「義勇さまのこと、よろしくお願いしますね」
 水面を揺らがせる波紋のように、今にも消えてしまいそうな人。炭治郎のへの第一印象は、あながち間違いでもなかった。
那田蜘蛛山での任務で負った怪我を治すために蝶屋敷に世話になっている間出会った姉弟子は、女好きの善逸だけではなく炭治郎にとっても興味の対象だった。「ただ運が良かっただけ」と本人は言うが、数少ない炭治郎の同門でもあり、そして生きているという事実に貴賤はない。炭治郎の恩人である義勇の継子であるということも、炭治郎に尊敬の念を抱かせた。
「私はすごいひとじゃないです」
 はいつも、眉を下げて笑う。そのせいか、笑っていても困っているように見えた。からは、いつも怯えの匂いがする。炭治郎にも善逸にも伊之助にも怯えている。禰豆子にも怯えてはいるが、鬼であることは関係なくただは根本的に他人を怖がっているらしかった。気を許しているらしいアオイやカナヲたちの前だと、少し怯えの匂いが薄くなる。義勇と一緒にいるときは怯えの匂いはごく薄く、安らいでいる匂いがした。
さんってすごく怖がりなんだな」
 善逸もそう言っていた。きっと自分の「音」が聞けたら、と似たような音になるに違いないと。そんな怖がりなはしのぶたちに定期的に診てもらっているらしく、しばしば炭治郎たちを見舞ってくれた。会う回数を重ねるごとに怯えの色は薄れていったけれど、困ったような眉は変わらなくて。それが彼女にとっての常の表情なのだと知れば、気まずさも減った。
「炭治郎さん、いつも義勇さまにお手紙をありがとうございます」
 一度も返事はないが、義勇は一応手紙を受け取ってくれてはいるらしい。微笑みにも似た表情を浮かべるに、炭治郎は首を振った。そんな炭治郎の背後から、伊之助が身を乗り出す。
「お前、あの半々羽織の継子なのかよ!」
「なんか厳しそうな人だし、大変そうだよね」
 善逸も話に入ってきて、炭治郎と伊之助から伝え聞いた義勇の人物像を思い浮かべ顔色を悪くする。重傷の伊之助を戦線から退かせるためとはいえ縄で縛って木に吊るした件を持ち出して、善逸はを案じた。
ちゃん、その柱の人に虐められたりしてない? まさか女の子を縛って吊るしたりとかは……」
「い、虐められたりしてませんよ? 縛って転がされたことはありますけど……」
「あるの!?」
「うわ……」
「そ、その、熱があるときに家事をしようとして、『病人が包丁を持つな』って。気遣ってくださったんです」
「気遣って縛って転がすの……?」
「そのまま忘れて、任務に行っちゃったんですけど……」
ちゃんその人の継子辞めなよ……」
 聞いた話では、修行も過酷なものであるらしい。しのぶも笑顔で拳を素振りするほどの無茶振りであるのだとか。それでも雛鳥のように義勇を慕うに、善逸などはあけすけに「何か弱みでも握られてるの? 大丈夫?」などと尋ねたりしていたのだが。
「あ、ちゃん避けて!!」
 機能回復訓練でカナヲに勝利すべく、三人で特訓していたときのことだ。伊之助がばっしゃっあと勢いよく炭治郎に薬湯をかけたとき、たまたまタイミング悪く障子を開けて入ってきてしまった。善逸の叫び声も虚しく、全身に薬湯がかかってしまって。
「…………」
「何やってんのお前ら!? ちゃんすごくびっくりしてるじゃん!? びっくりしすぎて動かなくなってるじゃん!! ああもうごめんねちゃん、今拭くもの持ってくるから!」
 ぽたぽたと水滴を滴らせながらきょとんと立ち尽くすに、善逸と炭治郎は大慌てする。「それくらい避けろよ」と言いながらも伊之助は手拭いを差し出したが、「それお前がさっき鼻かんだやつじゃん!」と善逸に叩き落とされて。
、何をやってる」
「義勇さま、」
「ア゛ッ」
「うわああごめんなさいごめんなさい!」
 の後ろから顔を出した柱の姿に、善逸と炭治郎は肝を冷やした。並べられた湯呑みや薬湯の薬缶を見て「反射訓練か」と呟いた義勇は、びしょ濡れになったの姿を見て眉間に皺を寄せ、「来い」との手を掴んで連れて行く。もしや「それくらい避けられなくて何が先輩か」と折檻されるのでは無いかと善逸が自分の想像に青ざめていたが。戻ってきたは隊服ではなく炭治郎たちと似たような簡素な服に着替えていて、「よろしくお願いします」とぺこりと頭を下げた。どんなやり取りがあったのかわからず最初は恐々としていた炭治郎と善逸だが、遠慮なく薬湯をに浴びせかけた伊之助を皮切りに反射訓練は再開する。最初は遠慮がちだった炭治郎と善逸も、案外が容赦なく薬湯をぶっかけてくるため必死の攻防となり、普段は女の子相手だからと湯呑みを直前で止めたりする炭治郎や善逸にもそんな余裕はなく。全員仲良く薬湯でびしょ濡れになった頃にやって来た義勇は、やはり眉間に皺を寄せたままを正座させた。
