短い、結婚生活だった。麗らかな春の昼下がり、床に伏せるの手を握って義勇は最愛の妻を見下ろす。残された時間は長くないと、わかっていた。それでももしかしたら奇跡のように永らえてくれるのではないかと、心のどこかで期待していた。現実はただそこにあるだけだと、何度も思い知っていたのに。
「ぎゆう、さま」
「ああ」
もう、目も見えていない。声のした方向に顔を向けたの天色は、心做しか曇っていたけれど。それでも義勇の声に、心底嬉しそうに微笑んだ。
「たぶん、私、もう長くは、」
「言うな」
「でも、今、言わないと……」
「……頼むから、」
小さな右手を包むように握り締めて、額に当てる。祈るように、乞うように。は、少しだけ困ったように笑った。
「しんぱい、です、義勇さま。ドジっ子なので」
「わかっているなら……」
「でも、大丈夫です。義勇さまは、だいじょうぶ」
が倒れたのは、大きな戦いが終わって間もなくのことだった。ささやかながらも、周囲に温かく祝福された祝言を挙げて、失くした友や仲間たちにも墓前で報告して。家に帰ればがいる、今までと何も変わらないようでいて確かに何かが変わった日々を、毎日噛み締めるように生きていた。きっとこれからもそう生きていくのだと思った矢先に、が血を吐いて倒れて。焼け付くように暑い、夏の日のことだった。体内に籠っていた熱が、ざあっと引くのがわかった。
――さんは、寿命です。
蝶屋敷の彼女たちも、どの医者も、口を揃えてそう言った。内臓を含め、体がもうまともに機能していないのだと。それも病気や怪我ではなく、生物に定められた刻限が来てしまっただけなのだと。だからもう手の施しようがないのだと、ある者は淡々と、ある者は気の毒そうに、ある者は涙ながらにそう言った。
(遅すぎたんだ)
戦いから退かせるのが、遅すぎた。は戦い続けるために自分の命を、未来を燃やし続けてきた。もっと早くに退かせていたら、あるいは。もっと先の未来までは義勇の隣で笑っていてくれたのではないかと、そう現実から目を背けようとした義勇を誰も責めてはくれなかった。それでも絶望に蹲ってはいられないから、義勇は残された少ない時間全てをと共にいると決めたのだ。伏せってしまうことをは好まなかった。少しでも体調が良ければ、義勇が家事をするのを手伝いたがって。雨の日も晴れの日も、縁側や庭での淹れてくれた苦い茶を飲みながら静かに時が移ろうのを眺めた。見たことがないとが言ったから、連れ立って海にも行った。ばちゃんと転んで水浸しになってもへにゃっと笑ったは、相変わらず子供のようで。ゆっくりとしか歩けなくなったの腕を支えて、同じ速さで歩いた。道端の花の名前や近所の犬の名前を、がひとつひとつ教えてくれて。嘘のように穏やかで優しい時間は、それでも確かに終わりに近付いていた。
「わたし、幸せですよ、義勇さま」
「……ああ」
過去形にはしないに、俺もだと義勇は頷く。今更、自分のせいだという卑屈に逃げたりはしない。ただ、悲しいのだ。痛いほどに、愛しかった。本当に、このまま蹲ってしまいたいほどに幸せな日々だ。がいて、笑ってくれて、愛してくれて。手を繋いで、指を絡めて、照れたように含羞んで。けれど、この手は義勇を置いて行く。あるいは置いて行くのは、義勇かもしれなかった。
「心配だったんです、でも、みんながいるから。義勇さま、さびしくないです」
「……俺は、」
「わたしがいなくても、義勇さまはだいじょうぶなんです」
「無理だ、」
「だいじょうぶで、いてください」
真剣な、願いだった。はそれだけが、気がかりなのだろう。義勇がひとりぼっちになってしまうのが、怖いのだろう。義勇がまた独りで、幸せを遠ざけて生きていくのが怖いのだろう。大丈夫ではいられないと言えば、そんな情けない本心を晒してしまえば、は生きていてくれるだろうか。そうではないから、は今義勇に呪いをかけているのだ。
「……俺は、お前みたいには生きられない」
ひたむきに、ただひたむきに。真っ直ぐにただ前だけを見据えたなら、もう迷わずに。その疾さが、危なっかしさが、みんな心配で、それでいて惹かれて、手を伸ばさずにはいられなかった。の命の瞬きは他人を惹きつける。そしての稚さは、好意というものをおそろしく素直に受け入れた。差し出された手に頬をすり寄せることのできる幼さが、の強さだった。義勇はそうは、生きられない。ここにある小さな手を握り締めてやることくらいが、義勇の精一杯の強がりだった。
