――ないしょのおはなし、
ある任務のときの話だ。隣で焚き火を眺めていた姉弟子は、炭治郎の問いにそう口を開いた。頸を斬る瞬間、「人殺し」と呟いた鬼。鬼になって間も無かったのだろう、まだひとに近い形をしていた。絶望したような目が、炭治郎の手を止めそうになった。鈍った動きにニヤリと笑った鬼の頸を斬ったのは、姉弟子の刀で。自分は甘いのだろうか、偽善者なのだろうか。そう問うた炭治郎に、は「大丈夫だよ」とぽつぽつと答えた。
「炭治郎さんは優しすぎるけど、ちゃんと歩けると、思う……この先」
「この先?」
「鬼が、いなくなったら」
ぱちぱちと、乾いた木が爆ぜる。つい先ほど殺した鬼の残した足跡をとんとんと叩いて、は目を伏せた。
「……鬼と、殺し合っているうちは、人の嫌なところ、考えなくていい」
「嫌なところ、ですか」
「うん……鬼殺隊にいると、鬼が、ぜんぶ悪いから」
鬼と人の争いだから。人は守るべきもので、鬼は斬るべきもの。そこには絶対の善悪と正誤があって、誰も迷わない。鬼を斬る、人を生かす。恐ろしいほどに、白黒に分かたれた価値観。鬼は鬼というだけで斬る、かつて人だったものを。人は人というだけで守る、たとえどのような者であったとしても。
「もし、鬼がいなくなったら……鬼が悪く、なくなったら、わたしは安心する。ずっとずっと『ここ』にある、こわいって気持ちがなくなったら、夜も、眠るのも、きっと大丈夫になる」
鱗滝との穏やかな暮らしの中でも、義勇と寄り添って生きる日々の中でも、ふと時折息が吸えなくなることがあった。安心に深く息をしている最中、ふと首を後ろからひやりとした手に掴まれるような。の心の奥底には、重い氷の塊のような恐怖がある。自分でもどうしてかわからないほど、その恐怖は深く根を張ってしまっている。鬼がいる限り、は一生その恐怖に追われ続けるのだ。鬼がいなくならないと、生き直せない。の人生は、の安寧は、鬼がいなくならないと始まらないのだ。だから、そこで生きられるか否かには関わらず、いつか辿り着かなければならない場所なのだ。けれど鬼殺の剣士たちは、鬼がいなくなった人の世界と向き合えるだろうか。保身の為に嘘をつくのは鬼ばかりではないと、そう知ってはいても戻れるだろうか。鬼に殺されたから、鬼を殺した。直接の仇ではないものを。鬼は殺すから、鬼を殺した。殺したところを、目にしたことがなくとも。恨みや憎しみで殺してきた者たちは、鬼なくして前を向けるだろうか。鬼という悪から人を守る使命感で殺してきた者たちは、鬼なくして立ち上がれるだろうか。誰もが元は人だった。人を傷付けるのは人だと、思い出してなお真っ直ぐに生きられるだろうか。
「鬼を斬るのが正解の、せかいがおわったら、もう、正解がないから、だから……炭治郎さんみたいに」
こんなことを、は鬼殺隊の誰にも言えないに違いない。鬼殺隊は鬼に生かされていると、そう言っているようなものだ。鬼に生きる意味を与えられていると、そうとも取れるようなことを到底は言えまい。特に義勇には、口が裂けたとて言わないだろう。
「迷って、考え続けて、それでも信じないと、前を見ないと、走れなくなる……走れなくなったら、追いつかれる」
「何に、追いつかれるんですか?」
「……こわいもの」
