義勇の住んでいる屋敷へと訪れた炭治郎は、気配のなさに眉を下げた。どうにも義勇は留守だったらしい。庭で咲き誇る藤の花は美しく、炭治郎はの忘れ形見を眺めながらどうすべきかと頭を悩ませた。特段急ぎの用でもないが、一応義勇への手紙を預かっているのだ。とはいえ行き先に心当たりもなく、少し待たせてもらおうかと門扉に背を預ける。が植え育て、そして遺した藤の花は義勇が世話を続けていた。年々数が増え大きくなったその藤は、今は近所でも評判になるほどだ。義勇の端正な顔立ちと藤の屋敷をかけて、今や義勇が「藤の君」とあだ名されている。かつてが鬼殺隊の面々に向けられていた呼称を耳にしたとき、義勇は何とも言い難い表情で目を細めていた。あの時は藤の匂いで、義勇の感情は炭治郎にも嗅ぎ取れなかったけれど。そこに去来した感情はきっと、炭治郎には本当の意味ではわからないものだったのだろう。
――藤の花が咲くころに、
ふと、ぱちんと脳裏で記憶が弾ける。かつて藤の君と呼ばれていたと交わした会話が、脳裏で響いた。
『毎年藤の花が咲くころに、義勇さまは一日留守になさるんです』
『義勇さん、どこに行ってるんですか?』
『行き先は聞いていないのですが……たぶん、お墓参りだと思います』
が倒れる、少し前の話だ。炭治郎を迎えたは、おそらく墓参りだと言って義勇の不在と行き先を知らないことを詫びた。その日炭治郎は、どうしても日のあるうちに帰らなくてはならなくて。出直そうにも、しばらくは別の用があって来れそうになかった。困り果てた炭治郎の様子にはしばし思案して、そしておずおずとある地名を炭治郎に告げたのだった。
『……お墓参りの日に、義勇さまをそのあたりで見たという話を聞いたことがあって……もしかしたら、付近のお墓にいらっしゃるかもしれません』
墓参りについて行ったことはないのかと問うと、はいつもの困ったような顔で頷いた。きっとひとりで行きたい場所なのだろうと思ったから、義勇に何も尋ねずにいたらしい。だからあまり他言はしないでほしいと頭を下げるに、炭治郎は真剣な面持ちで頷いたのだ。
(今日が墓参りの日なのかもしれない)
あの日、に聞いた地名を頼りにいくつかの墓地を回った炭治郎は、ちょうど墓所から出てくる義勇と鉢合わせて。心底驚いたような顔をした義勇を前に、炭治郎はとても申し訳ない気持ちに駆られたのだ。青ざめてすら見える顔で、誰に聞いたと問う義勇にだと答えると義勇は少し俯いて。けれど義勇の感情の匂いは、失望でも怒りでもなかった。もはっきりとは知らないようだったと言葉を重ねると、少しだけ安堵にも似た匂いがして。けれど義勇は、それ以上は何も問わず。炭治郎もまた、誰の墓参りかと問うことはなく。気まずい雰囲気のまま、鱗滝に頼まれていたものを渡し言伝を伝えてその場で別れた。あの日帰った義勇とがどんな話をしたのか、炭治郎は知らない。けれどはあの後も、義勇の詣でる墓を知らずにいたのだろう。きっとそうだという確信が、どうしてか炭治郎にはあった。
(義勇さんは、怒るだろうか)
心配の気持ちも、炭治郎にはあった。を亡くしたあとの義勇は、どこか虚ろな様子で。咲き誇る藤の花は美しいけれど、を想起させるそれは義勇にとってはつらいものでもあるはずだ。元々義勇は、他人に心情を吐露しない。失くしたものが多すぎる義勇が、藤の花や墓参りをきっかけにまた立ち止まってしまわないか心配で。に義勇を託されていたこともあり、炭治郎は申し訳なさを抱えつつもあの日義勇と会った墓地へと足を向けて。果たしてそこに、義勇の姿はあった。
「……炭治郎か」
「すみません、義勇さん……」
