――わたしは「きたない」ものを知っている……と、思う。
だって私は、きれいなものを知っている。義勇さまの心が、魂が、高潔なものであると知っている。心から、あのひとをきれいだと思う。美しいと思う。けれどそう思えることは既に、きたないものを知っていることの反証に思えてならないのだ。記憶にはない部分。深い水の底は決して綺麗な白砂ではないと、思う。そこにあるのが汚らしい
泥濘だからこそ、わたしは義勇さまがきれいだと思えるのではないかと。そう、思っているのはどうやら、私だけではないようで。
「閉ざした蓋の下には、腐った汚物が埋もれているのやもしれんぞ」
腹の立つことに、まったくの同意見だった。わたしは伊黒様が嫌いだ。あちらも私を嫌っている。それでも、互いに対する嗅覚は妙に的確で。それはつまるところ、同族嫌悪というものなのだろう。
「貴様は悪党ですらない。薄汚れた、死に損ないの臭いがする」
伊黒様からは、ドブの底を這いずり回った者特有の「におい」がする。見捨てた。自分のせいで人が死んだ。それでも生き延びたかった。そういう人間の、そういう生き物の、においだ。強い後悔と、慚愧と、惨めさと。死にたくなくて駆けた足の裏にこびりつく、誰かの死臭。誰かの屍を踏みつけて、逃げてきた。そうしなければ、死んでいた。そうしてまで生き延びて、何がしたかったのだろう。それでも、生きている。
「恥知らずな女だ。記憶が無ければ、こうも厚顔になれるものか」
「……生きていることだけは、みんな『おなじ』です」
「同じなものか。今こうして、息をしていることすら罪だ」
この人は、他人にねちねちと粘着しているようでいて。その実、自分自身に最も嫌悪の感情を向けている。本当はきっと、優しい人なのかもしれない。私にもいろいろと棘のある言葉を投げつけるけれど、義勇さまを待っている間私を追い出しはしない。不味いと言いながらも、本当に不味い(悪意でそうしているわけではないけれど)お茶を飲んでくれる。それでもやっぱり、私はこの人が嫌いだ。
「覚えていなければ、資格もないのに愛だの恋だのと言えるのか。まったく羨ましいことだ」
「覚えていても、きっと変わりません」
男の人というものは、皆こうなのだろうか。義勇さまも、資格がない、と言って幸福を拒む人だ。生きて、誰かを好きになって、その人と幸せになる。たったそれだけのことに、資格など要るのだろうか。誰かに許してもらわなければ、己の心さえ認められないものだろうか。義勇さまは、私に罪を犯したように償いたがる。伊黒様は、私が義勇さまを愛することを軽蔑している。愛する資格など、いったい誰が与えてくれるのだろう。ただ私は、義勇さまが慕わしいのに。
「大切なひとが、手の届く距離にいて……大切なひとも、自分を好きでいてくれて……それなのに、好きなのに、資格が無いなんて、そう言って手も伸ばさないなんて……残酷だと、思います」
「……残酷だと」
「残酷です、とても。私はとても、痛かった」
義勇さまは、手を伸ばすことも、伸ばされることも、拒もうとしていた。私は義勇さまのことが好きで、とても好きで、そして義勇さまも、私を好きでいてくれて。それでも資格が無いと、私に見放されるべきだなんて、とてもひどいことをおっしゃった。ひどいことだ。それはとても、ひどいこと。手を伸ばすことを、許してくれない。通じ合っているのに受け入れられない想いが胸を灼く痛みは、どんなに泣いたって治まるはずがないのだ。ずっとずっと、愛しさと哀しさは炎であり続ける。握り合った手を通して温もりになるはずのそれは、どこにも行けずに胸を灼く。嫌われているのなら、関心を抱かれていないのなら、いずれ柔らかい灰になる。許してくれないのに優しさだけ与え続けるから、苦しい火は燃え続けるのだ。それがむごさでなくて何なのだろうと、私は思う。
「蜜璃様を悲しませて、痛がらせて、」
そこまでして資格にこだわる意味は、あるのだろうか。大切なひとの気持ちを大切にしないことの、何が必要だというのか。私は、義勇さまに拒絶されたくない。義勇さまを、拒絶したくない。自惚れでもいい、それはお互いの不幸でしかないのに。
「……貴様は存外楽観主義らしい」
伊黒様は、少しだけ痛そうな顔をした。私の言葉が刺さったというよりも、蜜璃様の悲しむ顔を思い浮かべてしまったのだろう。
「幸せになるべきではない人間は、『いる』」
それでも、伊黒様は頑なだった。許されるべきではないと、償わなくては許されないと、固く拳を握り締めた。幸せにすべき人を不幸にして償うべきこととは、何なのだろう。私たちのような生き物が生きていることは、そんなにも罪なのだろうか。ふと、鼻の奥に蘇る臭いがあった。血と、土と、饐えた死の臭い。私たちはきっと、そういうところから偶然逃げ延びた。そうして、生きている。誰かの死の隣に、たまたま生きている。
「貴様もいつか、思い出せば後悔する。その時になって、苦しむのは貴様だ」
知らないから言えるだけだと、義勇さまも言っていた。愛するということそのものが罪ある身には苦痛なのだと、伊黒様はいっそ同情にも似た目を私に向ける。冬になれば散る花を知らず愛でている子どもを、憐れむように。思い出せば私も、義勇さまを愛することそのものを罪に思うようになるのだろうか。そう思わなければ、ならないのだろうか。
「伊黒様の償いは、いつ終わるのですか」
「……成すべきことを成して、生まれ変われたら」
この身はもう愛しい人と釣り合わないのだと、だから罪無き身に生まれ変われたのならようやくそれで資格ができると。でもそれはやっぱり、ひどいことだ。顔に出ていたのだろう、「貴様に理解できるはずもない」と伊黒様は顔を歪めた。
「どうせ貴様は、来世などアテにならないと思っているのだろう」
「はい」
「あるかもわからない来世より、今生きている中で愛する人を愛せと思っているのだろう」
「はい」
「それを体現している貴様が、心底恨めしい」
羨ましい、ではなく恨めしい、と。そう言って伊黒様はお茶を啜る。伊黒様にとって私と義勇さまの関係は、あってはならないものだ。いてはならない、幸せになった罪人だ。だって私たちのようなものがいることそれ自体が、伊黒様の決意を貶めている。だから伊黒様は私と義勇さまのことが、嫌いで。
「私もあなたが、どうにも嫌いです」
「よくもまあ吠える仔犬だ」
私の言葉に、伊黒様は目を細めた。そのお顔は少しだけ笑っているように見えたけれど、きっと勘違いなのだろう。私たちは、これからも相容れない。似ているからこそ疎ましいと、互いに思いながら。嫌い合いながら、時々互いの存在を思い出すのだろう。
200115