「斬れないはずなんです、本当は」
 しのぶは、にこにこと微笑みを浮かべて言った。けれど、その目は真剣にを案じていて。
さんは、私とあまり体格が変わらないでしょう。本当は、鬼の頸なんて斬れるはずがないんです。呼吸や筋力の違いはあるにしても……」
 ではどうして鬼の頸を斬れるのでしょう、としのぶは出題するように問う。あわあわと足りない頭で答えを探すに、しのぶはクスリと笑った。
さんが鬼を斬れるのは、いわば火事場の馬鹿力なんです」
 少し語弊はあるものの、近いものとしてしのぶはそれを例に挙げた。死の恐怖を前にして、あらゆる身体機能の制限が外れている状態。は鬼を前にすると死の恐怖に等しい恐れを抱くから、身体機能に制限がかからない状態で戦えるのだと。
「ですが、それはとても危ないことです」
 前回の任務でちぎれかけたの腕にそっと触れて、しのぶは告げた。本来制限がなければ体が壊れるものを、戦いの間外し続ける。呼吸法も人体の限界に近付くためのものではあるが、あれはそもそもの身体能力を底上げするためのものでもある。は自壊しながら、戦っているようなものなのだ。
「冨岡さんも、少しだけわかっているのでしょうね。だから、怯えで刀を振るなと言う」
 限界そのものを、伸ばしていけるように鍛えて。身体機能の制限を外してしまうほどの怯えに、箍を嵌めて。そうしないと、は壊れてしまうから。生きるために限界を超えて戦って、命を縮めてしまう本末転倒。まるで呪いのようなそれを、外してやるために。いっそ無茶なほどの修行を、に課した。今もは恐怖を払拭するために戦っているけれど、それでも元々の身体機能が上がったのと、我を忘れるほどの恐怖を抑え込めるようになったために自壊するような烈しさで戦うことは少なくなった。義勇が心を砕き、が必死に応えた結果だ。ぼろぼろの体を診続けたしのぶは、どうにかまともな人間の形に戻ったの体に安堵すら覚えていた。しのぶは少しだけ、のことを羨ましく思ったことがある。は鬼の頸が斬れるのだ。同じような体格だけれど、しのぶに斬れない頸をは斬れる。炭治郎に託した夢が鬼への慈悲なら、に託した夢は鬼の斬首だった。いくら鬼を毒殺しても埋まらない心の穴のひとつを、の存在が満たした。手に入らないものに、人は焦がれる。鬼への慈しみを忘れない炭治郎。しのぶと変わらない体格で鬼の頸を刎ねる。少しだけ羨ましくて、けれどそれぞれに背負ったものを思えばそれも虚しい羨望だった。炭治郎がその身に負う宿命はあまりに重く、が負った代償は大きすぎる。鬼を斬るほどに壊れていく体はもう、あと何年義勇の隣で笑っていられるのだろう。本当はもう、鬼殺隊を辞めるべきだとわかっていても言えないのは、自分がその言葉を既に背負っていたからだった。同じ言葉を、にはかけられない。自分自身の希望の火を、吹き消すようなものだった。
さん、カナヲたちとよく話してくれているそうですね。ありがとう」
「そ、そんな、いつもお世話になっております、」
 カナヲもアオイもなほもきよもすみも、しのぶにとってかけがえのない部下で家族だ。はしのぶの部下でも家族でもない。けれど、時々昔の自分を見ているような気持ちになる。押し隠した想いを、直視したときのような気持ちになる。義勇には伝えていない、本当の限界。それは遠い未来訪れる「いつか」ではなく、この先数年すら危ういすぐそこなのだと。長くはないと察していても、鬼と戦うほどに自壊しているとまではわからないだろう。の自然治癒力は、異常に高い。成長や寿命を代償に、身体を維持している。それでもどうにか僅かな隙間を繋いで、ほんの少しずつ成長しているのだ。は義勇と契って大人になったけれど、その身体は初潮を迎えていない少女未満のままだ。見かけは年頃に見えても、体の機能が追いつけていない。追いつけないまま、けれど壊れていく。はきっと、二十歳を数えることすら危ういだろう。
「死んではいけませんよ、さん」
「はい、しのぶ様」
「きっと生きて帰ってきてくださいね。どんなに不格好でも惨めでも、誰が笑おうとも。私が診ている以上、あなたを死なせはしません」
「しのぶ様……」
「あなたが思っている以上に、冨岡さんはドジっ子ですから。きちんと見ていてあげてくださいね」
「は、はい!」
 悪戯っぽく笑ったしのぶに、は背筋を伸ばして元気よく返事をする。は義勇がいないとうまく息ができないけれど、義勇もがいないと少しだけ駄目らしい。義勇に吠えかかる犬を宥めたり、不審者と間違われる義勇を自分の師範だとご近所さんに説明したり。言葉にすればなんとも陳腐なことばかりで、きっと義勇はがいなくても鬼狩りとして生きていけるのだけれど。冨岡義勇としての生活を、は支えたいと思う。それがきっと、に示せる愛情であればいいと思った。