綺麗に掃除された墓石の前に、義勇は佇んでいた。炭治郎を見て僅かに驚きを浮かべたものの、あの日ほどのものではない。炭治郎の謝罪に「いや、いい」と淡々と首を振った義勇は、炭治郎の用を問う。手紙を懐から出した炭治郎からそれを受け取ると、義勇は蝋燭の火を消して手桶を持った。良くないことだとはわかっていたが、炭治郎は墓に刻まれた名を目で追ってしまう。いくつか並んだ名前の最後に「」という文字を見つけて、炭治郎は目を見開いた。
「さん……?」
「…………」
思わず口にしてしまった炭治郎に、義勇は何も言わない。「藤の君」と呼ばれたときと同じ感情の匂いが、義勇からはした。
「……ここは、さんのお墓なんですか?」
冨岡の葬られている墓は、ここではないはずだ。炭治郎は、の葬式にも納骨の場にもいた。けれど、同じ名前の他人の墓とも思えない。は天涯孤独の身の上であったはずでは、と困惑のままに義勇を見上げた。
「の墓だ。 ……ここに、の骨は無いが」
とは、誰なのだろう。は、鱗滝に拾われる前のことを終ぞ思い出さないまま逝った。けれど義勇は、の過去を知っていたのだろうか。知っていて、ずっとには黙ったままの墓参りを続けていたのだろうか。理解の追いつかないまま、炭治郎は義勇の後をついて墓地を出る。蕎麦を食べて帰るかと提案する義勇に、他人事のように頷いていた。
「……俺は、」
の生い立ちを、知っていたのだと義勇は口にした。懺悔のように、ぽつりぽつりと義勇は語る。炭治郎があの日墓地に現れてから、いつか炭治郎があの墓の名前を目にする日が来るだろうとは思っていたらしい。どうしてにも話さなかったそれを炭治郎に話す気になったのだろうかと思ったのを見透かしたかのように、義勇は自分の頬を指した。
「もう、数年もない。俺が死んだ後、を弔ってやってほしい」
の遺骨の一部は、の頼みで墓に納めず仏壇に安置しているのだそうだ。それを義勇の死後、あのの墓に納めてほしいのだと炭治郎の兄弟子は頭を下げた。慌てたのは炭治郎で、引き受けるから頭を上げてほしいと義勇の肩を掴む。頼むからには事情を説明しなければならないだろうと、義勇は何年も閉ざしていた口を開いたらしかった。
「俺は、の父親を斬っている」
鴉に先導され駆け付けた場所では、鬼と化したの父親が家族を食い殺していた。義勇が鬼を斬ったときにはもう、息をしているのはだけで。そのも、命には関わらないものの大きな怪我をしていた。急な鬼の出現だったために、隠の到着は遅れていて。けれど、既に近くの場所で別の鬼の出現があった。義勇が、一番早く駆け付けられる。事態の収拾を隠に任せた義勇は、隠を待つことなく次の場所へと向かった。それからも、立て続けに任務に向かって。それきり、父親に食われかけた幼子のことは記憶の彼方に沈んでいった。
「先生から話を聞いて……を探しに行ったとき、すぐにあの時の子どもだと気付いた」
容姿こそ変化があったものの、生死を確かめるために抱き上げて脈を確かめた子どもの顔は覚えていた。その時は、鬼に家族を殺されたから鬼殺の道を志したと思ったのだ。鬼殺隊のほとんどの人間がそうであるように、もそうなのだと。けれど、鱗滝から聞いた話を思い出して動けなくなった。は死にかけた状態で鱗滝に拾われて、記憶も言葉も失っていて。虐待されていた痕跡もあったらしい。隠に保護されて鬼殺の道を志したのなら、そうはなるまい。自分のように、遠くの親戚にやられそうになったところを逃げ出したのだろうか。当時の隠に話を聞いた義勇は、「あの家にはそんな子どもはいなかった」という答えを聞いて愕然としたのだ。の家のあった街へと向かい、墓を見つけて呆然として。けれど「」が生きていることを、義勇は知っていた。話を聞いて回ると、一家惨殺があった夜に人買いの男が子どもを連れているのを見たという老人に会って。人買いの男に、そしてその男からよく安値の「わけあり品」を買っていたという地主に行き着いた。その農地から狭霧山は子どもの足で行けない距離でもなかったが、虐げられて痩せ細った子どもが簡単に辿り着けるような距離でもない。まさに死に物狂いで駆けたであろうのことを思うと、背筋がぞっとした。
