「君も死んじゃったの?」
「…………」
「じゃあ俺と一緒に地獄に行こうよ、しのぶちゃんには振られちゃったし」
鬱陶しく寄ってくる上弦の弐を、目も合わせず無視する。しのぶが死んだことも自分が死んだことも許せないが、この鬼も死んだのかという感慨はあった。ただ何もできずに弄ばれた末に事故のような死を迎えた自分とは異なり、しのぶは自らに課した役割を果たして旅立ったらしい。それで失われた命がある以上素直に感嘆することなどできるはずもないが、あくまでそれはの感傷だ。ひとりで行けばいい、そう答えたのは本心だった。
「俺は、子どもの頃に君に会うべきだったなぁ」
「…………」
「君と会っていれば、俺は鬼にならなかった気がする」
「……そう」
この男は、地獄になど落ちるまい。この男はあの世など信じていない。この男は消え去るだけだ、どこにも辿り着けずに無に還る。もそうなるはずだった。義勇と、出会っていなければ。
「君はいかないの?」
「私はここにいます」
「じゃあ、俺もここにいようかなあ」
勝手に隣に座り込んだ男を無視して、は羽織を握り締める。この暗闇で、それでもはひとりでも未来永劫義勇を待っていられる。この鬼と一緒になどいたくはなかったが、今更斬り合いになるわけもなく。ただ、義勇のことを思った。
(……義勇さま、怒っていたかな)
約束を、破ってしまった。最期の言葉を託した相手が義勇ではないと知らないは、胸にふつふつと湧き上がる後悔をひとつずつ拾い上げていく。義勇と一緒に、帰れなかった。祝言を、挙げられなかった。冨岡に、なれなかった。せめてそこまではこの命を、保たせるつもりでいたのに。鱗滝に、もう一度「お父さん」と呼びかけて笑顔を向けてほしかった。実弥にも、柱稽古の無礼を直接謝れていない。アオイはが傷痕を薄くする薬を塗り忘れるのをいつも叱ってくれたのに、家に薬を置いてきたままにしてしまった。カナヲと、今度一緒に駄菓子屋に行こうと約束していた。後藤には、炭治郎をもう少し大人しくさせろと頼まれていた。蜜璃に、パンケーキの作り方を教わる約束をしていた。いつの間にかの世界は大切な約束で溢れ返っていて、それなのにはそれら全てを置き去りに逝くのだ。それでも一つだけ、まだ最後に全うすべき約束がある。は義勇の傍にいる。決して離れない。たとえ、魂だけになっても。錆兎や真菰たちが狭霧山に帰ったように、は義勇の隣に帰る。こうして、ずっと。
「ねえ、」
「…………」
「俺は最後に君に会えてよかったよ」
返事もしないの隣で、鬼はにこにこと語る。その輪郭は既に崩れ始めていて、地獄か何処かは知らないが鬼には鬼の行くべき場所があるのだろう。の隣は、空いていない。
「君が死んだのは残念だな」
「…………」
「殺すつもりはなかったんだぜ? 殺したことを後悔したのは君が初めてだ」
鬼の手が、に伸ばされる。ぼろぼろと崩れるその腕が、に触れることはなかった。
「ねぇ、」
「…………」
「俺を哀れんで」
意外な言葉に、は思わず顔を上げる。何もかもが作り物めいていたその男の顔に、初めてまともな表情らしきものが浮かんでいた。
「……かわいそう」
淡々とした声が、ぽつりと響く。の言葉に満足げに笑った鬼が、灰のように散り散りに消えていった。
「――本当に、残念だなぁ」
妙に晴れやかな声色の言葉を遺して、鬼が消え去る。藤色の羽織を握り締めて、は静かに目を閉じた。
夢を、見ていた。あの冬の日の帰り道、と手を繋いで薄明かりの中歩いていたときのことを。記憶の中では義勇がの手を引いて歩いていたのに、今はがぐいぐいと義勇を引っ張っていく。まるで犬の散歩のようだと、にこにこと義勇の手を引くに苦笑が浮かんだ。
「、転ぶぞ」
一応窘めはしたものの、は義勇の手をぎゅっと握り締めたまま白い雪に包まれた世界を進んでいく。藤色の羽織の裾が、ひらひらと舞っていた。
(……?)
