鬼を殺せと。例え何を犠牲にしてでも、鬼を殺し続けろと。そうでないと、怖いものがやってくる。追いつかれて、この息が止まる。終わる。いなくなる。この世のどこにも。鬼という存在がある限り、は斬り続けなければ息ができない。恐怖の海で溺れ続けている、そこから救い出そうとする手がに触れてくれたのに。凍り付いたように、重石がついたように、沈んでいく。一時の安息のために今まで殺してきた、かつて人だった化け物。今更この海から逃げることなど許さないと、もはや積み重ねた安堵は恐怖へと成り果てていた。
――私を知っていますか、
義勇と出会う前、は任務の度に鬼にそう問い続けていた。鬼を見るたびに、体の芯から冷えるような恐怖を覚えた。記憶を失う前、きっと鬼に襲われているのたろうと鱗滝も言っていた。だって、最初から記憶に頓着がなかったわけではない。どうしてこんなにも怖いのか、どうしたらこの恐怖から逃げ出せるのか。鬼を殺す以外に、安堵を得られないのか。どうして自分はこんな生き物なのか。鱗滝と親子のように暮らした日々は、本当に幸せだった。この恐怖を思い出しさえしなければ、きっとずっと一緒にいられた。鱗滝に、あんな悲しい顔をさせることもなかった。こんなにも鬼が怖い理由を思い出せたなら、恐怖から逃れる道も見つけられるのではないのかと。いつかまた、あの優しい日々に戻れるのではないかと信じた。だから問うた。きっとそれは鬼しか知らない。どこかにきっと、の恐怖の根源がいるはずなのだ。だから問うていた。誰も彼もがのことなど知らず、鬼を殺すたびに「違った」と虚しい気持ちになるのが、あの時に唯一残された人間性だった。誰か、誰かを知らないのか。誰もの恐怖の理由を、教えてはくれないのか。いつまでは鬼を殺し続けるのか。憎しみも怒りもなく、ただ恐ろしいというだけで。どこに行き着けばいいのか、わからない。何を探しているのかも。ただ闇雲に、恐怖から逃げ続けていた。義勇が手を、掴んでくれた日まで。
「……、」
ぱちりと、瞬きをする。ぼんやりと定まらない視界で、何度か瞬きを繰り返して。死にそうな顔をしてを見下ろしていたのは、義勇だった。ぺたぺたとの頬に触れて、喉にも触れて。の呼気を確かめるように、口元に掌を翳す。掠れた声で「義勇さま」と呼ぶと、義勇はくしゃりと顔を歪めた。泣いてしまう、と思わず伸ばした手を掴んで、義勇はその手を自分の頬に押し付ける。涙こそ流れていないものの、義勇は泣いているとは思ったのだった。
「……息を、していなかった」
少し経って落ち着いたらしい義勇は、の両頬を挟んで言った。少し冷えているの頬に温もりを分け与えるように、何度も摩る。血の巡る感覚は、なんだかひどく遠くに感じた。突然気を失って、呼吸が止まっていたのだという。必死に息を吹き込んでくれた義勇がいなければ、そのまま命を落としていたかもしれない。何か病気を患っているのではないかと、義勇はを案じた。の息が止まることは、度々あったのだそうだ。が知らなかっただけで、何度も。その度に義勇を心配させていたと思うと酷く胸が痛んだけれど、どうしてかにはそれが病ではないとわかった。
「……こわいものが、」
追いつきそうになっているのだ。が、走るのを止めようとしたから。安息に、足を休めたから。こわいものを殺していないのに、逃げるのをやめたから。だからの息は止まるのだ。鬼を殺すのを諦めたとき、は追いつかれる。ずっとずっとの後をひたひたと追いかけてきた、あの恐怖に。
「わたし、まだ、」
「……?」
「……義勇さま、ごめんなさい、」
どうして。どうしては、いつもこうなのだろう。穏やかな日々を与えてくれようとする人の手を、振り払わなければならないのだろう。父親になってくれた人を、伴侶になろうとしてくれる人を、傷付けるのだろう。
「わたし、岩柱様の稽古に行きます」
「……それは、」
「まだ剣士でいさせてください、お願いします……」
守りたいと、ようやく義勇が口にしてくれたのに。を失うことが怖い義勇の気持ちを無視して、は未だ怖いものから逃げようとしている。義勇の与えてくれる安心が、の息を止める前に。まだ走らなければならないのだと、鬼を殺さなければならないのだと、そうでなければは。
「……お前の暗示は、」
