他愛ない、ことばかり――思い出す。
が笑うときはいつも少し気恥しそうに俯いて、簪の藤の飾りが揺れることだとか。表情に乏しい瞳が、実弥からもらったという赤い風車を前に懐かしそうに細められたことだとか。義勇の羽織を繕う指の、細さだとか。初めて義勇のために茶を淹れたとき、あまりの渋さに顰めっ面になったことだとか。そんなことばかり、脳裏に浮かんでは消えた。
怨敵を前にして、ただただ許し難い言葉を吐き捨てられて。何が天災だと、何が異常者だと、怒りに血管が浮き上がる。落ち着け、と炭治郎に語りかける言葉は、自身に言い聞かせるそれでもあった。
 ――義勇さま、
 本当に、臆病な子どもだったのだ。最初に蝶屋敷に連れて行ったときも、自身とさして背丈の変わらないしのぶたちにすら怯えて義勇の背中に隠れて。炭治郎に初めて会った時はその大きな声に怯え、悲鳴嶼に会っては体躯の大きさに怯え、実弥を見ては眼光の鋭さに怯え――どうして剣士をやっていられるのかと思うほど、どうしようもなく怖がりで。それでも、義勇の手を躊躇いなく握り返した。小さな温かい手で、義勇を許した。一緒に幸せになれと、義勇を叱った。一緒に幸せに、なりたかった。
(鬼がいなければ)
 鬼がいなければ、はああも自分の身をすり減らして駆ける必要などなかったのだ。似合わない隊服を着て、手をマメだらけにして、死に怯えて。それでも、殺し続けなければ息が止まる。鬼が、恐ろしいから。鬼がいなければは、呼吸を奪うほどの恐怖に囚われることもなく、家族を失うこともなく、真っ当な世間から弾き出されることもなく。あの赤い結紐で結ばれた髪を揺らして、家族とともに毎日を過ごせていただろう。それが、天災だなどと。ただ今日を、明日を生きたかっただけのを、異常者だなどと。は、死んだ。鬼に何もかもを奪われて、人間にすら見捨てられて、それでも温かい場所を掴んだのに、それすら鬼に再び壊されて。死にたくないと駆け続ける中で義勇と出会い、安心を見出し、共に幸せになりたいと笑ってくれた。ささやかな未来を、やっと夢見た。その矢先に、鬼に殺された。

 喉の奥が、カッと熱くなる。炭治郎の手前必死に抑え込んでいた怒りと悲しみが、全身を巡って溢れ出しそうになる。義勇が最後に見たの姿は、岩柱の柱稽古に向かう前のものだ。鬼を殺し続けなくても息が止まらなくなるように、心を縛る暗示から解放されて本当の安心を手に入れられるように、義勇と指切りをした。刀を置いて、剣士ではないになって。その時はきっと、「守ってほしい」と義勇に言えるようになると。負い目からずっと「守る」という言葉を喉に詰まらせていた義勇がようやくその言葉を告げられたとき、は応えたいのに応えられない苦しみに泣いた。恐怖から逃げ続けるのではなく、立ち向かって克服するのだと。下手くそな笑顔で、「無事に帰ってこい」と送り出す義勇に頷いた。
(怖かっただろう)
 突然、こんな場所に落とされて。誰とも合流できないまま、上弦の鬼に邂逅して。それでも逃げずに戦って、
 ――きっとそれは、誰かの為なのだろうって、
 敵わない相手なら、逃げても良かった。動物じみた勘を持っていたには、会敵した相手を倒すどころか足止めもできないとわかっていたはずだ。それでも、退かなかった。退けなかった。がどれだけ鬼を恐れていたか、義勇は知っている。鬼を恐れるあまりに刀から手が外れなくなるほど固く握り締め首を斬りつけていたの形相を、目の当たりにしている。ほとんど泣いているような顔で、瞳にはただ恐怖だけが渦巻いて。歯を食いしばって、真っ青になって。いつも、鬼と戦うときはそんな顔をしているのだ。それだけ怖いのに、暗示に追い立てられて戦場に立たされて。鬼を殺した後のの指を、一本一本開かせて刀を手放させた。皮膚が擦り切れて血が滲むほど強く刀を握り締めていたは、まるで刀に縋っているようだった。到底、剣士になどなれる人間ではなかったのだ。それなのに、恐怖に急き立てられるままに刀を振るい続けた。鬼がいなければ、義勇がきちんと救えていれば、そんな生き方をしなくてよかったのに。
許せない。鬼が許せない。から何もかもを奪った鬼が許せない。自身が許せない。が大事にしていたものを何一つ守れなかった自分が、許せない。こんな自分の傍にずっといると、は笑ってくれた。何度でも義勇と一緒に帰る未来を望むと、願ってくれた。義勇との約束を守るために戦って、死んでしまった。あんなに怖がりだったの元に、最期まで駆け付けてやれなかった。義勇はたったの一度も、を救えやしなかった。
(許せない、)
 何もかもが、許せない。姉の幸せを奪った。友の未来を奪った。愛する人の命を奪った。それは全て鬼のせいで、義勇のせいだ。鬼という存在への怒りと、いつも何も守れない自身への怒り。綯い交ぜになったそれを吐き出す代わりに、強く刀を握り締めた。