「さんに……話さなかったんですか?」
「……話せなかった。どうしたらいいのか、わからなかった」
あの時は、恐慌の中にいた。義勇は、に家族を返すことができない。の帰る場所は、どこにもない。記憶よりも過去よりも、鬼を斬る刹那に安息を求めるから、本当の意味で刀を取り上げることができなかった。義勇のせいなのだ。義勇があの日を見捨てたせいで、は鬼を殺すことにしか安息を得られない生き物になった。その義勇が、に何を言えただろう。もう帰る場所がないという現実を突きつけて、何になっただろう。義勇に安心を見出してしまった少女に「全部俺のせいだ」と事実を伝えて突き放すより、義勇ひとりが苦しみ抜いての安心を守ることの方が償いだと思っていた。に愛されることも苦しかった。それが罰なのだと信じて、に泣かれた。
「……どうすれば正しかったのか、今でもわからない。間違った分だけ、生かされる……また、置いて行かれた」
最初は姉に。次は友に。最後は伴侶に。生きるべき人が死に、義勇は生かされる。少なくとも義勇は、そう思っている。大切な人が生きる代わりに死んでしまいたい気持ちは、炭治郎にも痛いほど覚えがあった。義勇はどれほど、苦しんできたのだろう。義勇がに話さなかった理由は、自己保身のためなどではない。の幸せを壊したくなくて、義勇は何も言えなかったのだ。への愛と、自責と、義勇だけが知っていた真実。その葛藤にこの人は狂うほど苦しんだはずだった。少なくとも、炭治郎の知るは一片の欠けもなく幸せだった。胸いっぱいの幸せを抱いて、穏やかに眠るような顔で逝った。の安らかな死に顔を知っていて、話していた方が良かったとは炭治郎には思えなかった。きっとは、本当のことを知ったとて義勇を責めることも恨むこともないだろう。だからこそ、義勇が苦しむとわかってしまうのだろう。義勇がの幸せを守ろうとしていることを誰よりもわかっていたから、は義勇のその気持ちを守ろうとしていた。義勇の行き先を知ろうと思えば知れたはずなのに知らないでいることを選んだを思えばこそ、炭治郎などにその正誤は判じえなかった。
「……は、記憶が戻らなくても構わないとは言っていたが、」
きゅっと拳を握り締めて、義勇はぽつりと零した。
「それでも、には家族がいた……あの家にもきっと、を帰すべきだ」
心は、義勇が連れて行ってしまうから。は「ずっとここにいる」。そして義勇も、を手放す気はない。どんなに罪深いことだとしても、死すらふたりを分かたなかった。と交わした約束は、互いに破ってしまうことになる。きっと義勇が死んだとき、は泣きながら怒るのだろう。義勇がを突き放そうとしたときや、自分の幸せを望まなかったときのように。今度はお互い様だと、言い訳のように思う。
「きっと俺が先に死ぬと思っていた」
義勇の言葉に、炭治郎は俯く。あんなに死を恐れながらも時折自分の死を予感したようなことを言っていたのことは、義勇には言えなかった。今それを義勇に告げたところで、何の慰めにもならないだろう。誰も彼もが、大切な人に言えない何かを抱えて生きている。笑顔でいてほしいからこそ、言えないことが増えていく。桜の下に死体が眠るというのなら、藤の下にはきっと秘密が眠るのだろう。ひらりと翻った藤色の羽織の影で、が小さく笑った気がした。
190923