「冨岡の駄犬が、大きくなったではないか。芸のひとつでも覚えたか?」
「…………」
「どうした、今度は耳を痛めたのか。それとも言葉を忘れたか?」
「…………」
ぷくっと頬を膨らませるを見て義勇が真っ先に思ったのは、「むくれたような表情は珍しい」という些かズレた感想だった。義勇を訪ねてきた伊黒に茶を出したは、ネチネチといびられても言い返したり飛びかかったりすることなく大人しく正座している。良い子に育ってくれたと、義勇は和んですらいた。
「『待て』と『おすわり』は覚えられたようだな。ふん、良い躾をしている」
「…………」
「しかしそんな風にむっつりと黙り込んでいては、まるで冨岡が二人だな。ぞっとしない」
「……義勇さまが、『伊黒の言うことをいちいち気にかけなくていい』と仰ってくださっただけです」
「……なるほど、本当によく躾けたものだ。ほら、『お手』をしてみるがいい」
ひらりと振られた掌を、は本当に嫌そうに見下ろす。どうにもにとって伊黒は天敵であるようだった。義勇をいじめ、炭治郎と禰豆子をいじめる蛇のような人間。義勇の迷惑になるのも伊黒に敵わないのも知っているが、膨らむ頬はどうしようもない。それでも「義勇の客」に対する礼は守るあたり、どうしようもなく根は「いい子」である。「相変わらず茶を淹れるのが下手なことだ」と言われて、はしょぼんと肩を落とした。
「なんだ、嫌がらせではなかったのか」
「はわざわざ嫌がらせに時間を使ったりはしない」
「『お前とは違って』か? ふん、素でこれなら大したものだ。よくこんな茶を毎日飲んでいられる」
「……何をしに来た」
「少なくとも無駄話をしに来たわけではない、俺とて暇ではないからな。ああ、そこの駄犬は下がっていいぞ。柱同士の話であるからな」
「……義勇さまを、いじめないでくださいね」
「俺はいじめられていない」
「牙を剥き出しにして、立派な番犬ぶりだ。芸のひとつでも見せられたら、いじめないでやってもいいがな」
「いじめられていない」
「そうだな、『わん』と鳴いてみせるがいい。三回回るのは勘弁してやろう」
「…………」
さすがに失礼な伊黒の物言いに、義勇は「いいから下がれ」とに言おうとするが。
「………………わん」
瞬間、義勇の世界は止まったようだった。目にいっぱい涙を溜めて、ものすごく不本意そうに顔を顰めて、目を逸らして。羞恥で真っ赤な顔で、消え入りそうな声で。わんと鳴いたに止まりかけたのは、どうやら世界ではなく義勇の心臓だったらしい。クックッと笑い出した伊黒は心底可笑しそうに腹を捩らせた。
「忠犬に免じて、冨岡をいじめないでおいてやろう」
「や、約束です、よ……!」
「元からいじめられていない」
何か違う扉を開きそうになったとは、到底言えなかった。
「それで、貴様の駄犬のことだがな」
「……という名前がある人間だ」
「ほう? 貴様が名付けたのか」
「いや、拾われたときに着物に書いてあったそうだ」
「……それだけでは辿るのには足りないか」
どういうことだと視線で問う義勇に、伊黒はいやに優しい声色で告げる。
「なあ、貴様の継子を少し預けてくれ」
「何のためだ」
「拷問の訓練だ。駄犬は拷問に耐える訓練を受けていないだろう? 貴様はどうせあれに拷問など訓練であってもできまいが、あれは貴様に近すぎる。いずれ貴様の急所になりかねんぞ」
「……本当の理由を言え」
「……まあ、さすがに見抜くか。では率直に言うがな、何処の犬とも知れぬ野犬が鬼殺隊にいるのが気に食わん。忘れたと言っている昔に、何か後暗いことでもあるのではないか?」
「お前はそう、思っているわけだ」
「貴様はそうとは思わないと? 水柱ともあろう者が、随分と楽観的なものだ」
伊黒の言葉に、義勇のこめかみがぴくっと動く。けれど伊黒は、何か思うところがあっての過去を疑っているようだった。
「本人が本当に忘れているのであろうともな、あれには暗示がかかっているだろう。それも、何年も経って解けていない」
「……ああ」
「なんだ、気付いてはいたのか?」
