――腕を、
 失くしたのかと、義勇は問うた。中身を失くした袖に触れて、の代わりに泣いてくれた。優しい、人だ。義勇の右腕も、失くなってしまったのに。それなのに、が失くした左腕を惜しんで泣いてくれる。本当に、優しい人だった。
「……はい、失くしてしまいました」
 の袖を握り、俯いて涙を落とす義勇を抱き寄せる。義勇の優しさは、いつだって自分自身のことを勘定に入れていない。はいつもそれが不満で、けれどそんな義勇がどうしようもなく愛おしかった。
「それでも、生きています」
「……ああ」
「帰りましょう、義勇さま。一緒に」
 家に帰ろう。ふたりの家に、一緒に帰ろう。まだ、つなぐ手は残っているから。羽織も、簪も、壊して失くしてしまった。それを謝れば、義勇は「そんなこと」と俯いたまま首を横に振る。
「お前が、生きているのなら……そんなことは、どうだっていいんだ」
 哀しくて、寂しい帰路だった。それでも、互いが生きていることに確かな喜びを見出してしまう。あなたが死ななくてよかった。あまりにも多くの命が失われた戦いでそんなことを思ってしまう、何と罪深いことだろう。ごめんなさい。わたしが生きていてごめんなさい。それでも、生きていく。繋がれた命を、最後まで。残された生を全うするための、家路だった。

 夢を見たのだと、義勇は言った。上弦の鬼との死闘の末に気を失い、夢を見たと。まだ小さい藤の苗をふたりで植え替えながら、義勇はぽつぽつと語った。
「この藤が、視界を遮るほどの大きさになっていて……お前が、その向こうに行ってしまうところだった」
「藤の、向こうに」
 おうむ返しに呟いたに、義勇は頷く。あまりにも美しい藤の向こうに消えようとするの姿に、ぞっと背筋が冷えて。思わずの腕を掴んで引き摺り戻したところで、目が覚めた。
「……実弥様が、おっしゃっていました。息を吹き返したのが、奇跡のようなものだって」
 実弥がを引き上げてくれたとき、出血と低体温では死にかけていた。もう助からないと、実弥はを看取る覚悟を決めたらしい。けれど、急にの心臓が大きな脈を打って。そこからどんどん体温が戻っていったのだと、本当に呆れた生命力だと、そう実弥は教えてくれた。
「義勇さまの腕……私が、奪ってしまったのかもしれません……」
「……馬鹿なことを言うな」
 彼岸へ行くはずだったの腕を掴んだから、その代償に義勇の腕は落ちてしまったのではないかと。しゅんと肩を落とすの言葉を、義勇は一蹴する。もしそうだったとしても、との頬についた土を指先で払った。
「お前を死なせないためなら、腕だろうと足だろうと惜しくはない」
「義勇さま……」
 生きていてくれるのなら、それでいい。ただ生きていられることがどんなに贅沢で幸福なことか、義勇は知っている。義勇はきっと、何度でも躊躇わずに手を伸ばすだろう。それでの命が、繋げるのなら。
「ありがとう」
「……?」
「帰ってきてくれて、ありがとう。
 どうしても、伝えておきたかった言葉。が義勇の元へ帰ってきてくれたことは、どんな奇跡にも替えがたいことだと。がひっそりと庭で焼いていた遺書の灰を見たとき、改めてそう思ったのだ。頬に伸ばされた義勇の手を取って、は「義勇さまも」と目を細めた。
「義勇さまも、ありがとうございます……迎えに、来てくれて」
 どんなに時間がかかっても、戦いに疲れ果てて満身創痍でも。それでも、義勇はいつかはを迎えに来てくれる。見つけてくれる。あの日、恐怖に溺れていたの手を引いてくれたように。義勇はいつだって、の安心でいてくれた。も、何か返したい。報いたい。もうきっとひと夏も超えられないであろう、命でも。
「義勇さまに、何か差し上げたいんです」
「俺に……?」
「あたたかい、場所……義勇さまが、わたしにくれました」
 言えない。結局は、近いうちに義勇を置いていってしまうことを。生きていてくれればそれでいいと、ただそれだけの願いも叶えてあげられない。だから、せめて何か他に叶えられることがあれば。優しくて愛しい人を、守ってくれる暖かさを。
「……それなら、」
 目を伏せて、義勇はぽつりと呟いた。手桶の水で土を洗い落とした義勇は、の手も取って同じように洗う。何とか片手でも扱いに慣れてきた手ぬぐいで互いの手を拭うと、その手を重ねて義勇はに向き直った。
「冨岡に、なってくれないか」
「……っ!」
 あの戦いの前から、先延ばしにされていた約束。もう二人は鬼殺の剣士ではなく、ただの義勇ととしてここにいる。もう、を追う「こわいもの」はどこにもいない。だから、今度こそ。の息を止める恐怖は、もうどこにも無いから。
「……っ、う、」
 ぽろりと、の眦から涙がこぼれ落ちた。ぽろぽろと、大きな涙の粒が幾つも流れ落ちていく。義勇の手を強くぎゅっと握り返して、はこくこくと頷いた。しゃくりあげながら、嗚咽を漏らしながら、一生懸命言葉を絞り出そうとしていた。
「……嬉し泣きなんだろう?」
「は、はいっ……、 」
 義勇と、家族になれるのが嬉しくて。義勇のになれるのが、嬉しくて。胸がいっぱいになるほどの幸せに、どうしてか涙が溢れて止まらない。もっと上手に、言葉を返したいのに。心底慕わしいと、愛していると、本当に本当に幸せだと、そう伝えて義勇を抱き締めたいのに。家族にしてくれてありがとうと、その言葉の代わりにこぼれ落ちていく涙を義勇は優しく掬ってくれた。
「泣き止んだら、笑ってくれ」
「っ、はい、」
「返事は……それで充分だ」
 自分が、義勇の幸せになれることが嬉しくて。義勇の心配をわかっていても応えられなかったひどい自分を、まだ求めてくれることが嬉しくて。やっぱりは、義勇に与えられてばかりだ。いつになったら、返せるだろう。この命が尽きるまでに、一葉でも幸せに報いたい。どうしたらいいのか考えても考えてもわからないから、ただ精一杯に愛に泣いた。