ふと、違和感を覚えた気がして義勇は目を瞬く。何に引っ掛かりを覚えたのか深く考える暇もないまま、は雪道に足跡を残していった。
「――もしも鬼がいなかったら、」
唐突に、が振り向いて口を開く。それは、『昨日』の会話の続きだった。淡い笑みを浮かべて、は義勇に問うた。
「もしも鬼がいなかったら、義勇さまはどう生きていましたか?」
「…………きっと、」
情けない男だったに違いない。犬に怯えて姉の影に隠れる、臆病な泣き虫だっただろう。それでも、守るべき日々を手放さないために強くなることを決意して。蹲りそうになりながらも、周りの叱咤でようやく顔を上げることのできる人間になっていた。今とさほど変わらないのだろうなと、自嘲めいた笑みが浮かぶ。けれど、どう生きていたいかは義勇にもわかっていた。
「お前を迎えに行く、」
「鬼が、いなくても……」
「ああ。一緒に帰ろう」
きっと、何度でも見つけに行く。誰でもないを、迎えに行く。手を繋いで、一緒に帰る。今、こうして歩いているように。握り合った手の温もりを、その安心を、大切に守る。そうやって生きていく、何度でも。義勇の答えを聞いたは、頬を淡い桜色に染めて含羞む。幸せの、色だった。
「…………」
ふいに、が前を向いて軽い足取りで駆け出す。手を繋いでいる義勇も、一緒になって駆けた。昇ったばかりの陽が雪に反射して、少し眩しい。溶けた雪の少し寂しい匂いが、つんと鼻を突いた。
「、」
そんなに走ったら転んでしまうと、そう言おうとして視界が眩しい白に覆われる。一瞬のまばたきの間に、繋いだ手がするりとほどけて。反射的に伸ばした手は、羽織の裾を掠めただけで届かなかった。
「……!」
眩しい光の向こうに、視界いっぱいに広がる藤色。冬には決して、ありえない景色。庭いっぱいに藤の花が咲き誇る自分たちの家へと、帰ってきていた。あの屋敷の藤は、まだこんなに大きくなってはいない。それに、花をつけたこともない。それでも、藤の花に埋もれそうなここが自分たちの家なのだとわかった。
「……?」
にこにこと、藤の下で笑う。逆光で、その笑顔の輪郭がぼやける。ひらひらと舞い落ちる花弁の向こうにいるは、とても綺麗だった。
「……また、会えます。きっと」
何度でも。が義勇と帰ることを願い、義勇がを見つけることを願ってくれるから。だからきっとまた会えると、は笑った。
「でも、あんまり早いと困ります、」
ゆっくり来てくださいと、は眉を下げた。それはまるで、先に行くと言っているかのようで。問おうにも、喉が動かない。手も、脚も、少しも動かすことができなかった。
「ずっと、『ここ』にいます」
義勇に歩み寄ったの手が、一度だけ義勇の手をそっと握り締める。名残惜しげに目を細めて、は藤色を翻した。
――あなたはここに隠れていて、
姉の赤色が、脳裏で違う赤に染まる。
――俺は皆を助けに行く、
友の黄と緑の亀甲柄が、瞼の裏で闇に溶けた。
「……行くな」
また置いて行かれるのだと、わかってしまった。どうにか絞り出した声は、みっともないほど震えていた。それでも、引き留められないことも知っている。追いかけられないことも、わかっていた。先に行くのは、自分のはずだったのに。
「」
藤の向こうに消えようとしていたが、一度だけ振り返る。泣きそうな顔で、笑みの形を作って。無垢で、可憐で、かなしい笑顔だった。藤の花が、の最期の笑顔を隠してしまう。行かせまいと手を伸ばした瞬間、真っ白な光が溢れ出して。何も掴めないまま、義勇の意識は光に沈んだ。
「……?」
この場にいるはずもないの名を呼んで、そして意識が戻った。刀を支えに気絶していた義勇は、ハッと辺りを見回す。炭治郎の怪我を、呼吸を、生きていることを確かめた。安堵する間もなく、出血の止まっていない怪我の手当を進めていく。夢で見た光景が何度も脳裏を過ぎったが、今義勇がすべきことは目の前の弟弟子を守ることだ。じりじりと焦りながらも、手当を続ける。破れた自分の羽織が、ちらちらと視界に入っては焦燥を募らせた。
「……どうした」
炭治郎に手紙を運んできた鴉が、何か物言いたげに義勇を見上げていた。要件があるのならば言えと見下ろした義勇を前に、なおも鴉は躊躇した様子を見せる。訝しげに眉を寄せた義勇を前に、意を決したように鴉は嘴を開いた。
「、死亡……」
一瞬、頭が真っ白になった。目を見開いたまま動かなくなった義勇の前で、鴉は報告を進めていく。義勇が気絶している間に、他の鴉から触れがあったのだと。上弦の鬼と交戦後、別の場所に落とされて死んだのだと。まるで他人事のように、鴉の言葉は右から左へと通り抜けていった。
「……っ、」
ぎりっと、歯を食いしばる。呆然としている暇などない。ひとりの死に立ち止まっている暇などない。泣くのも、悼むのも、全てが終わってからだ。はあの藤の向こうへと、行ってしまった。否、は。
(ずっと『ここ』にいる)
ゆっくりと、拳を握り締める。その手にそっと小さな手が触れたような、そんな気がした。
190930