はしるけものの美しさだと、実弥は思ったのだ。
「おい」
 その躰は、苛々するほどに小さかった。背丈で言えば、しのぶと変わらないほどだ。ボケっとしていて、ビビりで、視界に入れるのも腹が立つ。けれど今、実弥の目の前で激流のように奔ったに、実弥は確かに魅せられたのだ。うつくしいと、鮮やかな血潮や地を蹴る脚の強さを目にしたときと同じものを感じて目を奪われた。
「風柱様……」
「実弥でいいって言ってんだろォ」
「さねみ様、」
 鬼と相対していないときのは、ただのぼうっとした子どもでしかない。何を考えているのかよくわからない目と、曖昧な反応。血も繋がっていないくせに兄弟子とそっくりだと、不愉快にすらなる。今日は偶然が重なってたまたま同じ任務だったけれど、きっともう同じ任務に向かうことは無いだろう。そもそもはあまり任務に出ないのだ。義勇がと向かうはずだった任務に合流できなかったから、比較的近くにいた実弥がと合流した。継子だとは言っても実質的には義勇に庇護されている子どもだ、どうせすぐに死ぬだろうとたいした感慨も持たなかったのに。
「助けていただいて、ありがとうございます」
「テメェが勝手に生き残っただけだァ」
 頭を下げたの額に掌を押し当てて、ぐいと上げさせる。屋敷の一室で鬼と交戦していたを見つけた実弥は、暴風のように鬼を薙ぎ倒した。柱との実力差に呆然とする隊員など見慣れているし賞賛を受けたいわけでもないが、ぼんやりとしたまま頭を下げられるのもそれはそれで妙な心地がする。の傍には義勇がいるから今更柱の実力に慄くこともないのだろうが、そう考えるとどうしてか苛立ちがふつふつと湧き上がるのを感じた。
「おい、ちんちくりん」
「は、はい」
「冨岡と俺と、どっちが強い」
「……わかりません」
「あァ?」
「御二方とも、すごすぎて、遠すぎて……わかりません、」
 チッと、実弥は舌打ちをする。一緒に並べて語るなとも思ったが、自分から言い出した以上その理不尽をぶつけるのも憚られた。
「弱ェよ、てめぇは」
「はい……」
「あんな雑魚相手にタラタラ、必死にやってもあのザマで何が継子だァ」
「……はい」
 この生き物はもっと疾く駆けるはずだ、もっと敵の喉元まで噛み付けるはずだ。もっと血飛沫をあげて、放たれた矢のように飛び込んで、我が身を顧みず敵を穿つことが能うはずだ。鞘をつけたまま刀を振っているような違和感が、あの焼き付くような美しさに鬱陶しく纏わり付く。もっと烈しく、もっと刹那的に。「これ」はきっとそういう生き物のはずなのだ。
「……おい、刀構えろ」
 新手の気配を感じて声をかけたときには、はもう動いていた。壁を突き破って部屋に侵入してきた鬼に、真っ向から斬りかかっていく激流。吹き飛ばされた壁の破片が当たることにも構わず、一度距離をとって機を伺うこともなく。最短距離を飛んだに見惚れた須臾に焼き付いた、焦がれるような熱情。それはきっと、空を切る風の摩擦熱だった。
「遅ェ」
 鞘に収められたままの刀のような鈍さで、鬼を殺せるものか。首根っこを掴んでを床に叩きつけた実弥は、が飛びかかろうとした鬼が腹をぱっくりと開いて、呑み込めなかった獲物を惜しむように唸り声を上げるのを聞いた。腹そのものが口になっているようなその鬼は、なるほど多くを喰らってきたのだろう。化け物に相応しい、実に醜い風体だった。
「テメェはこっち側だろォ、ちんちくりん」
 流麗などとは程遠い。の美しさはそんなところにはない。目の前の命を喰いちぎって牙を剥く獣性こそ、この瞳が魅せる美しさだ。義勇などに飼い慣らされて、まるで人のような顔をして。違うだろう、その牙は鬼の頸を噛みちぎるためにあるのだ。ぬるま湯に浸かるような愛玩で、命の燃やし方を忘れて。そうしてこの美しかった生き物は、弱くなっていくのだ。
「テメェに水は重いんだよ」
 バラバラに鬼を引き裂いた、風の呼吸。実弥なら、の命の疾さを損なうことはない。もっと速く、もっと刹那の一瞬を、駆けさせてやることができる。義勇には、の本来の速さを活かしてはやれまい。生き急ぐ継子の命を繋ごうとする義勇のそれは、実弥から見れば愚かしい臆病だった。そもそも心の平静が肝要である水の呼吸に、は適していないのだ。生への執着ゆえの恐慌が、の脚を動かすのだから。ぼたぼたと落ちた鬼の肉片が頭にもろに当たって、は困ったように実弥を見上げた。
