ざばん、と聞こえた水音に、実弥が真っ先に警戒したのは鬼の襲撃だった。けれど振り向いた視界を掠めた落下物を、優れた動体視力は捉えてしまって。どくりと、心臓が嫌な脈を打つ。彼の大切なものが目の前で吹き飛んだあの爆発が、脳裏を過ぎった。
「……ッ、」
 足を止める暇はない、けれど見えたのは紛れもなく鬼殺隊の隊服だ。戦力を無闇に減らす必要もないと自分に言い聞かせるそれは、まるで言い訳のようだった。見間違いだったなら、良かったのに。ざばりと水面を割って突っ込んだ腕が掴んだのは、彼にとって見覚えのありすぎる藤色だった。
「……、」
 呆然としたのは一瞬のことで、「こういった状況」に慣れている体は勝手に最適な行動をとっていく。脈があることを確認し、呼吸があることを確かめ、そして、
(もうこいつは戦えねェ)
 切り捨てるべきだと、わかってしまった。半身を覆う氷、利き手を貫通している創、腕を失い血を流し続けている左肩。生命力の強いとはいえ、戦うどころか数時間の命すら危うい状況だろう。実弥が成すべきことは、戦えない隊員を延命させるために時間を浪費することではない。わかっては、いた。
「……何があった」
 問うまでもない、鬼と交戦したのだ。戦い、敗北し、腕を失った。実弥の前に落ちてきたのは、どこにでも転がっている敗者の末路だった。
「腕、失くしたのかよォ……」
 ちぎれかけている羽織の袖を裂き、歪な断面を縛って止血する。乏しい表情の代わりにの心情を語っていたその手が、腕が、欠けてしまっていた。ただでさえ小さくて頼りない体が、一層脆く見えて。
「…………」
 ぐっと唇を噛み締めた実弥は、それ以上は口を開くことなくの体を抱き上げる。部屋の隅にをそっと横たえ、鴉に「近くに隊員がいたら呼んでやれ」と命じる。抱えて連れて行くわけには、いかなかった。
「……ぎゆう、さま?」
 その声が聞こえていなければ、実弥はすぐにでも駆け出していただろう。

「もしも、鬼がいなかったら……?」
「……ああ」
 それは、とある冬の日の思い出だった。任務の帰り道、雪に道を閉ざされて。山小屋で夜明けを待っていた、そんな静かな時間。耳の痛くなるほどの静寂の中、義勇はに問うた。もしも、この世に鬼がいなかったらはどう生きていただろうかと。
「……思い、浮かばないです」
「そうか」
 尋ねておいて淡々とした答えだったが、元よりそれを気にするようなではない。むしろ義勇の方が、どこか苦々しい表情を浮かべていたけれど。には、鬼のいない世界を想像できない。の腹に残る傷は、鬼の噛み跡だ。鱗滝に拾われる前、自分がどう生きていたのか。それはからは欠落してしまっているものだ。鬼のいない世界に、「」は存在していなかった。だから、思い浮かばない。
「……でも、」
 どう生きていたか、はわからない。けれど、どう生きていたいか、は知っていた。
「義勇さまと、おうちに帰りたいです」
「鬼がいなかったら……鬼が、いなくてもか?」
「はい」
 義勇の手が、の手を引いてくれて。家までの道を、二人とも言葉少なに帰る。それが、の知っている幸せのかたちだった。
「……雪が止んだら帰るぞ」
「はい、義勇さま」
 先に休めと言いながら、義勇がもぞりと羽織を脱いでにかけてくれる。それでは義勇が寒いだろうと思ったは、もぞもぞと自分の羽織を義勇にかけた。結局羽織を交換しただけになったのを見て、義勇が何とも言い難い表情を作る。義勇を覆った藤色を見て、はふと思い出したことを義勇に問うた。
「春になったら、藤を植えてもいいですか……?」
「……屋敷にか?」
「はい、藤の家紋の家の人が、種をくれて」
 種を撒く季節も、育て方も、教えてくれた。の羽織や簪を見て藤が好きなのだろうと分けてくれた種を受け取って、は何度もその老婆に礼を言ったのだ。
「好きにすればいい」
「ありがとうございます、義勇さま」
「……俺に礼を言うようなことでもない」
 その後仮眠のために目を瞑ったは、きっと間抜けな顔をしていたのだろう。暗くなった視界の中で、義勇がふっと笑った気がした。が朝に起こされたとき、かけられた羽織は二枚になっていて。を起こさず一人で寝ずの番をした義勇は、家に帰るまで手を繋いでいてくれたのだった。