 ――駄目だ、折れるな、
 無惨の攻撃に吹き飛ばされた瞬間、真っ先に思い浮かんだのは場違いな願いだった。縋るような気持ちさえ浮かんで、けれど呆気なくポキリと細いものが折れる音が響く。懐に入れていたの簪が、折れた音だった。建物に叩き付けられて、壊れた壁が胴体に降りかかってくる。鈍い痛みと、内臓を直接殴り付けられていると錯覚するほどの衝撃。ボキボキと自身の骨が折れていく中、ちっぽけな藤の花を守ろうと手を伸ばす。決して義勇のためなどではない。のあの安らかな笑顔のために、実弥はどうしてもこの花を守ってやりたかった。だけの、為だった。
嫌いだとばかり、ずっと思っていた。その笑顔のために、何もしてやれなかった。嫌っていたはずの相手に恋をしているのだと、そう気付いたときには。既に、実弥の想いは実らないことが決まっていた。
『義勇さま』
 風鈴の音よりもなお澄んだ、愛らしい声。やたらと耳について離れないのが、鬱陶しいのだと思っていた。心底義勇が慕わしくてたまらないのだとわかる、柔らかな笑顔。いつ見ても能天気そうで苛立っていたのに、目が離せなかった。それがどちらも嫉妬だと気付いた今は、ただ腹の底がじくじくと疼く。義勇はきっと、覚えていまい。がいつから、そんな声で義勇を呼ぶようになったのか。そんな笑顔を向けるようになったのか。知っているのはきっと、実弥だけだ。
実弥はずっと、を見ていた。いつも目について離れないのが鬱陶しいと、思っていた。疎ましい。見ていて苛々する。がいるだけで胸が騒ぐ。きっとそれは、のことが嫌いだからなのだと思っていた。胸の中が焼け付くような苛立ちが嫉妬だと、長い間気付かなかった。と自分が同じ病だと気付いたときには、自分の愚かさに呆れて声も出なかった。実弥はずっと、のことが好きだった。いつも無自覚に姿や声を探すほど、好きだった。
初めは、小さな体躯を何度か見かけることにまだ死んでいないことへの安堵のようなものを覚えて。が脇目も振らず鬼の頸だけを見据えて刀を振り下ろす姿に、美しさすら感じて惹かれた。やがてその鋭い刃は義勇の与えた安息に錆びつき、そんなに失望したとばかり思っていて。それでも結局、好きだったのだ。実弥の知らなかった声、表情、仕草。それらは全て、義勇がの怯えの底から大切に掬い上げてやったものだ。義勇の手で人間に戻っていくを見て抱いた嫉妬を、失望や嫌悪だと勘違いして。変わっていくを遠ざけようと、あるいは変わる前に戻そうと、酷いことをした。任務帰りにたまたま一緒になって風車を買ってやったときのように、優しくしてやることだってできたはずなのに。それなのに、稽古に来たはまるで義勇のような目をして実弥を諌めて。ぱしんと頬を打った小さな痛みに、みっともなく逆上した。男らしくないと実弥を詰るの言葉の影に、言われてもいない「義勇さまと違って」という言葉を勝手に付け加えて頭に血が上って。に重なる義勇の影に心底腹が立って、その綺麗な顔を台無しにしてしまった。まるで自分が憎んで忌み嫌っている父親そのもののような行動に、血の繋がりを感じて自己嫌悪に頭を抱えて。それなのに、謝ってやれなかった。近付けばまた苛立ちのまま手を上げてしまいそうで、怖かった。女子どもには優しくしてやれるはずなのに、に対してはどうしても感情の自制が利かない。恋しくて、憎らしくて、どうしようもなく好きだった。の笑顔のために実弥がしてやれることなど最早何一つ無いのだと知っていて、認められなかった。が幸せになるために、実弥は必要ない。そう自身に言い聞かせるほどに、義勇との仲睦まじさを目にするたびに、唇を噛み締めた。黙って幸せを願ってやれれば、どんなに良かっただろう。それなのに最後まで、実弥はのために何もしてやれなくて。ただの安らかな最期を侵さないように、似ても似つかない男のふりをした。実弥は誰も救えない。たった一人の弟も、恋焦がれた女も。守りたいものなどほんの少ししかないのに、いつもそれは実弥の手のひらから零れ落ちる。の最期の笑顔は、義勇が与えた安息に咲いた。を鈍らせたと思っていた義勇の想いが、の心を救っていた。実弥の出る幕など、最初から無かった。だからせめて、代役の務めは果たしてやりたかったのに。
(……悪ぃ)
 隠たちが、懸命に瓦礫を退けていく。原形を留めず壊れてしまった簪を、それでも懐にしまい直す。たった一つ、実弥がのためにしてやれることだ。まだ戦えると、実弥も瓦礫を掴んで投げ捨てた。
 
200330
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