もおはぎが好きだ」
 大声で実弥の好物について語ったせいで殴られ気絶した炭治郎を寝かせつつ、義勇はぼそりと呟いた。さっさと立ち去ろうとした実弥が、苛立ったように振り返る。
「……テメェだけが知ってるとでも思ってんのかよォ」
「知っていたのか」
「何なら知ったのはテメェより先だ」
「……そうか」
 何が言いたいのかと訝しむ実弥の前で、義勇は懐から包みを取り出す。それをずいと突き出した義勇を、実弥はぎろりと見下ろした。
「……ンだよ」
から預かった。無礼の詫びだと」
「…………」
も、不死川の好きなものを知っていたんだな」
 義勇のことは気に食わないが、からの差し入れを無下にはできない。おそらくその竹皮に包まれているのはおはぎなのだろう。ひったくるようにしてそれを受け取った実弥は、「アイツはァ」と唸るように問うた。
「悲鳴嶼の柱稽古だ。謹慎も解けた」
「……怪我は」
「治った」
 師範として自分も詫びなければならないと、義勇はあっさりと頭を下げた。それが余計に実弥の神経を逆撫でするが、包みを地面に叩きつけようとは思わない。安心とかいうものを、は義勇に抱いているらしい。まったく理解できない安い感傷だったが、はそれがいいとこの男を慕うのだ。血と泥に塗れて生きてきたような女が、果たしてこの清廉な水の中で息ができるのか見ものではあったが。どうせ義勇は躊躇いもなくの手を取ってやったのだろう。そういうところも、嫌いだった。
「テメェがアイツを弱くしたんだ」
「…………」
「ようやく『らしい』顔になったと思ったら、またテメェがアイツを腑抜けさせやがる」
 臆病で、獰猛な獣。恐怖だけが、を走らせたはずだった。それなのに、は怯えを抑え込んで、勇気とかいうものを振り絞って、実弥を諌めてみせた。だから実弥はの前で義勇を侮辱した。の理性を剥せる言葉なら何でも良かった。牙を剥いて、自分がどういう生き物か思い出させてやれれば満足だった。弱いままではは死ぬ。奔り方を思い出させてやろうとしたのに、まだ義勇はを人間にしたがるのだ。
「俺とお前は違うんだろうよォ、確かに」
「…………」
「あいつは、テメェとは違う生き物だ」
「……俺もお前もも、人間だ」
「一緒にすんじゃねェよ」
 殺さなければ生きていけない、そんな生き物が義勇のような人間と同じであるわけがない。その原動力が激しい憎悪であろうが、凍えるほどの怯えであろうが。それでも殺さなければ、進めないのだ。たったひとり。たった一人であっても、義勇は殺さない選択ができた。その正誤はこの際問題ではない。殺さずにいられたという事実だけが、越えられない隔たりなのだ。
「アイツが死ぬとしたら、テメェのせいだ」
「……死なせない」
「テメェのせいで死ぬんだよォ」
 ずっと近くにいたくせに、好物のひとつも知らなかったような男が。今更になってをわかったつもりになって、を弱くする。自分の尺度での幸せを測って、同じ人間として生きようとの足を鈍らせる。だからは死ぬ。実弥の魅せられたは、汚らしくて美しいけものは、きっともう死ぬのだ。
「テメェは俺たちとは違ぇよ」
 そう吐き捨てて、実弥は義勇に背を向ける。もうそれ以上に交わす言葉はなく、義勇も黙って実弥を見送ったのだった。

ちゃんが元気でよかった」
 炭治郎が去った岩柱の稽古で、おにぎりを作るのはもっぱらの役目だった。義勇や鱗滝の修業で滝に打たれるのは慣れていて体力も比較的残っていたし、つい先日も大量のおにぎりを作ったばかりだ。やや不格好ながらものおにぎりは炭治郎とは別の意味で好評で、ただそれでも食事時に姿を見せない善逸を心配しては岩へと向かったのだ。
「我妻さん、大丈夫……じゃ、ないです、よね」
