ。一度流れ出したら、行き着くところまで。「天色だな」との目の色のことを言った鋼鐵塚は、予想した通り青に近い色に染まった刀を見て機嫌良く帰っていった。瞳よりは暗い青の花浅葱色の刀身を抱えて、は最初の任務を告げる鴉の声に耳を傾けていた。北の山で山賊まがいのことをしている鬼を倒してくるようにと、淡々と告げる鎹鴉。隊服に袖を通して、刀を差して。そうして、は旅立った。
ぎゅ、と刀を握る。目の前の鬼の目には、数字が刻まれていた。もっとも、その数字を消すように十字の傷が上から刻まれていたのだけれど。「元」下弦の月だと、鴉は珍しく焦った様子で口にした。いつも鬼を前にすると、恐怖で目の前が暗くなる。その時はそれが特に顕著で、は弾かれるようにその鬼に斬りかかっていた。元とはいえ十二鬼月であるその鬼は当然強く。瞼を斬られてだらだらと流れる血が、左目の視界を奪った。異臭を発する毒霧が、嗅覚をも奪って。肋が何本か折れていたし、腹に近い骨も折れたらしく内臓に突き刺さっていて死ぬほど痛かった。肩が外れたのを、無理やり戻した。鬼に感じる恐怖だけが、紙一重での命を繋いでいた。突き出された腕を避けず、肩に突き刺さったそれをぐっと掴んで。そして、目の前の頸を薙ぐその瞬間、鬼は嗤った。ぞわりと伸びた鬼の髪が、の首を絞めて。窒息が早いか首が折れるのが早いか、それより先に頸を斬り落とさなければと。けれどそのどちらよりも早く、のものではない青い刃が鬼の頸を一瞬で落としたのだ。
「弱い」
消えゆく鬼の体と、どさりと地面に倒れ込んだを見下ろしてその人は言った。ぼけっと口を開けて見上げるの腕を掴んで、ぐいっと引き起こして。鬼に貫かれた方の腕を引かれたせいで、ものすごく痛かった。そのまま引き摺られるように、どこかへと連れて行かれて。慌てて追いかけてきた鴉が、その人は水柱の冨岡義勇なのだと教えてくれたけれど。痛みや疲労で頭の朦朧としているは、それに薄い反応しか返せなくて。の怪我にはお構いなしにぐいぐいと手を引いて歩くその人は一瞥もくれなかったし、やっぱり体中が痛かったし、どこに行くのかさえわからなかったけれど。
(あんしん、)
深く息ができている自分がいることに、気付いた。元々流されやすく従順な性質だが、それを差し引いてもこの人に手を引かれることに抵抗を覚えていないことにも。大きな手は硬くて温かくて、血に塗れたの手を躊躇いもせずに握り締めている。その手に、ひどく安心する。ずっと探していたものに巡り会えたような、そんな気がした。
「今日からお前は継子になる」
目覚めたに、義勇はそう言った。継子という単語に首を傾げるに、義勇は眉を寄せて。それを見た義勇の鴉が、継子とは柱が育てる剣士のことだと教えてくれた。水柱の冨岡義勇が、を継子にするのだと。ぼうっとその言葉を聞いているの代わりに、の鴉が珍しく色々と喋ってくれた。ほとんど鴉同士の会話ではあったが、が義勇の継子になることが決まって。それに伴う諸々についても、概ね鴉が聞いてくれていた。後で説明するから休めという鴉に、「次の、任務、」と不安げには眉を下げる。それを見てぎりっと歯を食いしばった義勇は、の頬を打った。
「鬼を殺せる状態だと思っているのか」
どうしてか、義勇の方がよほど痛そうな顔をしていて。の刀を取り上げた義勇は、「その弱さで任務に出たところで死ぬだけだ」と休養を言い渡して部屋を出て行った。の怪我がある程度治るまで、この藤の花の紋の家に世話になるらしい。謝らなければ、と思うだったが、自分の鴉につつかれて布団の中で大人しく目を閉じた。不思議と、あの焦燥にも似た恐怖はいつもより少しだけ小さくなっている。刀が無いのに、怪我だらけで動けないのに。眠いとはっきり思ったのは、狭霧山を発って以来だ。口元に手を当てて、少しだけ息を止める。普段の通り無口に戻った鴉に見守られながら、は目を閉じたのだった。
190330