お前の母はとても強く生きた人なのだと、父が片方しかない手で頭を撫でてくれながら語ったことを朧気に覚えている。祖父の膝で微睡みながら、幼子は夢を見た。母親の顔を知らず、父の顔もぼんやりとしか覚えていない子どもはそう珍しくもない。けれど父とは違い母は写真もないから、その分祖父に母の話を強請っては優しい顔がくしゃりと笑みを作るのを見た。祖父は孫のために、父母を模した小さな木彫りの人形を作ってくれた。
「一人で厠に行けんのは、どっちに似たのかわからんな」
「お母さんじゃないの? 怖がりだったんでしょう?」
「確かにも泣きべそをかきながら儂を起こしに来ていたが……」
 小さい頃、祖父の元で剣士の修行をしていたのだという父は、こっそり明け方に布団を洗っていたことがあるのだという。恐らく、厠に行くのが怖いからついてきてくれと言い出せなかったのだろうと。厳しい師匠であったとはいえ、寝小便を指摘するのはまた別の話だ。けれど祖父が様子を見ているうちに、父と兄弟弟子にあたる子が付き添ってやるようになっていたらしかった。母も、いつの間にか起こしに来なくなったと思ったら誰かに必死に呼び掛けながら一人で厠に起きていたようで。その話しかけていた相手が俗に言うお化けの類だったらしく、祖父は何とも言えない気持ちになったのだそうだ。父も母も、鬼という恐ろしい存在と戦って命を燃やした鬼殺の剣士だったらしい。周りの人から聞く父母の話と祖父の語る話はずいぶん違っていて、なんだが不思議な気持ちになったものだ。
 母の友達だったというアオイおばさんは、「顔はあなたにそっくりですね」と怒ったようにきゅっと眉を顰めていた。あれは怒っているのではなく悲しいのを堪えているのだと、こっそりカナヲおばさんと炭治郎おじさんが教えてくれたけれど。
『普段はぽけっとしてるくせに口を開いたかと思えば余計なことしか言わねェ、血筋だろォ』
 父と同い年で元同僚だったという白い人は、そう評したらしかった。とても絶望的な状況で奇跡的に生まれてきたのだという赤子を結果的に守ってくれたのは、そんなふうに父もしくは母を貶した人だ。父と同じ年に亡くなったのだという彼の墓を今でも手入れしに行くのは、『恩人だから』と通い続ける祖父が腰を痛めないようにするためだ。決して彼のためではないと頬を膨らませると、祖父は少し可笑しそうに笑ったものだ。
「狭霧山なら、あの子たちがお前の厠についてきてくれたかもしれんな」
「……おじいちゃんがいい」
 赤い風車をぎゅっと握り締めて、祖父の腕にすり寄る。用を足している間は祖父に預かってもらっているそれは、母の遺品なのだそうだ。もう随分と古びてしまったけれど、祖父が丁寧に手入れしてくれているおかげで壊れることもない。時折風もないのにからからと回るそれを、怖いとは思わない。きっとそういう時は、母が見守ってくれているのだろう。
「そろそろ藤も咲く頃だな」
 ふと庭を見た祖父の目が、遠くを見るように細められる。少しだけ寂しそうな優しい顔に浮かぶ表情を何と呼ぶべきか、まだ知らない。この屋敷に咲き誇る藤の花が、ほんの少し怖いと思う。父は美しくたなびく藤の下で死んでいた。柩にも、壊れて古びた藤の簪が納められていたことを覚えている。綺麗な藤の花が、大好きな人たちを連れていってしまうようで怖かった。ただ祖父が寂しがるのなら、ちょっとは怖くても我慢するから幽霊でもお化けでも出てきてほしいと、そんなふうに願ったのだった。