「後輩相手にそんなに薬湯を浴びてどうする、本気でやれ」
 そう言って、自分を相手にの訓練を再開させる。それはもう容赦なくばしゃばしゃと顔面に薬湯を叩き付けるので、炭治郎と善逸は戦きながらその光景を見守ることになった。の手を抑えるときも義勇は手加減なく引っぱたく。
「殺気の無い攻撃への反応が鈍すぎる。普段の反射の半分も速度が出ていない、死ぬ気でやれ」
 そう言って訓練を終わらせた義勇は、ぽたぽたどころかぼたぼたと水滴を滴らせるの髪を手拭いで拭ってやっていた。そこだけ切り取れば優しい師範かもしれないが、それまでがそれまでだけにぼうっとした表情でなされるままがしがしと髪を拭われているが可哀想に思えてしまう。強く拭われてもにもにと潰れる頬は可愛らしいが、それ以前に少し痛そうである。いろんな意味でドン引きしている二人を尻目に伊之助が鼻息も荒く、一回も薬湯を浴びていない義勇を指差し反射訓練を挑んでいたが。
「えっ湯呑み」
 善逸の呟きに、炭治郎も内心同意する。ゴッと音を立てて伊之助の額に投げ付けられた、湯呑み。
「薬湯がもう無い」
 そこで何故湯呑みを投げ付けるという暴挙に出るのか。当たりどころが悪かったのか、伊之助が床に沈んだ。慌てて伊之助を介抱するを横目に、義勇は善逸と炭治郎に戦意の有無を問う。勢いよく首を横に振った二人に、義勇は「そうか」と湯呑みを下ろした。ごとんと鈍い音を立てて置かれたただの湯呑みが、どうしてか恐ろしい凶器のように思えたのだった。

「あの人さあ、ちゃんに薬湯かけたこと絶対根に持ってるよね……」
「避けれないさんにも厳しかったけど、絶対俺たちにも怒ってた……」
 伊之助をベッドに運んでいったと、それについて行った義勇。反射訓練の片付けをしながら、義勇について善逸と炭治郎はひそひそと言葉を交わした。
「でもちゃん、あの人といるとき一番『音』が聞きやすくなるんだよね」
「『音』もそうなのか?」
「うん……いつもすっごく怯えてる音が大きくて、他の『音』が隠れてるんだけど、あの人がいるとすっごく綺麗な『音』が聞こえるんだ」
「そうなのか……善逸はすごいな」
「きゅ、急に褒めるなよ」
 善逸によると、普段怯えの音にかき消されているの音は、とても澄んでいて綺麗な優しい音なのだそうだ。表情が乏しいからわかりづらいけれど、きっととても優しくて真っ直ぐな人なのだろうと善逸は言う。
「……あの人も」
「冨岡さん?」
「普段はなんかこう、『音』を押さえつけてるような……よく聞こえないんだけど、ちゃんといると……ちょっと聞こえる」
 例えるなら湖や深い海の底。水圧のように押し込めている音が、といると少しだけ聞こえるような気がするのだとか。結局それだけのことが好きで大事なのだろうと、善逸は少し面白くなさそうに言った。
「わかりやすく大事にしてあげればいいのにさ」
「うん、そうだな」
 は表情も乏しくてビビりだけれど、炭治郎たちに優しくしてくれる。怪我をしていれば心配してくれて、特訓の手伝いや呼吸の話もしてくれて。伊之助とは一見いじめっ子といじめられっ子のような関係だけれど、その実お互いに遠慮なく接しているらしい。禰豆子とはあまり会う機会もないけれど、この間あやとりやお手玉で遊んであげているところを見た。カナヲやアオイとお茶をしているところも見かけるし、と親しい自負はある。義勇とが、どういう経緯でああいう関係に落ち着いたのかはわからない。わからないけれど、思うのだ。もう少し優しくしてあげればいいのにと、大切なら大切とわかりやすく示してあげればいいのにと。そんなことをせずともあんなに慕われている義勇が、もしかしたら羨ましいのかもしれない。ちょっとだけ拗ねるように唇を突き出した善逸に、炭治郎は「わかるよ」と同意を示したのだった。
 
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