「もう片方の腕を、失くしてもよかったんだ」
 の墓を前に、ぽつりと呟く。それでの命が繋げるなら、残った腕も捧げたって構わなかった。死にゆくの手をどんなに強く握り締めても、二度目の奇跡は起こらなかったけれど。が聞いていたら怒られそうだと思うものの、怒られてもいいからまたの声が聞きたい。藤の花を見るたびに、あの美しく恐ろしい夢を思い出した。
「……来年は、来られないかもしれない」
 の好きなものは知らないが、何となくおはぎを供え続けてしまっている。はずっと義勇に幸せを返したいと、恩に報いたいと思い続けていたようだが。義勇がに返せなかった人生を思えば、そんな必要はなかった。むしろ、義勇はに少しでも償えたのだろうか。ただの義勇として生きるときが来たら、成すべきことを成した後に自分の命が残っていたら。その時は、に全てを捧げて贖いたいと。そう思っていたのに、は先に逝ってしまった。
「お前はきっと、また泣くんだろう」
 過去に何が埋もれていようが、義勇は奪っただとか償うだとか己を責めずとも良いのだと。義勇が幸せになってくれることがにとっても一番の幸せなのだと、泣いて義勇を叱るのだろう。柔らかく諭す姉とも、厳しく叱咤する友とも違う。けれど誰もが、義勇を真に案じてくれていた。
は、この墓には終ぞ訪れないままだった。炭治郎が初めてここへ来た日も、ただ勝手な憶測で行き先を伝えたと義勇に詫びて。自身が、義勇の墓参りについて来ることはなかった。誰の墓参りに行っているのかと尋ねることもなく、温かい夕飯を作って迎えてくれた。一度だけ、「気にならないのか」と尋ねてしまったことはある。その問いには、小さく笑って言った。
 ――帰ってきてくれるのなら、それだけでいいんです。
 どこに行っても、ふたりの家に帰ってきてくれるから大丈夫だと。そう言って、はそれ以上問わなかった。きっとには、過去や秘密を暴くことよりも今を幸せに過ごす方が大切だったのだろう。思えばはいつだってそうだった。振り向いて立ち止まっている時間などないから、盲目的なまでにまっすぐ走り続けて。は最後まで、そうだった。自らの生を、全うして眠りについた。これで良かったのだと、思ってもいいのだろうか。
「――……何だァ、この墓はよォ」
「不死川……?」
 じゃり、と踏み鳴らされた石の音。予想外の人物の来訪に、義勇は驚いて顔を上げた。鋭い眼光で義勇を睨む男は、ここを知るはずもない。それでも確かに目の前の人間は、不死川実弥で。じっと墓石を見つめて険しい顔をする実弥に、義勇はぱちりと目を瞬いたのだった。
 
200130
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