「一緒に任務に出るようになって、ようやくだが。それでも、『鬼を殺す』などという暗示をかけて鬼は得をしない」
のそれは、善逸の気絶にも似ていた。恐怖が閾値を超えたとき、恐怖を排して安息を得ようとする。鬼の存在を感じたとき、その暗示によって強制的に閾値まで意識を持って行かれているのだ。腕がもげそうになっても、肺が破れそうになっても、止まれない。鬼を、死の恐怖を前に、自らが傷付いても退くことができない。狭霧山で鬼に邂逅したときはそれが良い方向に転んで生き延びたが、その呪いにも似た暗示がの命を削っているのは確かだった。鬼に相対したときだけ発揮される、常にない反射速度も。鬼という存在が最も恐ろしいものだと、心の奥深くに刷り込まれているから。恐怖によって、無理やり体を限界まで動かしている。死への恐怖に、体を操られているようなものだった。今は義勇へ抱く安心が、そこに箍を嵌めているが。意識のとても深いところに、爆薬を埋められている。義勇も鱗滝もも知らない、『誰か』によって。
「本当は鬼に与する存在だから、敢えてその『命令』を埋め込まれているのではないか?」
「飛躍した妄想だ」
「潔白であることを、確かめてやろうと言っているのに」
「必要ない。が本心から鬼を恐れていることは俺が知っている」
「……貴様、本当はあれの過去を知っているのではあるまいな?」
「知らない。だが、今のなら知っている。俺の継子だ」
真っ直ぐに伊黒を見据えて言った義勇の言葉に、嘘はない。昔ののことを、義勇は知らないも同然だ。義勇が手を離した一瞬で、地獄に落ちて。這い上がって、鱗滝に拾われた。それしか知らない。たったそれだけだ。それでも、今のを知っている。死ぬことよりも鬼よりも、義勇の傍にいられなくなることが怖いと泣いただけは、知っていた。
「……ふん、まあいい。だが、万一駄犬が鬼殺隊に噛み付こうものなら、」
「俺が斬る」
躊躇いなく言った義勇に、伊黒は目を瞬いた。
「万一はありえない。それでも、必要になれば俺はを斬る。拷問だとてする。俺の継子だ」
「……それで、貴様は腹を切るのか。腹が幾つあっても足りぬな」
炭治郎と禰豆子の件を持ち出して、伊黒は不快そうに眉を寄せる。それでも視線を逸らさない義勇に、伊黒は舌打ちをした。
「……甘露寺が、」
「?」
「あれを気にかけている。幸せになってほしいと言っている。精々、首輪を離さずにいてやることだ」
そう言い残して、伊黒は姿を消す。結局伊黒にとっても、鬼殺隊が大切な場所だからああいうやり方で守ろうとするのだろう。大切な人たちが、悲しむことのないように。だから不穏の芽を、摘もうとする。それでも義勇は、知っているのだ。が売られてから逃げ出すまで、の周りで鬼に喰われた者はいない。を虐げた主人とて、健在だ。狭霧山で鬼に襲われるまで、は鬼に会っていないはずなのだ。に暗示をかけたのは、きっと鬼ではない。何の目的があってかは知らないが、少なくともそれが鬼殺隊に害をなすためではないだろうことだけは推測できた。しかしその暗示がなければ、今頃は狭霧山で幸せに暮らしていただろう。
(……不快だ)
遊ばれている。は誰かに、その生を見世物にされている。それが無ければ今の関係にはなっていなかったかもしれないが、不快なものは不快だった。は自分の体を引き摺って必死に生きているのに、誰かに心臓を掴まれている。無理矢理恐慌へと落とされて戦うなど、精神にも多大な負担がかかっているはずだ。出会ったばかりの頃のぼうっとした様子は、鬼に相対した恐慌の反動かもしれなかった。恐慌に陥る回数が減ったから、照れたり笑ったり泣いたりむくれたり、感情を出せるようになって。
「誰が……」
誰が、の深層に手を突っ込んで、掻き回したのか。燃えるような怒りを、胸の奥底に沈める。強固な暗示は、安易には解けない。解いた結果、精神に異常をきたしてしまう可能性もある。今は、手が出せなかった。それでもいつかきっと、義勇はを治してやらなければ。本当の安心を、に与えなければ。到底には見せられない顔で、義勇は決意を固めたのだった。
190331