「え……?」
「お前にかかっている暗示は、お前を殺すのか」
床に額がつくほど深く頭を下げていたは、義勇に抱き起こされる。とても悲しそうな顔をして、義勇はの頬を両手で包み込んだ。
「暗示、ですか……?」
「……鬼を殺さなければならないと、強迫観念に駆られているだろう」
が自身の感情だと思っていた恐怖は、誰かに植え付けられた暗示なのだと。それに気付いていて黙っていたのだと、義勇は言った。その暗示をかけられている理由も、どうしたら解けるのかもわからなくて。強固な暗示を解くことで、に害が及ぶのを案じて。の恐怖心に箍を嵌めるのが、義勇にできる精一杯だった。そうしていつか鬼への恐れを忘れて、このまま暮らしていけたらと。剣を捨てて、普通の女の子のように。ようやく自分の感情を認められたことを契機に、戦いから遠ざけてしまいたいという思いを吐露した。けれど、の心に植わっていた恐怖の種は、芽吹けばを殺してしまうのだ。恐怖に追い立てられ、死地へと身を投げ。どうしてが、そんなふうに生きなければならないのだろう。義勇が、あの日見捨てたから。一体でも多くの鬼を滅したいがゆえに、あの場をすぐに離れたから。あの時はそれが、より多くの人間を救うことになると思っていた。事実、義勇がその次に鬼を斬ったのは人間が殺されるか否かの瀬戸際だった。けれど、そのせいではただ生きることさえできない。義勇は誰も彼もを救えるような人間ではなく、救える命と救えない命があることは嫌というほど思い知ってきた。を見るたびに胸が痛むのは、自分の罪だと甘んじて受け入れるつもりでいた。けれどあの時の選択が、巡り巡っての首を絞めるのなら。義勇のせいで、は死ぬのか。望んだ途端に、失うのか。
「俺は、と一緒に生きたい」
「は、はい……」
「お前を死なせたくない」
今更、突き放すことはできない。失う前から諦めるのは、もう止めなければいけないのだ。安心を与えて恐怖を抑えるだけでは足りないのなら、共に戦うしかない。ならばやはり、に刀は必要なのだろう。
「……もう少しだけだ」
もう少しだけ、継子でいてくれと義勇は言う。きっと治してみせるから、こわいものから守ってみせるから。だから、それが叶ったならどうか自分の元に来てくれと。今度こそ安息の中で生きてくれと、義勇は乞うた。終わりはきっと近いのだと、誰もが感じている。それは鬼の終わりか、鬼殺隊の終わりか。誰もが前者を願っているに、違いないけれど。きっと大きな戦いが起こる。熾烈な争いになる。だから義勇はを連れて行きたくないのだ。家で帰りを、待っていてほしいのだ。それなのには、まだ鬼を殺さなければ息ができない。深く頭を垂れるを、義勇は責めないのに。
(……暗示、)
どうしてそんなものが、にかかっているのか。自分はずっと、そんなものに追い立てられて生きてきたのか。鱗滝にも、義勇にも、悲しい顔をさせて。そう思うと、ふつふつと胸の中に湧き上がる熱があった。実弥に、義勇を侮辱されたときの感情にも似ていて、もっともっと熱い。これはきっと怒りだ。ずっと気付かずに、追い立てられるままに生きてきた愚かな自分への怒り。そんな暗示を、に植え付けた誰かへの怒り。やっぱりは、このままでは生きられないのだろう。「こわいもの」から自分を解放してようやく、は生きられる。
「義勇さま、わたし、」
きっと強くなると、は決意する。向き合って、打ち壊して。それでようやく、逃げ続ける時間が終わる。は義勇と一緒がいい。だって、義勇と一緒に生きたい。死にたくない。義勇と一緒にいたいから死にたくないと、そう言いたい。だからこの胸の内にある恐怖を、焼き尽くさなければならないのだ。
「強くなって、帰ってきます」
「……ああ」
今まで積極的に強くなりたいという意思がほとんどなかったの言葉に、義勇は目を伏せて頷く。死にたくないと、死への怯えで闇雲に刀を振り回していたが、義勇の元に帰ってくるために強くなると。義勇の願いの結実が正しいものなのか、義勇にはわからない。正しくとも正しくなくとも、ただ共に歩いていくしかないのだろう。守り、守られて、共に幸せに。だからは下手くそに笑うのだ。蝕む呪いを抱えてなお、義勇の願った通りに。無事に帰って来いと、義勇に願えたのはたったそれだけだった。
190708