「炭治郎助けてよ助けろよあのおっさん絶対おかしいんだよおおおお!!!」
そう泣きついてきた善逸は、炭治郎に縋り付いて顔から出るもの全てを出して泣いていた。今にも死にそうな善逸は、急に炭治郎に謝り出す。
「ごめんな、ごめんな炭治郎ぉぉぉぉ!! おれ、俺、ちゃんのこと守れなかったんだ……!!」
急に出てきた姉弟子の名前に、炭治郎はぴくりと反応する。がどうしたのかと、まさか何かあったのかと善逸の肩を掴むが。
「ヒィ!!」
ガッと、善逸の頭を鷲掴みにした傷だらけの大きな手。悪鬼のごとき形相の実弥を前に、炭治郎は全てを察したのであった。
「あの人絶対おかしいんだよ、ちゃんのこと殴るしさあ」
「な、殴ったのか……!? さんを!?」
姉弟子に続いて風柱の稽古を追い出された炭治郎は、岩柱の修行場への道中で善逸が口にした言葉に慄く。修行である以上女の子だからといって手加減をされるわけではないというのはわかっているが、そういう話ではないと善逸は暗い面持ちで首を振った。
「ちゃんにやたら当たりが強いからさあ……そういうのどうなんですかって言ったら俺まで休憩なしになって、ゲロ吐いて気絶しても叩き起されてボコられてさ、同期のアイツと一緒に……オエッ、」
「だ、大丈夫か善逸」
「思い出しゲロとかホントやってられないんだけど……それで、十回目くらいかなあ、ちゃん、怒ったんだ」
「さん、怒るのか!?」
「怒ってくれたんだよ……風柱様の今してることは稽古じゃなくて弱い者いじめにしか見えない、そんなの男じゃないって」
どこか錆兎を彷彿とさせる物言いに、炭治郎はきゅっと口を引き結ぶ。は炭治郎と違い、錆兎や真菰たちと修行をしたわけではないらしい。ただの養い子として鱗滝の元で過ごしていたとき、鱗滝がいない日に限っての元へ真菰たちが代わる代わる訪れてくれたのだそうだ。当時は彼らと変わらないか彼らよりも幼かったは、死んだ彼らより年上になってしまった今も「お兄ちゃん」「お姉ちゃん」と呼んで彼らを慕っている。彼らの想いもまた、に息づいているのだろう。
「俺たちふたり以外は黙って見てろって言われてたのにさ、おっさんのこと真正面からぶったんだよ」
「さん……」
「で、あのおっさんどうしたと思う!? ちゃんの胸倉掴んで殴ったんだよ!? 顔面だよ!? あんなに小さくて可愛い女の子の!! しかも一回だけじゃなくて、首掴んで宙吊りにして何度も顔面にグーでさあ!!」
「……俺、もう少し不死川さんに反撃しとけば良かった……」
「いや馬鹿なのお前」
真顔で善逸が距離を取るが、炭治郎の眉間の皺は深くなる。いつも怯えていて、人と話すのも苦手な。臆病な姉弟子が、柱にものを言ったばかりか平手打ちまでしたのだ。きっとそれはとても勇気の要ることだったろうと、思うのに。善逸にその後のことを尋ねたが、聞くほどに暗澹たる気持ちになった。何度も殴られて意識の朦朧としているに「今謝れば許してやる」と言い放って腕を折り、肩を外して。「師範と同じ、口だけのヘタレで何も守れないビビリ」と罵って、地面に叩き落とし。そして、義勇への暴言に激昂したに体当りで頭突きされ、倒れたところを追って馬乗りになったに首をがぶりと噛まれた。煌々と憤怒に輝く、天色の瞳。べっと口内の血を吐き捨てた、両腕の使えないはずのはちっとも弱くは見えなかった。
――義勇さまを、侮辱するな。
聞くだけでも壮絶な話に、炭治郎は背筋を震わせる。に皮膚を噛みちぎられて血の流れる首を押さえて、実弥はそれは楽しそうに笑ったのだそうだ。満身創痍のの髪を掴んで、地面に顔を叩きつけて。さすがにまずいと思った周囲が止めに入ったが、実弥の手がようやく引き剥がされたときの顔は血みどろの上ぼこぼこに腫れて、可愛らしい顔がそれはもう見るも無残なことになっていたらしい。追いすがる実弥からを逃がすために団結した隊員たちによりぽんぽんと受け渡されていったは、たまたま別件で屋敷に来ていた隠の後藤に最終的に投げ渡された。「は? え?」と困惑する後藤は、死屍累々を蹴り飛ばして近付いてくる実弥に悲鳴をあげて反射的に駆け出して。実弥に半ば顔を踏まれながら必死にその脚にしがみついて重りの役目を果たしていた善逸は、実弥の地を這うような怒声にがどうにか逃げおおせたことを知ったのだ。