「……ちゃんの、優しいのに言葉選ぶの下手なところ、俺はけっこう好きなんだ」
「えっ、えっと……ごめんなさい……」
「ううん、ちょっと面白くて元気出た」
 明らかに無理をしている笑顔を浮かべて、それでも善逸は振り向いてようやく握り飯を受け取ってくれる。ひとりにしてほしいだろうかと去ることを思案するに、善逸は問いかけた。
ちゃんはさ、きっと育手の人のことが好きだよね」
「はい、好きです」
「本当のお父さんみたいに、思ってるよね」
「はい」
「……大切にしてあげて」
 善逸の言葉に、ははっと目を見開いた。義勇の元に身を寄せて以来、鱗滝とは文通こそすれ未だに顔を合わせてはいなかったこと。本当の子どものように大切にしてくれたのに、無理を言って剣士になって飛び出したのが申し訳なくて、何となく帰れずにいたこと。善逸はそれを知っていても、今までは「一度でも帰ってあげなよ」だとか、そういうことは言わなかった。がそうすべきことを理解していても踏み出せない弱さを気遣ってくれる、善逸はそういう優しい人間だった。それが今、敢えてそういうことを口にしたということは。
ちゃんは大丈夫だよ」
「……我妻さん、」
「きっと大丈夫だから、心配しないで」
 ありがとう、おいしかったと口にして、善逸はまた岩へと向かう。それは柔らかくも明確に引かれた線だった。無理をしたような笑顔が心配だったけれど、もまた薄暗がりの中稽古に戻ろうと踵を返す。はまだ岩を一町押せていない。玄弥に教わった反復動作というものを繰り返して、ようやく岩を動かせるようになった程度だ。が鬼に襲われたときの、鱗滝の必死な顔。剣士になりたいと願ったときの、悲しそうな顔。もう二度と会えない、狭霧山のきょうだいたち。ずっとずっとを救おうとしていてくれた、義勇のこと。義勇が、と一緒に生きたいと願ってくれたこと。それらを胸に、は岩を押す。きっと鬼への恐怖を反復動作にすれば、はもっと簡単に岩を押せるのだろう。けれどもう、は怯えを力にしてはいけない。他人に植え付けられた感情を、糧にしてはいけない。自分がとして生きてきた日々の中に、確かな想いを見つけて歩まなければならないのだ。逃げ続ける日々は、もう終わりにしたくて。という人間の、在り方を探す。義勇と一緒に生きるということは、きっとそういうことだ。
「……義勇さま」
 冷えないようにと羽織ってきた藤色を、そっと握り締める。一緒に幸せになりたい。同じ道を歩んで生きたい。けじめはつけなければならないと互いに思っているから、が義勇の継子である限りは結婚はしないと二人で決めた。けれどがもし「こわいもの」に追われることがなくなったなら、きっと二人で鱗滝のところに挨拶に行こう。結婚の許しをもらいに行くなら鱗滝のところだと、きっと義勇もそう言うだろう。喜んでくれるだろうか、許してくれるだろうか。鱗滝は何を言うだろうかなんて、そんな未来のことを夢想してみたりする。こうしているとまるで、どこにでもいる普通の――
「……ッ!?」
 不意に、体が宙に浮いた。足の下にあったはずの地面が消え失せて、一瞬の後に落下する。何が起こったのかは理解できなかったが、何をすべきなのかは体が勝手に判断していた。ぶつかりそうな障害物に刀を当てて躱しながら、何とか足を下ろせる場所を探す。けれどの目に見える限りには足場などなく、遥か下に水面の揺らめきが見えて。水場ならまだ叩き付けられてもマシだと、は息を止める用意をする。目を瞑ったその瞬間に、ざばんと背中が叩き付けられる痛みが走ったのだった。
 
190708
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