「が、テメェに」
「……っ、」
ボロボロの実弥から差し出されたのは、折れてひしゃげた簪だった。実弥の手拭いに包まれていたそれを、おそるおそる受け取る。くしゃりと歪んだ義勇の表情に、実弥も眉を寄せた。
「……を、看取ってくれたのか」
「あァ……藤の世話、頼むってよ」
布で作られた花弁は、幾つか取れてしまっている。水に浸かったのか、染みもできて。それでも、大切に胸元に抱え込んだ。歯を食いしばって涙を耐えようとする義勇に、「泣きてェなら泣けよ」とバツが悪そうに実弥はそっぽを向く。「すまない」と小さく震えた声と、くぐもった嗚咽。本当にが死んだのだと、戦いが終わってようやくこの男は泣くことができた。
「……ありがとう、不死川。を、看取ってくれて。これを、届けてくれて」
「……別に、誰だってそうすンだろ。それに、簪を壊しちまった」
悪ぃ、と実弥は目を伏せる。あれだけの戦いだったのだ、遺品を預かってくれたことだけでも充分過ぎると義勇は首を横に振った。の遺体は、帰ってこないだろう。あの城と共に、地下に沈んだはずだ。他の多くの隊士と同じように。の躯は、この簪だけだ。それでも、「おかえり」とは言うまい。はずっと、「ここにいた」のだから。
「……の最期を、聞いてもいいか」
「おう」
ぽつりぽつりと、実弥は語り始める。実弥のいた場所に落ちてきたときは既に、満身創痍だったこと。上弦の鬼に腕を喰われ、半身を凍らされて。必死に鬼の首に噛み付いてまで、帰ろうとあがいたこと。朦朧とする意識で実弥を義勇と誤認し、安堵して逝ったこと。
「……『もう怖くない』だとよ」
「が……そう言ったのか」
「あァ……一緒に、帰りてェって」
繋ぐ手を、喰われて失くして。失くしてしまったから一緒に帰れないと、怖がって泣いた。それでも「帰るぞ」と義勇のふりをして、手を握ってやったら笑った。弟のみならず、好いた女も救えなかった実弥は。それでも、最期を看取った。あの安らかな笑みを、どう伝えたものかわからない。けれど義勇には、見たようにわかるのだろう。を救った義勇には、「もう怖くない」と言うの言葉がどれほどの意味を持つか。義勇にしか、わからないのだろう。幼いときに鬼に助けられていた、とが口にしていたことは、迷った末に伝えた。を喰った鬼は、に暗示をかけた鬼なのだと。幼いの前に現れ、を地獄のような場所から逃がし、けれど別れが惜しいと呪いのような暗示をかけた。そしてを鬼にしようとし、拒むの腕を食み、凍らせて。誰かの声に気を取られてを落とし、虫けらを弄ぶように殺す気すらなくを殺した。許し難いが、許せるはずもないが、憎むべき仇はもういない。暁を迎え、全てが終わったのだ。鬼の始祖は討ち果たされ、炭治郎も戻ってきた。鬼殺隊の悲願が叶えられた、尊い日だ。けれど、誰も戻ってこない。喪われた命は、何一つ返らない。一夜にして、あまりにも多くの命が失われた。この虚しさも悲しさもこれからの人生で抱えて歩くものだとは知っていたが、今はまだ受け止めきれずにいた。目の前で虚ろに簪を見下ろしているこの男も、同じようなものだろう。
「…………」
なんと声をかけたものか、否、今は一人にしてやるべきなのだろう。義勇と実弥は決して仲が良いわけではなかったが、柱の中でたった二人生き残ってしまった者同士でもある。きっといつかは、戦友と呼ばれるようにもなるのだろう。ただ今は、悼む気持ちを尊重してやるだけの間柄にすぎない。慌てて駆け寄ってきた隠の一人に、実弥は顔を上げる。この場は自分が話を聞いてやるべきだろうと手を挙げかけた実弥を通り越して、隠――後藤と呼ばれていた男は、掴みかかるように義勇の腕を掴んだ。
「おい……」
「……ちゃんが、」
止めようとした実弥も、ただ揺さぶられるままになっていた義勇も、後藤が発した言葉にぴたりと動きを止める。はくはくと、うまく言葉を紡げないでいる後藤は、顔を歪めて涙を必死に呑み込みながら義勇を引き摺り始めた。
「ちゃんが……見つかったんだ、」
その言葉に、義勇たちは目を見開く。義勇が逆に後藤を引き摺って駆け出したのは、その直後だった。
「音がするんです、」
