「……、朝だ」
 本音を言えば、もう少し寝かせていてやりたかった。義勇の声にぱちりと目を開けたは、眠そうに目を擦りつつ義勇の腕の中から抜け出して起き上がる。正座をして「おはようございます」と義勇に頭を下げたの目はぼんやりとまだ眠そうで、それでも薄明かりの中布団を片付け始めた。腕の中から消えた温もりを惜しんでいるのはむしろ義勇の方で、その感傷を振り払うかのように井戸へと向かう。昨日は少し無理をさせたかと思いつつも、思い返せばぶり返しそうになる熱を頭から水を被ることでどうにか収めた。
「わっ、」
 ばしゃん、という水音に隠れて、小さな声がして。驚いて振り向けば、義勇の浴びた水がかかって吃驚しているがいた。すまないと振り向いて頬にかかった水を親指で拭うも、どのみち顔を洗うから大丈夫だとは含羞む。しっかりと抱え込んで無事だった手拭いを差し出すに、そういうところだとこめかみを抑えそうになった。
「…………」
 髪を結い直そうとして、その重みが増していることに気付く。そういえば最後に切ったのはいつだったかと思って、の肩のあたりで切り揃えられた髪を見下ろした。

「? はい、義勇さま」
「髪を切ってくれ」
「……えっ」
「嫌か」
「い、嫌じゃないです! で、でも、私ですか……!?」
「ああ」
「わ、わたし、不器用ですよ」
「知っているが……お前の髪は」
「こ、これは蜜璃様が、あと、なほちゃんとか、すみちゃんとか、きよちゃんとか、まきをさんとか、須磨さんとか、雛鶴さんとか、アオイちゃんとか、しのぶ様とか……」
「…………」
 案外大勢に世話になっていたらしい。そういえば蝶屋敷に迎えに行ったとき女性陣に囲まれてきゃいきゃいと遊ばれていることがままあったと思い返して、義勇は真顔になった。思えば出会ったばかりの頃のの髪はざんばらだった。狭霧山にいたときは鱗滝が切ってくれていたのだろうが、あれを思い返せば不器用具合は察せる。あのときは任務続きでそれどころではなかったことも、鬼との戦闘で髪がざんばらに切れたことも、自分の髪と他人の髪では勝手が違うこともわかるが。
「ぎ、義勇さまの髪が目も当てられないことになったら、私は……」
 目に涙を溜めて見上げるに、そこまでか、と義勇は思案する。けれど、元々義勇は他人に触れられるのが好きではない。切る回数を減らしたり自分で適当に切れるように髪を伸ばしているようなものと言っても、まあ過言ではないだろう。になら触れられても嫌ではないと思ったから頼んでみたが、のビビりっぷりを見ていると可哀想にさえ思えてくる。
「…………」
 仕方ない、と鋏を取りに行った義勇に、はこわごわとついて来る。結んだ髪の束を掴んだ義勇に、はまさかと青ざめて。そのまま適当な長さのところに鋏を入れようとした義勇に、は声にならない悲鳴をあげたのだった。

「ぎ、義勇さま、だめです、それはだめです、絶対だめです……!」
「落ち着け、
 義勇から奪った鋏をえぐえぐと泣きながら握り締めるの手が切れてしまわないか心配で、義勇は見た目にはわかりづらく狼狽える。ぎゅっと握り込んだ鋏を必死に義勇から遠ざけて髪の切り方の酷さに慄くに、義勇は少し落ち込んですらいた。わーっと泣きそうになりながら特攻してきて、義勇から鋏を取り上げたは必死で義勇はそうでなかったとはいえ、義勇から鋏を奪うだけの動きを見せた継子を師範として褒めてやるべきなのだろうか。そんなどうでもいいことに思考が逃げてしまうほど、義勇もも混乱していた。
、手が切れる」
「だめです、義勇さま、刃物厳禁です、」
「わかったから、鋏を離せ」
 鬼殺隊の柱を相手に刃物厳禁とか何を言っているのだと、そう突っ込む人間はここにはいない。そんなにダメだったかと、まさかのの完全否定に義勇は地味に痛手を負っていた。「冨岡さんはさんに甘やかされていますね」としのぶに言われたことを、何故か今思い出す。
「とこやに、いってください……!」
「わかった……」
「ほ、ほんとうですか……?」
 泣きながら土下座をされたことに地味に傷付いて、義勇は力無く頷く。その返事にぱぁっと顔を上げたが「いたっ」と顔を顰めて、義勇はそれまでの慌てようなどどこへやら、反射的にガッとの手首を掴んであっさりその手を開かせた。
「す、すこし、切れました……」
「だから言っただろう!」
「う、も、申しわけありません……」
 ぐしぐしと泣きながら謝るを見下ろして、血の滲む掌を撫でる。ビクッと震えたが涙を浮かべて見上げてくるのに、何故か熱を覚えて。
「……ッ!?」
 バシンと、自らの頬を打つ。驚愕して慄いたを引き摺るように、井戸に逆戻りする。には言えない。言えるわけがない。
(泣いて見上げてくる顔に、欲情したなど)
 こんなに自分は浅ましい生き物だっただろうか。欲とはこんなに醜いものだろうか。男女の仲とは、こんなにも卑俗なものなのだろうか。どくどくと煩い鼓動の音を落ち着かせるように、井戸から水を汲み上げての掌を洗う。その後また自分の頭に水を浴びせかけた義勇に、は怯え切った悲鳴をあげたのだった。

