義勇は毎年、ある時期になると一日いなくなる。任務の都合もあるため決まった日とは限らないが、がそれに気付いたのは三年目か四年目かのことだった。
(……今年も、)
目覚めたときには既に、義勇がいない。それが任務ではないとわかるのは、微かに残る線香の匂いがあるからだ。物置から消えた手桶と、湿気っていないか確かめるように数本だけ燃やされて片付けられた線香。誰かのお墓参りに行っているらしい義勇は、朝はが目覚める前に出て行って、日の暮れる頃に帰ってくる。義勇は何も言わないから、も何も訊かずにその日を過ごす。ただ、誰かの命日であるらしいその日は毎年義勇が沈んでいるように見えるから。だからは、いつもより殊更に日常を作る。今日はいい天気だから、布団を全部干してしまおう。掃除も、いつもよりももっと丁寧にがんばろう。魚屋のおかみさんが「良い鮭が手に入ったから、早くにおいで」と言ってくれていた。「ならもちろん鮭大根だろう?」と八百屋の親父さんが笑っていたのは、鮭と大根を揃えて買って行くときのが上機嫌な理由を知っているからだ。ひとり家の中で照れくさくなってしまって、緩む頬を両手で抑える。まずは冷たい水で顔を洗おうと、は井戸へと向かったのだった。
「…………」
線香をあげて、静かに手を合わせる。寂れた墓地には、誰もいない。そしてこの墓を訪うのも、今となっては義勇だけだろう。彼女の家族は鬼と化した父親によって全員が死んでしまい、その父親も義勇が殺した。血の近い身内もこの近辺には住んでいないようで、もう法事でもなければここには来ないようだった。
(、、)
丁寧に掃除をした墓石に掘られた名前を、そっとなぞる。は死んだことになっている。当然遺体は見つからなかっただろうが、あの肉片だらけの血の海では死んだと見なされても仕方がなかっただろう。が助かったのは、食い散らかされる前に義勇が鬼を斬ったからだ。はこの石の下に葬られている。義勇の元にいるのは、あの少女ではない誰かだった。
(赤い結紐をしていた)
裕福な家ではなかったようだが、それでも女の子らしいなりをしていた。母か姉か、誰か髪を結ってくれる人間がいたのだろう。血に汚れた結紐は、解けかけていて戻せなかった。結われた長い髪にもべっとりと赤黒い血がついて。少女らしい着物を着て可愛らしい柄の帯を結んだ、どこにでもいる子どもだった。義勇だけが知っている、の最期だった。今義勇の傍にいることを選んだあの少女は、いったい誰なのだろう。という、誰でもない少女。義勇の継子、鬼狩りの剣士。誰も彼女の生い立ちを知らない。義勇の知っているは、この冷たい土の下に葬られた。鱗滝に育てられ、義勇の隣を歩いて。そうしては義勇のとして生きていくのだろう。義勇だけのは、きっと今日も義勇と視線を合わせてはにかむのだ。肩につかないほどの髪を揺らして、真っ黒な隊服に藤色の羽織を羽織って。は義勇が誰かの墓に詣でていることを察しているようだったが、何も訊かなかった。元よりはあれこれと他人の事情を詮索する性質ではないから、何も訊かれなくて安堵しているのも事実ではあるが。けれどは、自分が死んだことになっていると知ったとしても大した感慨を覚えないように思えた。元々、失った記憶にさして執着がないようなのだ。帰れる場所がないことを、薄々解っているようでもあった。義勇ばかりが、引きずっている。これからもずっと、胸の中にこの気持ちを沈めて生きていくのだろう。
「……また来る」
誰にともなく、語りかける。線香の匂いが、義勇を引き留めるように鼻腔を突いた。そういえば線香の匂いは死者が食べるものとされているのだったかと、つかぬことを思う。はああ見えて色気より食い気なところがあるから、線香よりもおはぎの方がよほど嬉しく思うだろう。けれど結局それも、今のが好むものだ。が何を好み何を嫌っていたのか、義勇は知らない。ここに眠るは、ではない誰かなのだ。のためにおはぎでも買って帰ろうと、義勇は踵を返す。義勇だけのが、義勇の帰りを待っていた。
「義勇さま、おかえりなさい」
駆け寄ってきたに、詰めていた息を吐く。今となってはが義勇の帰る場所で、義勇がの帰る場所なのだと。は義勇に安心を与えているのだと、実感する。揺れる藤色の簪に思わず手を伸ばすと、ははにかみながら義勇の手を受け入れた。の表情筋は変化に乏しく、困ったような眉はいつもその形だったけれど、義勇の目にはの表情はとても色鮮やかに映る。優しい体温が義勇の手に伝わって、しばらくそのまま玄関先でじっと佇んでいた。
「……ただいま」
「はい、おかえりなさい」
幼妻のようだと、揶揄したのは伊黒だったか。否、伊黒は確か駄犬とを呼ばわったのだ。むっと眉間に皺を寄せた義勇を、がおろおろと見上げる。「しゃ、鮭大根がありますよ」と義勇の不機嫌を宥めようとするに、思い出した怒りもすぐに萎んだのだが。
「」
呼べば、は反射的に返事をする。思い出すのは、いつかが少年剣士たちと話していた他愛もないおとぎ話だった。
「ホオズキカズラを自分のために使うとしたら、何を願う」
「……えっ、と、」
戸惑うように視線を泳がせたに、そういえばは義勇がその会話を聞いていたことを知らなかったのだと今更気付く。けれど、どうして知っているのかと問うこともなくは耳を赤くして答えた。
「義勇さまが、長生きしてくださるように、お願いします」
「……お前の願いだぞ」
「私のためです、義勇さまがいないと悲しいのは、私なんです……」
ぎゅっと隊服の裾を握り締めて俯くの顔を、そっと上げさせる。あんなに死を恐れているのにどうして自分の命を願わないのかと、そう問うほど義勇は愚かではなかった。
(これで、満足なのか)
今やは自らの死よりも、義勇を失うことを恐れている。それは果たして義勇の願いが叶った結果なのだろうか。この愛おしい愚か者は、義勇がそうあれと乞うた願いの結実なのだろうか。
(もし、)
もしも、義勇が戦いを乗り越えて生き延びたのなら。終わりのときに、この自己欺瞞に満ちた命がまだ残っていたのなら。そのときはきっと、この命をすべてに捧げよう。水柱の冨岡義勇としての役目を終えたなら、きっとの義勇として生きていこう。
「俺はきっと長生きするから」
生に執着するくせにひどく危なっかしい継子の手を取って、義勇は凪いだ瞳を見下ろす。
「だから、お前も長生きしろ」
「は、はい……」
きゅうっと義勇の手を握り返して、が苦しげに唇を引き結ぶ。その表情の意味を問う前に、はとても綺麗な笑顔を浮かべたから。だから義勇は、目を奪うようなその笑みのあまりの綺麗さに見惚れてしまって。そうして、は生涯でたったひとつだけ、義勇に嘘を吐いたのだった。
190318