皆の注目を集めて居心地悪そうにしながら、善逸は震える唇を開いた。義勇の残された片腕には、の遺体が抱えられている。運が良かったのだろうと、を見つけた隊員は言っていた。運良く、城の一部と共に地上に放り出されて。運良く、水の中に葬られていたことで衝撃から守られて遺体の損傷はほとんどなかった。信じ難い奇跡を享受するようなぎこちない手付きで、義勇は帰ってきたの体を抱え直す。人形のように綺麗な死に顔は、愛する者の物言わぬ帰還が嘘のようで。言い表しようのない感情が、義勇の胸を震わせる。抉るような深い悲しみも、喉をつかえさせるような喜びも確かにあり、それでいて現実感がなく夢を見ているような心地も拭えない。ただ、を見つけた善逸は自分でも信じられないような顔をして言葉を選ぼうとする。ちらちらと義勇とを見比べながら善逸が発した言葉に、その場にいた皆が一瞬理解が及ばず固まった。
「ちゃんから、音がするんです……」
は、確かに息絶えている。息もなく、脈も止まり、その体はとうに冷えて。けれど善逸は、亡きの体から音が聞こえるという。弱々しく、けれど確かに、その音は聞こえていた。
「もしかして、ちゃんのお腹には、」
善逸の言葉は、皆まで必要なかった。俯きがちに話していた善逸が顔を上げたときにはもう、義勇の姿は目の前にはなく。の亡骸を抱えて、何よりも脆く壊れやすいものを守るようにしっかりと抱き締めて、義勇は人を探した。まだ、まだ間に合う。音がするなら、まだ生きている。はひと足先に旅立ったけれど、恐らくその存在を自分でも知らずにいたままだったろうけれど。
「水柱様……!?」
驚いたような声は、聞き覚えがある。頭を動かせば、視界には求めていた白が映った。蝶屋敷の少女、の友人。義勇の形相を目にし、腕の中のに視線を移し、痛ましい顔付きになる。きっと、義勇がの死に取り乱していると思っているのだろう。違う、違うのだ。今必要なのは慰めや叱咤ではなく。うまく、言葉が出てこない。なんと説明したものか、頭が真っ白になって。自分たちはどうにも言葉を省きすぎると、似た者同士だと二人揃ってからかわれたことをこんな時に思い出す。義勇はいつも何も言わないと、にさえ叱られたことがあった。ああ、違う。そうではなくて――
「……たすけてくれ」
「水柱様、は……」
「俺たちの子を、助けてくれ……!」
やっとのことで絞り出した言葉と共に、ぼろりと涙が溢れ出す。ぎょっとしたように目を見開いたアオイは、しかしその聡明さですぐに状況を把握したらしい。泣きそうになった顔をわざと怒ったような形に引き締めて、震える声で「こちらに!」と義勇を先導した。
古今、とかく男というものは出産において役立たずなものだ。隠たちと共に近場の空き家に駆け込んで、まるで戦士のように猛々しくアオイは働いた。「の腹を切りますよ!? いいですね!?」と遺族である義勇が処置に狼狽えないよう同意を取り、手早く湯を沸かしたり器具を揃えたりと指揮を執って。善逸が『音』を聞いたのだという話を知ると、「今すぐに連れてきてください!」と置物と化していた義勇を容赦なく使い走りにした。臨時で張られた布の幕越しにアオイたちの様子を窺い、義勇と善逸はおろおろと顔を見合わせたものだった。胎児の『音』に異変があったら知らせるようにと言いつけられた善逸は、「友人だったの兄弟子であり師範であり恋人」という微妙な間柄にすぎない義勇の傍で居心地悪そうにしていたし、義勇は義勇で他の隠たちに「せめて応急手当をさせろ」「最低限血や汚れを拭かせろ」とどつかれながらも微動だにせず。結局突っ立ったまま梃子でも動かない義勇を、赤子を抱く気なら少なくとも手を洗えと脅しつけてその場で桶に手を突っ込ませていた。祈るような、励ますような声が幕の向こうから聞こえる。アオイとて、助産は専門ではないのだ。ましてや、このような特殊な状況で友人の腹を裂いて、忘れ形見の命を背負う。そんな重圧を、少女に担わせた。何もできることはないとしても、自分がこの場を放り出して休むことはできない。けれど結局、「緊張の音が大きすぎて善逸の邪魔である」という理由で義勇は小屋の外に連れ出されたのだった。
「、華奢だから気付かなかったんですね……月のものも、元々来ていなかったそうですし……」
