――もしも記憶が戻ったら、
それは、義勇が口にしかけて終ぞ続きを言わなかった言葉だった。もしも記憶が戻ったらどうすると、きっと問いたかったのだろう。そして、その問いが無意味であることを知っていたから問わなかった。のことを知るという鬼に出会っても、その鬼に腕を喰われ死の淵に立たされても、の記憶の蓋は固く閉じたままだ。けれどは思うのだ。記憶があろうが無かろうが、義勇の隣にいるだろうと。どうもしない、変わりなく、ただ義勇の傍で。根拠もなく、そう思うのだ。
――鬼になるくらいなら、
死んだ方がましだ。
そんなことをが考えたと知ったら、義勇が抱くのは自責だろうか。それとも罪悪感だろうか、悲しみだろうか、怒りだろうか。あれほど死を恐れ忌避していたが、自分の死よりも義勇に顔向けできないことを恐れ死なないことを諦めたなら。「そんなことを思わせてしまった」のは自分のせいだと、きっと義勇は自身を責めるだろう。例えそれが鬼殺隊として、人として、正しい選択だとしても。鬼になってでも生き延びろとは、きっと義勇は言うまい。それでも鬼になるくらいなら死んでしまえとも言えないのが義勇なのだ。優しくて、哀しい人。誰よりも愛しくて、切なくて、寂しくて、尊くて――が、唯一自分の命より大切だと思う人。
(義勇さま、)
痛みを与えてくれた。死に怯えて自分の命すら見えていなかったに、生きているということを思い出させてくれた。怖いものを与えてくれた。失うのが怖いと、嫌われるのが怖いと、傍にいられなくなるのが怖いと、慈しんでもらえた自分ではなくなるのが怖いと、心を動かしてくれた。欲を与えてくれた。もっと触れたい、もっと繋がりたい、ずっと一緒にいたい。恐怖から逃げてばかりいたが、自ら望んで目指す場所を得た。道を、繋がりを、願いを、義勇は与えてくれた。それがどんな理由だとしても、の過去に何が埋もれていようと、ただは義勇と与え合いたいのだ。奪い奪われるだけの獣には、戻りたくない。失い、求め続けるだけの屍になど、なりたくない。
「かえ、り、たい、よぅ……」
きっとは義勇を置いて死ぬ。それは、義勇と出会ってすぐにわかっていたことだった。才覚がないのにも関わらず、剣士の道を選んだ報い。鬼を殺すのに足りないものを、命で補った対価。は鬼を殺せないはずだった。何もかもが足りていないはずだった。けれど殺せなければ死ぬから、防衛本能が身体機能の箍を外した。そもそもは鬼狩り足りえない弱者だった。それでも殺せと走り続けた結果が、本来の機能に見合わない力を出し続けて損耗した体だった。戦闘による負傷よりよほど深刻だと、蝶屋敷での療養の中でしのぶは告げたのだ。
――さん、あなた、早死してしまいますよ。
戦闘の度、常に全力以上の稼働を求められる体。自らの意思での制御はできず、鬼を前にすれば身体機能の制限は恐怖によって外れてしまう。常に壊れ続けている体は異常なまでの自己治癒力を得たが、それも結局は命がすり減る速さを加速させるだけだ。鬼と戦えば戦うほど、の命は凄まじい速さで削れていく。刻限を延ばすには、鬼殺隊を辞めて鬼と関わらずにいるしかない。は死にたくなかった。けれど、は手放したくなかったのだ。あの日義勇がの手を引いてくれたときの安心を、手放したくなかった。離れてしまえば、もう二度と手に入らない気がした。恐怖に溺れ、命をすり減らしてまで鬼を殺し続けても得られなかったもの。鬼を殺した瞬間の僅かな安堵よりずっとずっと、あたたかくて離れがたかった。だから離れなかった。頬を打たれても、素っ気ない態度を取られても、それでも義勇に感じる安心は変わらなかった。胸焼けがするほど食べさせられたおはぎは甘くて、思い返すたびに胸の辺りがほわほわとした温かなものに包まれたからおはぎが好きになった。義勇はの、安心だった。
――本当に、冨岡さんには言わないんですね?