「……今日はやけに嬉しそうだな」
 義勇と眠りにつく前の、ほんの少しの睦言の時間。義勇もも元々あまり言葉を発さない性質だから、いつもは照れくさそうに見つめ合ったり頬や手に触れ合ったりするうちに自然と眠りに落ちていくのだけれど。義勇の腕に頭を預けてにこにこと、乏しい表情筋いっぱいに笑顔を浮かべる。今日はおやつにおはぎでも食べたのだろうかと、義勇は首を傾げた。
「わたし、義勇さまを見てるんです」
「……そうだな?」
「今日も明日も明後日も、明明後日も……任務をご一緒できない日は見れないですけど、ずっと見てますね」
「何を見るんだ?」
「義勇さまが犬に噛まれてないかとか、声をかけた子どもに泣かれていないかとか、ご飯粒がほっぺについていないかとか……」
「…………」
 まるで子供を心配する親のような言い草に、義勇はどう反応したものか考えあぐねて口を閉ざす。それはまるで自立心の芽生えた幼子のような、どこか可笑しな物言いで。義勇は思わず、の頬を柔らかく抓る。それでも緩んだままの頬はもちもちと柔らかくて、義勇は反対の頬をかぷりと食んだ。ひゃあ、と声を上げたが楽しそうに笑うから、義勇はかぷかぷと頬を柔く食む。の体は発育が悪く、たまに相対した鬼に不味そうだと言われているのを聞いたことがある。それでも義勇は心配なのだ、こんなに可愛らしくて柔らかくて、喰われてしまいやしないかと。義勇ばかりが、心配している。愛おしいから、こんなふうに思うのだろうか。やわやわと甘噛みして口を離すと、は頬を赤らめて恥ずかしそうにしながらもやはり嬉しそうに笑っていて。
「きっと私、義勇さまのぜんぶが好きです。全部は知らないですけど、きっとぜんぶ好きです」
「……ああ」
 情けないところも、不甲斐ないところも、格好悪いところも。きっとには見せたことのないものも全部含めて、は愛してくれるのだろう。は義勇の全てを知らないけれど。義勇が、の全てを知らないように。義勇はそっと、の首筋に手を当てた。動脈が、とくとくと規則正しく血を運んでいた。

「? はい」
「俺に、隠していることはないか」
 どくりと、不規則に脈打つ頸動脈。僅かに見開かれた目。は表情が乏しいわりに、嘘をつくのが下手だ。隠しごとも、あまりに下手で。乾いた喉をごくりと動かしたは、「実は……」と目を伏せて口を開いた。
「義勇さまの昔の話、聞いたことがあるんです」
 今度は、義勇が不整脈になった。どくりと、大きく調子を外して脈打った心臓。昔の話、とに言われて真っ先に脳裏に思い描かれるのはあの凄惨な血の海だ。平穏の壊れる音すら聞こえそうな静寂を破ったのは、思いもかけないの言葉で。
「錆兎お兄ちゃんに、義勇さまの小さい頃のお話、聞いたことがあるんです……」
「……錆兎に……?」
「黙っていて、申し訳ありません……」
 義勇、義勇と錆兎が事ある毎に話してくれた少年の話。狭霧山で暮らしていたときの、不思議な思い出。誇らしそうに、仕方なさそうに、錆兎は義勇という少年の話をしてくれた。それがの目の前にいる義勇のことだと結び付いたのは、ごく最近のことだけれど。
「鱗滝さんに、滝に蹴り落とされて泣いていたとか、ご飯が鮭大根だと思ったら鰤大根で泣いていたとか、そういうお話ばかりなんですけど……その……」
「……錆兎が、」
「わたしがそれを知ってるの、ずるいんじゃないかなって……」
「それは、構わないが……」
 拍子抜けにも、近い安堵を覚えた。もしかしたら断罪されるかもしれないと、一瞬期待と不安が膨らんで。萎んだそれの代わりに、淡い安堵と自己嫌悪を覚えた。
「義勇さまにとっては、たいへんな記憶かもしれないですが……私はそれも、好きです」
「そうか……」
 義勇ばかりが、を知っていると思っていた。けれども、義勇のことを少しだけ知っていたらしい。錆兎、という言葉に胸が締め付けられるように苦しくなる。は死んだはずの彼らに狭霧山で出会っていたのだそうだ。話には聞いていたけれど、まさかそんな他愛のない話をしていたなんて知らなかった。未だ引き摺る友の死と、への負い目。一番の重荷を直視することに揺れた瞳は、の動揺を見逃した。
(ごめんなさい、義勇さま)
 義勇の傍にいたい。一番の安息が義勇だという事実は変わらない。けれど、今やは自らの安心のためだけでなく、守りたいもののために戦っていたいのだ。義勇はきっと、を戦線から下がらせる。そういう、優しい人だ。けれどそれでは義勇を守れない。烏滸がましいことではあるが、自分が戦うことで少しでも巡り巡って義勇や大切な人たちを守れるのなら戦っていたい。これはきっととてもひどい嘘だ。義勇への、裏切りだ。義勇はきっと、許してくれない。それでも、義勇やいろんな人に助けてもらって繋いだ命を、誰かを繋ぐために使いたかった。それが生きるということだと、は思えるようになったのだ。全部、義勇のおかげだった。安心を、守りたい。の一番の安心を、守りたいのだ。
「義勇さま、好きです」
 今日も、明日も明後日も、明明後日も。いつまで義勇にそれを伝えられるかわからないから、きっと毎日伝えていこう。後悔のないように、一生懸命義勇を愛して生きよう。死にたくなくて、生きていたい。この鼓動を、明日も聞いていたい。義勇の胸に頬を擦り寄せたを、義勇はただそっと、抱き締めた。
 
190424
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