「それでも、だいじょうぶです、義勇さま。みんな、義勇さまのことがすきです」
「お前は……酷いな」
「はい」
「そういうことを肯定するな」
義勇の言葉に、くすくすとが眉を下げて笑う。すぐにその笑い声は喀血の咳へと変わって、義勇は濡らした布で丁寧にの口の周りを拭いてやった。もう慌てることもないほどに慣れてしまっても、心臓はその度に嫌な音を立てる。喀血の頻度は、日増しに高くなっていた。やせ細った体は、ぞっとするほどに軽い。どれほどの苦痛を堪えて、は今ここで息をしているのだろう。もう楽にさせてやった方がいいと、頭のどこかではわかっている。それでも一刻でも一秒でも傍にいてほしいと願う義勇も、酷い人間だろう。
「義勇さま……、長生きしてくださいね」
「…………」
「やくそく、破ったら怒りますからね、三途の川で追い返しますからね」
「……先に破りそうなのはお前だ、」
「はい、ごめんなさい……」
「許さない」
「はい、」
「許さないから、まだここにいろ」
眉を寄せて、義勇はを見下ろす。顔に血の気が戻らない。増血剤では、もう失った血を補いきれていないのだ。けれどは、痛ましそうな顔をして義勇の頬に手を伸ばす。彷徨うの手を引いて頬に導けば、の親指が義勇の目の下をそっとなぞった。
「義勇さま、ちゃんと寝て、くださいね」
「……、」
「ご飯も、いっぱい食べてくださいね、お風呂上がりは、髪を拭いてください……風邪、ひいちゃいます」
「、」
「迷惑かけてごめんなさい、お茶、淹れるの、最後までへたで……ごめんなさい……約束、守れなくて、ごめんなさい……」
「もういい、、そんなこと」
「かぞく、あげられなくて、ごめんなさい」
ぽつりと落ちたの言葉に、義勇は息を詰まらせた。はずっと、心の奥底にその後悔を沈めていたのだろう。はずっと、月の障りが来ないままだった。母親になれない体であることを、は義勇が思うよりずっと重く捉えていたのだろう。
「義勇さま、私に『冨岡』、くれたのに」
それ以上は、もう耐えられなかった。小さな体を抱き寄せて、ぎゅうっときつく抱き締める。義勇の背中に回された腕は、かたかたと震えていた。
「義勇さま、わたし、もうこわくないです、大丈夫です」
「っ、」
「だから義勇さまも、大丈夫、って、」
「……ああ」
「わらって、ください。わたしが、いなくなっても」
そう言って、は下手くそに笑う。本当に酷い女だと、そんな泣きそうな顔を見て笑えるわけがないと、義勇は唇を噛み締めるけれど。それがの願いならば、義勇は笑うべきだ。例えもう見えていなくても、が笑ってほしいと望むのならば。不格好な笑顔を必死に浮かべて、義勇はの手を強く握った。
「義勇さま、あんしん、」
「ああ」
「わたし、ここにいます……ずっと」
頼りない体温が、義勇の手を包む。最後まで義勇に安心を返そうとするに、温い涙を呑み込んで笑いかける。こんなふうに笑ったのは、随分久しぶりな気がした。
「大丈夫だ、……俺は、大丈夫だ」
「……よかった、」
心の底から安堵したような顔で、は優しく笑う。の知らない幼い日のように、義勇の羽織を掴んでぎゅっと握り締めて。そして、ふっと糸が切れたように目を閉じる。
「……?」
返事は、なかった。すうすうと穏やかに眠る吐息に、けれどきっともう目覚めることはないとわかってしまった。あたたかい体を抱き締めて、鼓動の音を数えながら義勇はに寄り添う。の好きな畳の匂いが、ふと鼻をついて。春の優しい風が、時折花びらを運んで部屋の中に舞い込んだ。
穏やかな昼下がり、冨岡は静かに息を引き取った。眠っているようなあどけない顔は、けれどもう触れても温もりの残滓を失いかけていて。
「……頑張ったな、」
おそらく二十にも満たない人生を、一生懸命生きた小さな体。軽い体を抱き締めて、義勇は静かに語りかけた。もう、彼女を脅かすものは何もない。最後まで怖がりで臆病だったの穏やかな顔を見下ろして、義勇は「今だけだ」と俯いて嗚咽を漏らしたのだった。
190517