膝を抱き寄せるようにして、はそこに顔を埋めた。普段口数が少なくてぼうっとしているように見えるでも、色々と思うところはあるらしい。拙い言葉でも、の言いたいところは炭治郎に何となくわかった。どことなく人よりも獣の摂理に近い感覚を持っているにとって、生死に意味を持たせたがる人の生き方は不可思議に映るのだろう。生きるとはここにいることで、死とはそれが終わること。ただそれだけだからこそ、死んだら終わるだけだからこそ、は死を恐れるのだ。終わっている者たちの意味をずっと心の中に抱え続けて戦う鬼殺の剣士たちは、意味のために死んでしまいそうでは怖いのだ。炭治郎は迷うけれど、決断できないけれど、それでも前に進む。悩みながらも惑いながらも、まずは進む炭治郎の強さを見ては大丈夫だと思ったのだ。炭治郎は、喰らい合う世界で弱く見えるかもしれないけれど。それでも生きる強さを持っている、だから安心して見ていられる。は義勇にその安心を持てなかった。自分が生きている意味を疑ってしまう義勇が、いつか自ら歩みを止めてしまいそうで怖かった。彼を突き動かす使命感が果たされて、彼が守ると決めたが死んでしまったら、義勇は新しい意味を見つけられるだろうか。意味がなくとも、生きていけるだろうか。どこまでも人らしい義勇が慕わしくて、でも心配だった。
「……義勇さまのこと、よろしくお願いしますね」
焚き火の明かりに照らされて、は柔らかい笑みを浮かべる。死ぬのは怖い、死にたくない。それでもこの恐怖があるままではいずれ死に追いつかれるから、生きるために命を燃やす。義勇と一緒にいることを諦めたくないから、刀を握る。後悔はないけれど、灰になった自分では義勇を支えられないから。だからは、元気よく頷いた炭治郎に目を細めて微笑んだのだった。
「義勇さん、この度は……」
「炭治郎か」
葬儀のために来た炭治郎に、義勇は淡々とした声で返事をして振り向いた。その目の下の濃い隈も、充血した目も、義勇の動きを鈍らせてはいない。それだけに、痛々しかった。
「禰豆子も、もうすぐ来ます……みんなも」
「ああ」
も喜ぶ、と義勇は頷いた。顔を見ていくかと訊かれて、炭治郎は首肯する。
「――眠っている、みたいですね」
棺に横たえられたの亡骸を見下ろして、炭治郎はぐっと唇を噛み締めた。悲しいほどに、穏やかな死に顔。は、「追いつかれた」のではなく行くべき場所へ行けたのだろう。血や生々しい傷のない遺体は、久々に見た気がする。生前失くした左腕は、何か詰め物がされているらしく袖がぺたんと潰れてはいなかった。
「義勇さん……」
「……大丈夫だ」
「え?」
「俺は大丈夫だ」
憔悴する義勇にどう言葉をかけたものか悩みつつ見上げると、義勇は静かにそう言った。単なる強がりとも思えない、けれど悲しい決意に満ちた言葉。案ずる炭治郎の目を見返して、義勇は淡々と告げた。
「が、大丈夫でいろと言った」
「……それは、」
「俺を案じてのことだ、わかっている」
だが、と義勇は俯く。何か言いかけた義勇は、ふと思い直したように首を振った。悲しみに疲れている自覚があるのだろう。再び口を開いた義勇の言葉は先に言いかけたそれではないと、炭治郎は気付いたが追及はしなかった。
「お前は……狭霧山で錆兎たちに会ったんだったな」
「はい」
「狭霧山で、に会えると思うか」
「いいえ、会えないと思います」
「そうだな」
「さんは……きっと義勇さんの傍にいますから」
「……そうか」
帰る場所は俺か、と義勇は呟く。そうです、と炭治郎は頷いた。大好きな人の元に魂が帰るのなら、の居場所はずっと義勇の隣だろう。の死生観は死ねば失せる獣のそれであったけれど、は義勇のために人であろうとしたから、きっと。
――義勇さまのこと、よろしくお願いしますね。
は、こんな日が来ることをわかっていたのだろうか。義勇を置いて行ってしまう日が来ることを、知っていたのだろうか。ふたりが並んでいるところを見ると、炭治郎の心もほわっと暖かいものに包まれた。けれどもう、炭治郎がそれを見ることはない。もう誰も、あの優しくて少し寂しいふたりの並ぶ姿を目にすることはないのだ。つんとしたものが鼻にこみ上げてきて、うまく匂いを判別できない。それでも義勇が悲しみの奥に痛いほどの切なさと愛しさを抱えていることを知ってしまって、炭治郎は初めて自分の鼻の良さを恨んだのだった。
190519