「……
 その夜の義勇は、どこか憔悴していた。切った掌を不必要なほど分厚く包帯でぐるぐる巻きにされたは、ぎこちなく義勇の頭を撫でる。その手をぱしっと掴んで、義勇はを見下ろした。
「嫌なら殴れ」
「え、」
 その言葉の意味を考える前に、は仰向けに押し倒されていた。本当はきっと、いつでもこうしてしまえたのだろう。覆い被さるようにを組み敷く義勇の目は、迷いに揺れている。初めて義勇がに情交を教えた日から、何度か肌を重ねて。今まで「最後」に至ることはなかったけれど、義勇の手によって体が拓かれていることはぼんやりとわかっていた。擽ったいだけだったはずの接触が、その意味を伴って未知の感覚をもたらすようになって。少しずつ深いところへと優しく手を引いてくれた義勇は、迷っているのだ。と最後まで、致してしまって良いものかと。
「義勇さま、その、」
「…………」
「いやなことなんて、ありません……本当に」
「……お前は、思慮が足らない」
「それは……そうです、が……」
「そこは否定をしろ」
 きゃんきゃんと吠えながら鋏を握り締めて怪我をしたり、自分が何を失うのかも知らないままにあっさりと許したり。全ては義勇への慕情だったから、罪悪感を抱えながらも進んできた。今更後に退けやしないのに、義勇ばかりが迷っている。いつだってそうだ、義勇が悩んでいようが迷っていようが、袖を引いて、好きだと、傍にいてくれと、向こう見ずなほどひたむきで。義勇は与えたいのに、奪ってしまっているのではないかと、怖くなる。
「そんなに与えてばかりだと、お前は失ってばかりだ」
「……何も、失くしてません、義勇さまに、もらっています」
 触れ合うときの、温かい気持ちだとか。重ねた肌から伝わる、体温だとか。唇を重ねるときの、強い眼差しだとか。頬を撫でるときの、笑みにも似た柔い表情だとか。義勇はから奪っていると思っている。本当は数え切れないほどに、与えてくれているのに。緊張に震える喉を抑え、は義勇を見上げて口を開いた。
「義勇さまは、優しいです」
「っ、」
「……優しくしてくれて、ありがとうございます」
 本当に伝えたかった言葉が、義勇を傷付けるのだとしても。それでも義勇がから「奪った」と思っているのなら、そんなことはないのだと。は義勇からもらったものでこんなにもいっぱいだから大丈夫だと、顔の横についた義勇の手に触れては眉を下げて笑った。
「お前は、本当に……」
 敵わないと、義勇は思う。義勇の答えに怯えてか、の目じりからぽろりと涙が零れて。泣き虫になったんじゃないかと言えば、そうかもしれませんとは頷いた。目元に唇を寄せると、は擽ったそうに笑う。心底から、愛おしいと思った。
「……優しくする」
 唇を重ねてそう告げれば、は恥じらいながらも嬉しそうに頷く。そんなに幸せそうにされると、怖くなる。都合のいい夢を見ているのではないかと、現実を疑ってしまいそうになる。がそこにいることを確かめるように、柔い頬に手を伸ばした。
 
190402
BACK