「……ああ」
 そこにいたのか、と義勇は目を細める。藤の影に微かに見えた人は、もう義勇が袖を通すことはなくなったあの隊服を着ていた。羽織は無いが、咲き誇る藤を纏うようにその人影は美しく佇んでいる。だが霞む視界に映る待ち人の顔は、明るくない。むしろ怒っているような、泣き出しそうな、そんな顔をしているように思えた。
「言えなかったんだ、すまない」
 痣を発現した者は、二十五の歳を超えては生きられない。それをが知ることはなかったけれど、きっとこんなに早く義勇が彼岸に渡ることになるとは思わなかったのだろう。できるだけゆっくり来いと言われていたから叱られてしまうのだろうけれど、今はそれすら待ち遠しかった。の遺してくれた子を、家族を、置いていくのはとても心苦しい。半ばで放り出すことの罪悪感も、言い表せぬほどある。けれどあの子を初めて腕に抱いた時から、覚悟はできていた。あの子を独りで放り出すことにならないように、残された時間は忙しなく駆けずり回っていた。できることは全て、してきたつもりだ。には何も、してやれなかったから。
「迎えに来てもらえるのは……嬉しいことだな」
 あの夢の光景、雪の照り返しが眩しい真っ白な世界を、義勇は今でも鮮明に思い出せる。義勇が迎えに来てくれることが幸せなのだと、は心から幸せそうに笑っていた。本当は、こんなに早く迎えに来るつもりではなかったのだろうけれど。それでも、今度はが迎えに来てくれた。あんなにが嬉しそうにしていた理由が、今ならわかる。ああ、またに与えられた。これが最後なのに、義勇はいつになったらに与えられた半分でも幸福を返してやれるのだろう。はいつも義勇にもらっていると笑うけれど、義勇はそれがずっと逆だと思っていた。を柱稽古に送り出した時の小さい背中を、今でも覚えている。鱗滝も、あんな気持ちだったのだろうか。これが今生の別れになるとも知らず、あまりに頼りない小さな背中に不安を覚えて。それでもは行かなければならないから、見送った。そうして、二度と帰ってこなかった。
「お前の遺書を……読んだ」
 今自分が言葉を発しているのが、夢なのか現なのかわからない。目の前にいるも、もしかしたら幻なのかもしれない。最近は力が抜けたように起き上がれない日が続いて、今日も半ば這いずるように藤の世話をしにやってきたところで倒れたから。実弥が逝ったという報せを聞いても、弔いに行くこともできなかった。唯一残っていた同輩の死に、思い通りにならない体に、残された時間を悟っていた。それなのに今、体は不思議なほど軽くて、不自由なく言葉を発することもできる。だからきっともう自分は死ぬのだと、柱だった者としての直感が告げていた。
「だから、お互い様だ。
 が、言えなかったこと。義勇が言えなかったこと。互いに長くないことを、隠していた。きっとまだ、埋もれている秘密はお互いにあるのだろう。話すつもりのないことも、守ってやりたい暗い部分も。それでも、義勇の人生にはがいて、の人生には義勇がいた。ただ一緒にいる、それがどんなに贅沢で貴重な幸せか知らずとも、その願いを互いに抱けたことの尊さを知っている。義勇は今でも、自分自身を許せない。小さな命を前に苦悩している暇もなかったから、俯いていられなかっただけで。それでも、を想ったことは決して間違いではない。否、正誤など関係なく、ただ愛した。生涯にただ一人の、人だった。
「許してくれるか、
 ずっと、怖くて訊けなかったことだ。訊くべきではないとも思っていた。は、義勇を許してしまうから。許されてはいけないと、そう自身を責めることはあまりにも容易かった。
『――……』
 そっと、小さな手が伸ばされる。いつも繋いでいた方の手は、互いに失くしてしまった。それでも、こうして残った手は繋げる。例えこの身は失われても、心はずっと「ここ」にいる。義勇の左手に、小さな右手が重ねられる。泣きたいくらいに温かい、手だった。
 義勇はずっと許されている。この小さな手に、ずっと許されていた。義勇が自身を許せず、愛せなくともこの手は義勇を許して、愛した。義勇がを遠ざけようとしても、がそれに怯えても、は泣きながらこの手を伸ばしてくれた。とても小さくて傷だらけなのに、とても強い掌だった。それなのに、こんな小さな手に収まるほどの幸せすら返せなかった。はずっと、義勇を許してやりたかったのだ。義勇がそれを受け入れてくれるのを、待っていた。そんな強さを抱けるくらい、はひたむきに生きた。もう怖くないと、その言葉が義勇をどれだけ救ったかは知らないのだろう。
「……帰ろう、
 迎えに来てくれたのは、だけれど。義勇がそう言うとが笑ってくれた気がした。泣きそうな、少し困ったような、あの愛しい笑顔で。あの時の手を掴めなかったことを、ずっと悔やんでいた。罪も後悔も丸ごと包み込んで、この手が義勇の手を引いてくれる。大切な人の元へと魂が帰るのなら、義勇はきっとのところへ帰るのだ。が義勇の傍に、ずっといてくれたように。
「帰ろう」
 小さな体を、力の限り抱き締める。燃え尽きた星がもうどこにも行かないのなら、二度と離れずにいられるのだろう。夜の果てに再び出会えた彼らを見下ろす空は、の瞳のような晴れ渡る天色だった。

 その日、義勇は息を引き取った。大きく育ち始めた藤の若木の傍らで、眠るように横たわっていたのだという。死に顔はとても安らかで、彼の子は父親の死に最後まで気付かなかったほどだ。まだ温かい頬を鱗滝の手が撫でたとき、藤の花びらがひらりと一片落ちてきた。まだ花をつけないはずの苗を見上げても、当然そこには青い若木があるのみで。ただ、幼子は空を見上げてきゃっきゃとはしゃいでいた。まるでひらひらと風に泳ぐ藤の花を追うように、手を伸ばして。
 子どもの手に握られていた風車が、からからと回る。ざわめく風がこれ以上義勇の体を冷やさないように、その躯を抱え上げた。閉ざされた瞳の向こうにある青は、最後に天色を見たのだろうか。水平線が空に交わる時を思い、鱗滝は目を閉じた。
 
220707
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