「ちゃん、怪我大丈夫かなあ」
「怪我の治りは早い人らしいけど、心配だな」
義勇さんも気が気じゃないだろうな、と炭治郎は空を見上げる。鬼殺隊に入るべきではなかったと、才能がないと言いながらもを鍛えている義勇は、怪我だらけで帰ってきたを見て何を思ったのだろう。他人のために怒ることができるようになったのことが、心配で。炭治郎の胸が、ぎゅうっと痛んだ。
「、腕の調子はどうだ」
「もうだいぶ、良くなりました。明日からは岩柱様の稽古に参加できます」
「そうか」
引き攣れたようになってしまっている肌をなぞって、義勇はの手を優しく握った。顔の腫れも大方治まって、切れた額もうっすらとした傷跡だけが残っている。藤の簪を髪に差してやって、義勇は目を伏せた。
「……剣士を、辞める気はないか」
「え……?」
「俺は、怖い。お前がいつか、取り返しのつかない大怪我を負って帰ってきそうで。俺のいないところで、ひとりで死んでしまうんじゃないかと……そう考えると、怖くなる」
それは、義勇がに初めて見せた弱さだった。義勇は今まで、多くのものを失ってきた。だからこそ、にずっとちぐはぐな態度をとり続けてしまったのかもしれない。これ以上大切なものを失いたくないがために、大切なんかじゃないと目を逸らしていた。何もこの手に残るものなどないのだと、諦めて生きてきた。この手で守れるものなどないと思っていた義勇がやっと、守りたいという気持ちをに認めることができて、そして失うことが怖くなってしまったのだ。
「俺が、お前に安心を与えるから……俺に与えうる全ての安心を、、お前に与えるから」
ぎゅっと、義勇がの両手を強く握る。いつもは感情をあまり強く映し出さない青色の瞳が、を真っ直ぐに見据えていた。
「俺に安心をくれ、。鬼を斬らなくても生きていけるように、俺がいる」
「義勇さま……」
「守らせてくれと、言うべきだったんだ俺は」
義勇がの手を取って引き摺るように連れて帰ったあの日、義勇はをそのまま戦いから遠ざけてしまうべきだったのだ。その後悔は、今となってはあまりに遅い。だから今、希うのだ。こうして、傷ついたを前に胸を痛めるのはもう十分なはずだった。
「冨岡に、なってくれないか」
「……っ、」
義勇がどんな葛藤や苦悩を経てその言葉を告げたのか、痛いほどにわかった。あれほど自身のことを疎かにしてきた義勇が、と一緒になりたいと言ってくれている。躊躇う理由も悩む理由もないはずだった、は義勇と幸せになりたい。にとって未だ鬼はこの世でいちばん恐ろしいもので、刀を手放すことを思うと心が抉れるように痛くなる。この局面に剣士を辞めるなどいくらが弱くとも、無責任なことだと言われることかもしれないけれど。守りたいと思った鬼殺隊の人たちのことを思うと、胸が苦しくなる。それでも、それでもは、義勇に。安心を、返したい。義勇がいてくれるなら、きっとこの溺れるような恐怖も乗り越えられるのではないかと。迷いながらもそっと義勇の手を握り返したに、義勇は安堵したような、驚いたような表情を浮かべて。
「義勇さま、お慕いして、います」
頬を赤らめて、は真っ直ぐ義勇に視線を向けようとする。の手はぽかぽかと熱くなっていて、だんだん真っ赤になっていくを義勇は思わず抱き寄せた。
「その……日輪刀、なくなるの、怖いです。とても」
何度も何度も折ってしまったけれど、不甲斐ないの命を繋いでくれた大切な刀だ。鋼鐵塚に土下座をして叩かれた回数は数え切れないけれど、それでも鋼鐵塚は刀を打ち続けてくれた。その刀を手放すと思うと、やはり怖いのだ。鬼殺の剣士ではなくなった自分の未来は、うまく想像できない。息が止まりそうなほどの不安が、押し寄せてくる。だから。
「ま、守ってほしい、です。義勇さまに」
「ああ、守る」
泣きたいくらいに、安心する。義勇の腕の中で、義勇の心音を聞いて、そのぬくもりに包まれて。義勇と一緒に、生きていくのだ。幸せな安心に息を緩めて、そして。その瞬間、の意識はぶつりと黒に沈んだ。
190511