「テメェは水の呼吸に向いてねェんだよ。俺の継子になれば、今よりはマシに鍛えてやる」
「えっ、と……」
「風の呼吸の方が向いてんだよ、絶対になぁ」
 ぐい、と引き起こされたは、ふるふると首を振る。その意図を問い質すように睨め付けた実弥に怯えながらも、は口を開いた。
「義勇さまの、継子でいたいです……」
「鬼、斬りてェんじゃねえのか」
「義勇さまは、私の安心なんです、」
「安心だァ……?」
 憩う場所を、は知っている。鬼を斬る刹那の高揚よりも、義勇の隣で深く息を吸う安寧がいい。義勇がどれだけの安息のために心を砕いたか、その尊さはにだってわかるのだ。自分の任務を増やしてまで、を戦いから遠ざけたこと。柱に教えを乞いたい剣士など幾人もいる中で、だけに時間を割いてくれたこと。どんなに鍛えてもらっても柱には届かないと互いにわかっているのに、ただを生かすためだけに継子として稽古をつけてくれたこと。それがどんなに贅沢でありえない奇跡なのか、は知っているのだ。記憶が戻らなくてもいいと思えるのは、として歩いてきたから。鱗滝に救われて、不確かな安息を求めて飛び出して、そして義勇の隣で安寧を得た。これが矜恃を捨てた獣の姿だと笑われても、は甘んじて首輪を自らの首に課そう。喰らい合うだけでは得られなかった幸せが、義勇と繋いだ手の中にあるのだ。きっとそれはひどく壊れやすくて、永遠どころか明日も続いてくれるかすらわからないから。だから愛おしくて、だから大切にしたい。はもう、速く駆けられなくてもいい。義勇と同じ速さがいい。それすらきっと本当は、とても難しいことなのだろう。
「……同じだと思ったのによォ」
「実弥様……」
 どこか、いじけたような声だった。俯いた実弥の頭に、そっと手を伸ばす。拒絶されるのが怖かったけれど、予想に反して実弥は動かなかった。ごわごわとした髪は、雨ざらしの獣の毛皮のようだった。硬いけれど、どこか不思議と柔らかい。誇り高い生き物が頭を撫でられることを許す意味も知らず、は自分よりずっと強いその生き物に触れる。同族ゆえの憐れみか、懐かしい匂いを感じたのか。実弥にも、脚を休める場所があればいいと思った。隣に寄り添って体温を分け与えてくれる誰かのいる、安息が。
「……行くぞ」
「はい、」
 ややあって頭を上げた実弥は、どこか寂しそうな目をしていた。きっと以前のなら、実弥の疾さに惹かれただろう。何もかもを置き去りにするような速さに、焼け付くような憧れを抱いたのだろう。帰る場所を持たずとも、互いの温もりを拠り所にして眠ることができたに違いなかった。実弥もも、そういう生き物だった。
「精々、達者でやるんだなァ」
「はい……実弥様も、お元気で」
「ハッ、誰にものを言ってやがる」
 鬼の棲んでいた古屋敷を出ると、ちょうど義勇の姿があって。もう終わったと実弥が告げれば、「そうか」と頷いた義勇はの手を取って歩き始めた。ぺこっと頭を下げて義勇に引かれるままに歩いて行くは、もう振り返らない。まるで犬の散歩だな、と実弥は嘆息した。番になれると、思ったのだ。巡り会うのも稀な同族は、既に一生の飼い主を決めていた。ぼけっとしているように見えて情が強いことなど、実弥は誰よりも知っている。頑固で、一途で、愛情深くて、忠実だ。生涯の伴侶を得たのだから、はもう義勇が死んだとてその骸から離れないだろう。自分にとってはが、そうなるはずだった。野分が凩に焦がれた、ただそれだけのことだった。同じ地の果てを、見られるかと思ったのに。せめて自分が死ぬときは、あの仔犬のいる場所に還ろうと思う。は実弥に、寄り添うことはできないから。だからきっと死ぬときだけは、の隣を目指そう。安心を知ったとのたまう獣は、きっと鼻先を寄せて実弥を看取ってくれる。そこにあるのが憐れみだとしても、それだけで十分だった。
 
190422
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