「まだ戦えますよ、大丈夫です」
しのぶの声に、炭治郎はしまったと顔を歪める。健診に呼ばれていたが、来たのが少し早すぎたようだ。誰かがしのぶに診てもらっているらしく、真面目な性格が仇になって少しとはいえ他人の健診内容を聞いてしまった炭治郎は困ったようにおろおろと部屋の外を行ったり来たりする。しかし唐突に目の前の障子が開いて、しのぶがひょこっと顔を出した。
「おや炭治郎君、早かったですね」
「す、すみません! 早く来すぎてしまって……」
「いえ、今日はちょっと長引いてしまったので炭治郎君は悪くありませんよ」
「ご、ごめんなさい、炭治郎さん」
「さんが謝ることでもありませんよ? 君たちは律儀ですねぇ」
おずおずとしのぶの影から顔を出したは、炭治郎に頭を下げる。お互いにおろおろと頭を下げ合う姉弟弟子に、しのぶがくすくすと笑う。「冨岡さんにもこのくらいの可愛げがあればいいんですけどね」と肩を竦めるしのぶに、炭治郎もも苦笑めいた表情を浮かべた。
「ではさん、また次の健診のときに。最近は任務にも出ているようですから週に一度は難しいかもしれませんが、できるだけ顔を出してくださいね」
「はい、しのぶ様、ありがとうございます。炭治郎さんも、また今度」
「気をつけて帰ってくださいね、さん」
深々と頭を下げたを見送り、入れ替わりに炭治郎は部屋に通される。炭治郎の物言いたげな顔を見て、しのぶはいつもの穏やかな笑みのまま「どうしました?」と首を傾げた。
「その……さんは、大きな怪我をしていたりするんですか?」
しのぶの屋敷に定期的に健診を受けに来ている、ということは聞いている。少し前まであまりに怪我が絶えなかったせいだとも。けれど今のは、見た目にはそれなりに健康なように見える。任務での負傷より義勇の訓練での怪我が多いともっぱらの噂だが、それでも義勇におぶわれて担ぎ込まれる回数は減ってきたのだ。もしや目に見えない部分で大病や大きな怪我を抱えているのだろうかと案ずる炭治郎に、しのぶは優しい笑みを浮かべた。
「安心してください、炭治郎君。さんは昔の怪我の後遺症が心配なので、定期的に診ているんですよ」
「後遺症……」
「万が一があってはいけませんからね、冨岡さんの希望でもあるんです。異状があればすぐに報せてほしいと」
今すぐ危険というわけではないのだというしのぶに、炭治郎は安堵の息を吐く。姉弟子を心配する炭治郎に、「優しい弟弟子がいて、さんも嬉しいでしょうね」としのぶは柔らかく目を細めた。
「その……義勇さんとさんが一緒にいるところ、見るのが好きなんです。お二人とも、わかりにくいですけど幸せそうで、見てる俺も、何だか嬉しくなって」
「……ええ」
「もし俺がお二人のためにできることがあったら、いつでも仰ってください」
本当に優しい子だと、しのぶは思う。だからこそ本当のことを言うわけにはいかなかったが、それを炭治郎に悟られるわけにもいかない。嘘は吐いていないしのぶは、笑みの形に閉じた瞼に瞳を隠したのだった。
義勇とは、好い仲になったのだそうだ。が恥じらいながらも報告してきた内容に、まあ遅かれ早かれそうなっていただろうとも思いつつしのぶは本心からの笑顔で祝福したのだ。はしのぶの部下ではないが、それでも個人的に可愛く思ってもいる。言葉は拙いが嘘も吐けないに、安息を覚えているのは確かだった。そんな嘘の吐けないがしのぶを身近な女性として頼りにした相談事に、しのぶはこめかみを引き攣らせることになったのだったが。
『そ、その、義勇さまと、し……寝所を共に、することになった、のです……が、』
『……それはもしや、敢えて言葉を選ばずに言ってしまうと性交渉をしている、と』
『は、はい……』
の心配事は、義勇とそういった行為に及ぶことで剣士としての職務に支障は出ないだろうか、ということであったのだが。しのぶの怒りは当然そこには向いていない。にはひとまず懇々と性教育をしたが、行為の本来の意味や危険性、避妊についてはきちんと義勇が教えていたことだけには安堵した。隠す気があるのかないのか、服で隠れる位置にやたらと残っていた鬱血痕も、義勇に呆れこそすれ怒りは抱かない。無理強いされていないか、体に負担のかかるような行為を強いられていないかは心配だったが、羞恥で死んでしまいそうなから聞ける範囲ではそういったこともないようで。むしろそうだからこそ、しのぶの怒りは膨れ上がったのだ。
