――お、とお、さ、
 が初めて鱗滝のことを父と呼んだのは、いつのことだっただろうか。その時はまだ上手く言葉が話せなくて、ひどくたどたどしくて不格好な言葉が溢れ出た。記憶喪失、失語症。箸の持ち方も、着物の着方もわからない。どこから来たのかもわからず、表情もなく可愛げもない怪我だらけの不気味な子ども。それでも鱗滝は、医者にを診せたときに躊躇いもなく「娘です」と口にしてくれたのだ。その時は、その言葉の意味すら曖昧で。それでも医者が教えてくれた「お父さん」という言葉は、ずっとずっとの喉に引っかかっていた。
 ――、お前は頑張り屋さんだ。
 鱗滝は、とても優しい顔立ちの老人だった。皺だらけの頬をぺたぺたと無遠慮に触るを退けることもせず、「あー」とか「うう」とか呻くようにしか喋れないに根気強く言葉を教えてくれた。食べること、喋ること、着ること、歩くこと。竹藪の中で獣のように蹲っていたを、鱗滝は人の子に戻してくれた。鱗滝の結んでくれた花柄の帯が、は大好きだった。鱗滝が作ってくれた風車を、どこに行くときもいつもは離さなかった。
(おとうさん)
 本当は、もっと上手に呼びたかった。が拙く父と呼ぶたびにくしゃりと笑う鱗滝の顔が、好きだった。けれど、がようやくまともに喋れるようになった頃に、鬼に襲われて。
 ――!!
 が悪いのだ。言いつけ通り家から出なければ、きっとはもっと何度でも鱗滝のことを父と呼べていただろう。握り締めていた風車が、鬼の爪でばらばらに裂かれ散った。赤い残骸が地面に散らばって、まるで血が飛び散ったようだった。胸の奥が、凍り付いたように締め付けられて。それなのに、頭は血が沸騰したように熱くなって。目の前が、真っ赤になって。目の前に迫る鬼の眼球に、風車の軸を突き立てた。
 ――こわいもの、こわいものが来るから、だから、
 剣士にしてくださいと、は鱗滝に頭を下げた。鬼という生き物がいること、鱗滝は鬼殺隊の育手であること。興奮と恐慌が去った後のぼうっとする頭でそれらの話を聞いたは、鬼を殺さねば生きていけないと思ったのだ。その日以来、は鱗滝を「お父さん」と呼んでいない。
(お父さん、ごめんなさい)
 ずっとずっと言いたかったその言葉は、今も喉の奥で凍り付いている。

「あ、目が覚めたんだね」
 ぞっとするような寒気と共に、意識が戻った。言葉の意味を理解するより先に、声の主をめがけて反射的に刀を振っていたけれど。その刀が、奪われて。刀を握っていたはずのの掌に、花浅葱の刃が突き刺さった。
「ッあ……!」
「危ないなあ。駄目だよ、女の子はもっとお淑やかでいないと」
 ぐっと悲鳴を呑み込んだは、刀を引き抜こうとする。けれど柄を抑えてそれを阻まれ、は痛みに歯を食いしばりながらもようやく声の主を見上げた。
「久しぶりだね、元気そうでよかった」
「……っ、」
 傷の痛みによるものではなく、恐怖で冷や汗が伝う。にこにこと懐かしそうに目を細めて笑うその男は、鬼だった。頭から血を被ったような模様の入った、白橡の髪。きらきらと無垢に輝く虹色の虹彩。その眼球に刻まれた、上弦の弐の文字。整った顔立ちには、薄っぺらい笑みが貼り付けられている。が震えているのは、水に落ちてずぶ濡れだからではない。この鬼が、悲鳴すら凍り付くほど恐ろしいからだった。こわい。この鬼は怖い。震えが止まらなくなって、さあっと全身が冷えて、嫌な汗が噴き出して、息がうまくできなくなる。そして、脇腹の傷が脈打つように熱を持つ。形を伴った死。殺さなければ。こわいものはすべて、殺さなければ。それなのに、体が言うことをきかない。こんなことは初めてだった。恐怖がを追い立てていたのに、は立ち上がれない。走れない。走れないのならもう、追いつかれて死ぬだけだ。
「やっぱり鬼狩りになってたんだ。ねえ、君の名前はなんて言うの? あの夜は訊くのを忘れちゃったから、また会えたら訊こうって思ってたんだよ」
「……だれ、」
「え?」
「おまえは、誰だ」
 かちかちと、歯の根が合わない。それでもようやく絞り出した問いかけに、その鬼は大袈裟に驚いたような顔をしてみせた。
「覚えてないの? ひどいなあ。犬に噛まれて死にかけてた子だよね? 俺が助けてあげた」
「……わたしのこと、知っているの、おまえ」
 つくづく自分は犬に縁があるのかと、現実逃避のように思う。思い出せなくてもよかった過去が今更になって、に追い付いたのだ。よりによって鬼に、助けられていたのか。けれど、この鬼との縁はどうしてかにもわかった。きっとこの鬼だ。が鬼を殺さずには生きていかれないようにしたのは、この鬼だ。壊れるまで壊さなければ死ぬ・・・・・・・・・・・・・と、その衝動を鬼に対して抱くようにしたのは。この鬼を殺せばきっと、は首を絞める冷たい恐怖から解放されると。その確信があった。
「知ってるよ。君は俺を覚えていないようだけど、俺はずっと覚えてた。君とあの夜出会ってから、一度だって君を忘れたことなんてなかった」
 頬を赤らめて、その鬼はの刺されていない方の手を取った。震えてうまく動かない手を捕らえて、大事そうに頬を擦り寄せる。怖気を感じて後退ろうとしても、片手が縫い付けられていて動けない。頭が真っ白になっているの目の前で、鬼は滔々と語った。