しのぶの問いに、は畳に頭を擦り付けるほど平伏して懇願した。どうか義勇には知らせないでくれと。あの優しい人はきっと、それを知ればを鬼殺隊から引き離す。狭霧山で鬼と遭って以来、鬼を殺すことでしか安息を得られなかった。あの日以来初めて見つけた義勇という安心から離れることは、とても恐ろしくて。隠し事をしてでも、近くに置いていてほしかった。しのぶがどうしての願いを聞いてくれたのか、にはわからない。しのぶは義勇に黙ったまま、を診てくれた。身体機能の制限を外すほどの恐怖は義勇によってどうにか箍を嵌められ、訓練にも耐えれるようになって。安心の元での日常は、心地よすぎた。気付けばは、恐怖から逃避し安心を探すということ以外にも心を向けるようになって。安心と定義していた義勇に、好きという気持ちを抱いていた。鱗滝やしのぶたちが心配してくれる気持ちに、応えたいという願いが芽生えていた。炭治郎や禰豆子たちと過ごす時間に、弟妹ができたような嬉しさを感じた。実弥から向けられるちぐはぐな優しさに、戸惑いながらもその意味を考えるようになっていた。義勇に与えられていた安心は、いつの間にか与え合う愛情になっていた。それらの幸せを噛み締めると同時に、自分の選択の意味を突き付けられた。自分のいていい場所ではない「ここ」にしがみついた代償は、もはやだけが支払うものではなくなってしまっていた。ここにいることを望んだ結果、零れ落ちていく残りの命。が大切に思う人たちを悲しませる最低の選択を最初からしていて、しかしそれを選ばなければ大切な人たちは得られていなかった。後悔はないけれど、自分の愚かさを痛感する。
(やっぱり私は、馬鹿だったんだ)
僅かに浮上した意識を手放すまいと、歯を食いしばった。凍り付いて、まともに動かない体で這いずる。ほとんど何も見えなくて、音もろくに聞こえない。刀を握り締めたまま、右手だけでどうにか這いずった。
「……ッ!!」
突然の浮遊感と、間もなく訪れた冷たい衝撃。またどこかの水場に落ちたのだと、感覚でわかった。ゴボゴボと、肺から空気が漏れ出ていく。を置いて去ったあの鬼は、を生かす気こそあれど人間の脆弱さを深く考えていないのだろう。どうせ鬼になれば治ると、それだけだ。これだけの出血と凍傷を負ったまま溺れれば、血も止まらず水面にも上がれずいずれは死ぬ。浮遊感の長さからして、岩柱の稽古場から落とされた時と同じ――あの床板から池に落ちたのではなく、別の空間に落とされたのだと判った。望みたくもないが、あの鬼の助けは望めないだろう。絶望的な状況だが、やはりは死にたくない――否、
(生きたい、)
留めることもできず、溢れていく空気。段々と真っ白に染まっていく意識。諦めたくないのに、沈んでいく。思うように体が動かない。息ができない。
――追い付かれる、
涙が水に混ざって消えたその時、誰かがの手を強く引いた。
ぐらりと、激闘の反動で義勇は刀を支えにするようにして気を失う。僅かに残った意識は思うようには働かず、気付けばのことが思い浮かんでいた。きっと夢に近いものなのだろう。ふわふわと、とめどなくの姿ばかり浮かんでは消えていく。
――、
すまないと、そんな思いが過ぎる。義勇は柱だ、自分の命を惜しく思うはずはない。それでも、死ぬために戦っているわけでもない。だが義勇は、痣を発現させた。例えこの戦いで生き残り、鬼のいない世界を勝ち取ったとしても数年もしないうちに世を去るだろう。後悔はないが、心残りはあった。だけが、心残りだった。ようやく未来のことを願えるようになったを置いていくことが、どんなに罪深いことか。与えるだけ与えておいていなくなることの無責任さに、実弥が怒ったわけが今なら理解できる。きっと義勇はの心に消えない傷を残す。そうなる前に、手放すべきだった。いなくなるくらいなら、救ってやるべきではなかった。それをわかっていて、愛した。どんなに覚悟を固めていても、のことだけは割り切れない。あの燃え尽きそうな命が与えてくれた今に、縋っていた。いつか来る結末から、目を逸らしていた。痣が出れば二十五の歳を数えることなく死ぬことを、には話していない。これからも黙っているつもりだった。義勇はに、隠しごとをしてばかりだ。そうして義勇がいなくなったら、はきっともう新しい安心を探しはしないのだろう。の心は、義勇と共に死ぬのだろう。実弥の言う通りだ。義勇の与えた安心が、を殺すのだ。あのうつくしい命を、義勇が人間にしてしまった。それでも今更、手放そうとは思わない。ひどい我儘だ。その我儘が、の息を緩やかに止める。
(……不死川は、が好きだったのか)
こんな状況で、今更気付く。自分の好いた女が、こんな男を慕っていれば腹立たしくて当たり前だ。実弥はの燃え尽きそうなところを好いていたようだけれど、きっと実弥ならをきちんと大切にしてやれたはずだ。義勇のように、中途半端に迷い続けはしなかったはずだ。次の命を繋いで、自分がいなくなったあとも生きろと言ってやれるのだろう。何もかも、義勇とは違う。それでも、義勇とは今確かに同じ道を歩いている。繋いだ手を、離す気はなかった。
――、
もこの場所に落とされているのだろうか。どこかで戦っているのだろうか。守ってやりたい、約束を守りたい。守ってほしいと、ようやく口にできたのところに駆けつけてやりたい。それでも義勇もも、鬼狩りだ。互いの約束より優先すべきものを、知っている。は義勇の助けを求めることはなく、義勇がを探すことはない。それでも、手が届くなら守りたい。炭治郎を守ると決めたように、届くはずの命を取りこぼしたくない。
(死ぬな、)
それは、自分に言い聞かせた言葉だったのだろうか。に届けたかった言葉なのだろうか。とうとう意識は沈み、ふつりと視界は暗転した。
190819