(ちゃんと大事に、できるじゃないですか)
あんなに無茶をさせて、意味がわからないほどちぐはぐな態度を取って。そのくせ男女の仲として成就させてしまったのだから、本当に意味がわからない。しのぶがあれだけ言っても、わかっているのかいないのか曖昧な態度を取り続けて。自分の手元に置いているくせに、どこか突き放したような、義勇はの人生には不要だと言わんばかりの。まるで、自分はより早くに死ぬべきだと思っているかのようにすら見えたのだ。確かに柱は継子より先に死ぬことも多いだろう。そのための控えなのだ。しのぶとて、それを念頭に置いてカナヲたちを育てている。けれども義勇は、最初からとの未来を諦め切っていた。少なくともしのぶには、そう見えていたのに。
(……さんのことを、知ったわけでもないでしょう)
少なくともはそれを生涯義勇に語るまい。しのぶも、と約束した以上墓場まで持っていくつもりでいる。誰よりも義勇を慕うが、義勇を傷付けまいと決めたことなのだ。それに義勇が知れば、無理矢理にでも剣士を辞めさせてを戦線から下がらせるはずだ。知っていて義勇に語らなかったしのぶにも、何らかの形で怒りを表すはずだった。
――本当に、冨岡さんには言わないんですね。
畳に額を擦りつけるようにして平伏し懇願するに、努めて優しい声で語りかけたことを思い出す。それはしのぶの元にが初めて担ぎ込まれた数週間の、終わりの頃の話だった。
を診たしのぶは、カナヲたちとそう歳も変わらない少女に選択を問うたのだ。刀を捨て、療養に注力し寿命を延ばすか。きっと早死するとしても、鬼殺の剣士で在り続けるか。迷わず後者を選んだに、しのぶはやるせない気持ちにさせられたのだ。短期間の接触でもわかるほどに臆病なは強迫観念のように死を恐れていて、それでも数年延命するよりも鬼を殺すことを選ぶのだ。にとって鬼の恐怖は死の恐怖と等しく、けれど少しでも長く生き長らえたいという想いよりも一人でも多く鬼を滅したいという想いの方が強い。元より鬼殺隊の面々は自分がいつか任務で死ぬだろうということを念頭に置いているところはある。数年の寿命など、誤差に過ぎない。怒りや憎しみではなく怯えで刀を振るう少女の心の矛盾は、けれど一貫して鬼の殲滅を願っていた。暗示をかけられているようだとすら、思えたのだ。の体の状態ははっきり言ってしまえば思わしくない。傷を負うことに適応した体は、傷付きながらも命を繋いで動けるようにと順応していった。けれどその結果削られるのは彼女の寿命である。本来生きていられる時間を代償に、は刀を振るえるのだ。理由は知らないが妙にに肩入れしている義勇が知れば、きっと鬼殺隊を辞めて狭霧山に帰れと言うだろう。言うだけではなく、それを強行するだろう。しのぶにも葛藤はあった。それでも、の願いを聞き入れた。少しでも彼女の命がすり減る速さを遅くしようと、できうる限りのことはした。結局しのぶは、自らの怒りをの怯えに重ねてしまったのだ。鬼を斬らずにはいられない理由を、あの震えていた拳に重ねてしまったから。だからしのぶは、この秘密を墓まで持っていく。義勇に恨まれるとしても、炭治郎を絶望させるかもしれなくとも、に同情してしまったのだ。一日でも早くこの戦いを終わらせることが結果的にの命を繋ぐことになると、そう信じてもいた。
「まだ、止まれませんか」
澄が日頃のお礼にと持ってきた花を見下ろして、ぽつりと呟く。とてもとても大切な人ができたのだ。きっと今のにとって最も恐ろしいことは、鬼を殺せなくなることではないはずだ。今となっては義勇も狭霧山に帰れとは言うまい。継子ではなくなっても、それこそ伴侶としてでも傍に置くだろう。けれどはまだ止まれないのだ。未だは、どこかに向かって駆け続けている。それは義勇の背中なのだろうか、それとも――
「どいつもこいつも、ですよ」
いつもの笑みを浮かべることが、できなかった。最善ではないと誰もが解っていながら、泥沼の中であがき続けることしかできない。その中には自分も含まれているのだとしのぶは自嘲する。まったくもって人間は面倒な生き物であると、誰もいない部屋で溜息を吐いたのだった。
190311