「君はすごく可笑しな子でね、そして馬鹿な子だった。それでも野生の勘だけはあったのかな、あの世なんてないって言い切っていたよ。それなら俺が食べて救ってあげる必要はないと思ったけど、死にかけてたから鬼にしてあげようとしたんだ」
 それならその時の自分に、は感謝をするべきなのだろう。いくら死にたくなくとも、鬼になどならないと断ってくれてよかったと。何なのだろう、この鬼は。の頭は、理解を拒んでいた。
「君のいた場所は悲惨なところでね、だから君は地獄がここにあったから浄土もこの世にあるって言ったんだよ。ここより暖かくて優しい場所があるはずだって、そこに行きたいんだって、一生懸命で哀れだったなあ」
 の指を、鬼の指先がなぞっていく。形を確かめるように、一本ずつ。丁寧に丁寧に、鬼はの指に触れた。
「でも俺は優しいから、君の背中を押してあげることにしたんだ。本当に馬鹿で哀れだったけど、それがいじらしくて可愛らしかった。鉄の錠前を石で壊そうとしている君を見て、胸がドキドキした。生まれて初めてだったんだ、君から目が離せなかった。一目惚れだったんだよ、だから助けてあげたかった」
「……どうして、暗示、」
「……ああ、気付いてた? 誰かに教えてもらった?」
 にこりと、親しげに鬼は笑う。何だって上弦の鬼が、鬼を殺さなければ生きていけない暗示などを人間にかけたのか。理解の及ばない生き物が、の手を握っていた。
「君とのお別れが、惜しくなって。でも、引き留めても意味がなさそうだったから。鬼を殺すために生きていれば、いずれ俺に会いに来てくれるかなって思ったんだ」
「そんな、理由で……」
「だって、寂しかったんだよ。俺は君に会えて嬉しかったのに、君は俺に見向きもしないでどこかに行くって言うから」
 何もかもが、初めてだった。月明かりの中、血と泥に塗れて石を振りかぶる幼子を見て、胸がざわりと騒いで。戸惑うという感覚すら、心地好くて。幼いのに、馬鹿なのに、彼が憐れむ人々とは違ってこの世だけを真っ直ぐに見ていた。彼女ともっと話したかった。きっと良い友達になれると思った。このまま死んでほしくないから鬼になってほしかったけれど、彼を振り向きもせずに走り出す姿に惹かれた。ずっと手元に置いて、感情を与えてほしかった。でも彼女は行ってしまうから、意地悪をしてしまったのだ。でもお呪いが叶って、今こうして会えたから。
「ねぇ、名前を聞かせて? それで、鬼になって俺と一緒にいてほしいな。きっと俺たちは出会うべくして出会ったんだよ。だからこうしてまた会えた」
「……鬼になんて、ならない。鬼に名乗る名前もない、私はお前と一緒になんていたくない」
 鬼狩りとして生きていて、どうして鬼になることを願うと思ったのだろうか。何よりには、一緒にいたいと誰より望む人がいる。暖かくて優しい場所を探していたという自分は、もうそこに辿り着いている。鬼に掴まれた手を振り払ったは、刃を握ってでも刀を引き抜こうとしたけれど。
「そうか……あまり酷いこと、したくないんだけどなあ」
 ぼきりと、嫌な音がした。骨の砕ける音が、肉を伝わって耳に届く。左腕が、付け根に近いところで折られたのだと。あらぬ方向に曲がった腕を見て、やっと痛覚が働いた。どっと脂汗が吹き出した額を、鬼の冷たい手が優しく撫でる。焼け付くように腕が痛いはずなのに、体全体が凍えて震えている。濡れていたはずの羽織や隊服がきしりと固く擦れる音がして、全身が比喩ではなく凍り付いていることに気付いた。貫かれた掌の傷が、凍てついて痛い。冷えきった鉄が、裂けた肉を余計に痛める。捻れるように折られた左腕はずきずきとうるさく痛みを訴えていて、そのくせ言うことを聞かずにだらりと投げ出されていた。凍てついた体が重くて、無様に頭を垂れるように蹲ってしまう。惨めに這い蹲るを見下ろして、その鬼は刀の柄に手をかけ更に深く突き刺した。
「っ、あ、」
「このまま良い子にして待っていてね。騒ぎが落ち着いたら、あのお方のところに連れて行ってあげるから」
 霜を払うようにして髪を撫で、鬼はの顔を覗き込む。頬に手を当てて、の顔を上げさせた。虹色の虹彩、上弦の弐。どくり、どくりと心臓が脈を打つ。こめかみに熱い血が巡って、ドクドクと煩い。腐臭を放つ死が、すぐそこにある。それはの手を掴んでいた。どくりと、爆ぜるようにこめかみで脈動が鳴る。
――犬に噛まれて死ぬ。月の綺麗な夜。風車が壊れた。反復動作。鱗滝の悲しむ顔、の帰れない場所。義勇の表情が脳裏にちらついて、が死ぬのが怖いと打ち明けた声が耳元で響いた。
(いやだ、)
 また失くすのは嫌だ。死んでも手放したくない。義勇と一緒にいるあの優しい場所を、失くしてたまるものか。はそれが、それだけが、「死ぬより怖い」。
「――っ!?」
 ぐわっと口を開けて、その頸に喰らいつく。人間のそれより硬い皮膚を、ぶつりと犬歯が突き破る音がした。
 
190714
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