果たして、アオイは義勇との子を救ってくれた。早産のような形だったのだろう、赤子としては不安になるほどの小さな命と、義勇は蝶屋敷の一室で対面することになった。震える手で、そっと赤子の額に触れる。の体は、年相応の機能を有していなかったのだという。自然治癒力が異常に高かったのは、成長に使われる栄養や寿命を引き換えにしていたからだろうと。いつまで経っても小さく発育の悪い体は、無茶な戦い方の代償で。を診ていたしのぶの書き付けには、には月経がないと記載されていた。けれど、義勇の傍にいて、は徐々に変わって。自らをすり減らすような戦い方を矯正されて、きちんとした衣食住や休息を与えられて少しずつ健康を取り戻して、は本来の成長を取り戻していった。本人も、義勇も気付かないほどゆっくりと。しのぶだけが唯一、直近の診療で体付きの変化に触れていた程度だ。そうして誰も知らないままにの体には月の障りが訪れ、義勇と契っていたことで新しい命を身に宿した。奇跡のような命を前に安堵と歓喜を抱くと共に、本当にぞっとする。義勇に限ったことではないが、鬼殺隊の修行はしごきという言葉に収まるものではない。は激しい戦い方をするし、命を落とした時の状況を思えば胎児も諸共犠牲になっていた確率の方がよほど高かったのだ。何か一つでも奇跡が欠けていたら、我が子は存在を誰にも知られぬまま死んでいた。考えるほどに怖くて、今目の前にある命がどうしようもなく尊く貴重なものに思える。言葉もなくただ背中を震わせる義勇を急かすようなことはせず、アオイは少し席を外すと言って部屋を出て行く。無口で表情の変わらない自分に怯えないのは、で慣れているからだと言っていた。けっこう似た者同士ですねと、泣きそうな顔でくしゃりと笑っていた。
「俺たちの子です、先生……」
付き添ってくれていた鱗滝を、ゆっくりと振り返って義勇は笑う。眉を下げて困ったように笑うその顔に、亡き少女の面影が重なって鱗滝は静かに眉間を押さえた。いつもの面は、外している。優しい顔立ちを隠すその面は、もう必要なかった。
「名をつけて、いただけませんか」
「儂で良いのか」
「先生が……とうさんがつけてくださったら、も喜ぶと思います」
「……そうか」
義勇が、どんな思いでその呼び名を口にしたのか。弟子であり家族のように過ごしたその青年が、を伴って鱗滝の元を訪れることはついぞなかった。叶わなかった幸福の幻と、形を変えて今ここに存在する幸福。『娘』の遺した子は怖いくらいに小さく、まだ数ヶ月は蝶屋敷で様子を見る必要があるのだそうだ。それでも、息をしている。あの子の遺した子が、義勇や鱗滝を見て「あー」と声を上げている。愛らしい子だ。尊い子だ。は義勇に、家族を残してくれたのだ。
「お願いがあるのです」
「ああ」
「俺が死んだ後、この子のことを頼みます」
義勇は、痣の者になったことを後悔などしていない。を一度も守れなかった義勇は、それでも自らの一生を引き換えに多くのものを守ったのだ。遡って選択をする機会が訪れたとしても、同じ道を選ぶだろう。ただ、心残りなのだ。生まれたときに既に母であるは亡く、父である義勇もこの子が物心もつかないうちに世を去ってしまうだろう。父母の顔も知らずに育つだろうこの子が、自らの人生を不幸だと思うことのないように。鱗滝はきっと、この子を愛して慈しんでくれるだろう。実の孫のように、この子を一人の人間に育ててくれるだろう。たったひとつの心残りを託せる人間は、師であり家族であるこの人だけだった。
「お前の頼みは、いつも難しい」
「はい」
「この老人より先に逝くつもりでいるのか、不孝者め」
「……はい」
「夫婦揃って……まったく」
夫婦、という言葉に義勇は目を瞬く。義勇とは、想いを交わした仲ではあったが夫婦にはなれなかったから。けれど、鱗滝はそう認めてくれた。自分たちの父とも言える人が、義勇とを夫婦だと。こみ上げる熱いものが涙だと、零れ落ちてから気付く。温かくて悲しくて、優しい気持ちで胸がいっぱいになった。
「……孫の面倒を見ない祖父はいない」
「っ、」
「水臭い頼み方をするな、義勇よ」
「はい……おとうさん」
本当に、よく似ている。泣き笑いを浮かべて頷いた義勇は、の姿を思い起こさせる。きっとも、ここにいるのだ。小さい命に慈しみと愛しさを抱いて笑う義勇の傍に、もいる。はきっと驚いているだろう。産まれる前から大変な目にあった我が子に、一度も抱けないまま置いていくことになった我が子に、償いきれない罪悪感を抱くだろう。けれどが愛した人々が、きっとこの子を愛して幸せにするから。だからどうか安心してくれと願う。この子は父母の顔も知らずに育つだろう。けれどその愛は、いつだって傍にある。揺るぎない幸福を、この子に。鬼のいない世の中で愛されて生きるこの子をが残したことが、とても尊く思えた。
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