「……ふじ、大きくなったんです」
「…………」
「きっとらいねんは、花も……」
 実弥のことを義勇だと思ったまま、は今際の言葉を紡ぐ。血を流しすぎている上に、高所からの落下で強く体を打ち付けている。朦朧とする意識では、視界も定かではないようだった。上弦の鬼と交戦したというから、その鬼の血鬼術や外見を聞き出して。そして、最期を看取っていた。そのくらいの時間は、許されてもいいはずだった。恋焦がれた女の言葉を、託されるくらいの時間は。
「わたし、たぶん……もう、だめなので、」
「……あァ」
「ふじのお世話、おねがい、します……」
 伝えておく、と心の中で頷いて、が懐から出した簪を受け取った。義勇がに贈った藤の簪だ。憎らしいほどに、に似合っていた。その耳元で、可憐に揺れているのを見た。何度も、何度も。形見になるであろうその簪を、そっと握り締める。少し力を込めれば折れてしまいそうなほど、脆かった。
「……あの鬼、いなかったら、わたし……義勇さまに、会えていなかったんだそうです……」
「……?」
「鬼にたすけられて、いきのびて、いたって……うそだって、思い、たかったんですけど……」
 の知らない、拾われる前の記憶。そこに鬼が関わっていたという事実に、さしもの実弥も絶句する。一番困惑しているのはだろう、けれどそれについて考える時間はもうにはない。何度か血を吐いて、は凍傷でひび割れた唇を動かした。
「やっぱり……思いうかばない、です、鬼がいなかったら、どう生きてたか、」
 水に浸かったせいか、肩からの血は止まらない。藤色の羽織は、すっかり赤く染まっていた。もう長くない。危うい呼吸の音が、言葉を途切れさせていた。
「つなぐ手、なくしちゃったので……義勇さまといっしょに、かえれない、ですね……」
 眉を下げるの手を、残った右手を、思わず握り締めた。の望む人間は自分ではない。そんなことは痛いくらいにわかっていたから、と手を繋いだ。「帰るぞ」と歯を食いしばりながらどうにか口にすると、は一瞬目を見開いて、へにゃりと笑った。
「……あんなに、こわかったのに、」
 もう、怖くないです。そう言い遺して、の瞳から光が消えた。その瞼を閉ざしてやり、実弥はを抱き上げる。城内を跋扈する鬼どもに喰われるくらいなら、そう思って実弥は先ほどの落ちた池に足を向けた。
「…………」
 言葉もなく、小さな亡骸を水に沈める。底の見えない池に、藤色が消えていく。完全に見えなくなるのを見届けることもなく、実弥は強く地を蹴った。もうは走れない。それでもあんなに、うつくしかった。義勇がを殺すのではない、は義勇に生かされたのだ。死に追い付かれる、とあんなに怯えていた女が、死の間際にあんなふうに優しく笑った。死への怯えから何度も鬼の頸に刀を打ち込んでいたあのが、鬼を殺せず命の尽きる間際に「こわくない」と言った。の首を緩やかに締めていたはずの安心が、の心を救っていたのだと。
「……ふざけんなァ」
 涙が落ちるより、速く駆ける。は安息に足を止めたのに、「こわいもの」に追いつかれることはなかった。恐怖の根源を、死の間際に確かに克服していた。暗示は、解けていた。義勇の与えた安心がを生かし、けれどは死んだ。未練も心残りも、たくさんあったはずだろうに。実弥の手を握り返して、笑って逝った。の死は、きっと疵になる。の残した噛み跡ごと、消えずに残ればいい。そうすれば、実弥はを許さずにいられる。あの男のことだから、きっとには「死ぬな」だの「生きろ」だの言っていたに違いない。も、それに対して従順に頷いていたはずだ。約束を、交わしていたはずだ。それなのに、は一言も「謝らなかった」。先に逝くことを、義勇に詫びなかった。は最初から義勇より先に死ぬつもりだった。自分が先に逝くことを知っていて、謝罪の言葉などはとっくに遺書に飽きるほど記していたに違いない。あの女は、約束を破ったことに――義勇がよりも後に逝くことに安堵して、あんなに穏やかに笑ったのだ。
「覚えてろよォ、クソガキ……!」
 よりによってそんな最期を、実弥に看取らせた。あの世で会ったら泣くまで尻を叩いて躾直してやると、固く決意する。初恋を残酷な形で散らされた実弥は、怒りを燃やして城内を駆けるのだった。
 
190917
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