――ここは、綺麗なところだ。
 窓の外をふわふわと漂う海月たちと戯れながら、は目を伏せた。醜い人間の魂の成れの果てだという海月たちと戯れていると、騎士の錆兎はあまりいい顔をしない。そんなものに姿を見せてやる必要はないと、海月を追い払ってを叱る。
「公子の妻でいらっしゃる、御身を弁えてくださらないか」
 今日も新奥様が錆兎様に叱られていらっしゃるわ、と侍女たちは波のせせらぎのように涼やかに笑う。そこに悪意はひとかけらも無く、錆兎とて本心からを案じての叱責だ。醜い魂などに関わる必要はないと、それは親に捨てられたを案じてのことでもあるのだ。
は、実の親に捨てられた。海の幸だとか金銀財宝だとかを目当てに、海神の公子へと人柱に捧げられたのだ。それに困惑したのは生贄を捧げられた当人であるところの義勇で、人柱など必要はなくとも押し付けられてしまったものは仕方ない。憐れな人の子だとの身を引き取り、娶ってくれた。半ば押し売りのようなものとはいえ取引は取引だからと、の父親に望むままの財貨を与えてやったのだそうだ。舵も櫓もない舟に乗せられて沖に流されたは、優しい波に攫われて義勇のいるこの海底の宮へと迎えられた。青と白の波濤に呑まれたと思ったそのときに、死さえ覚悟したはずのに。冷たいはずの波は、ただただ優しくて。暗いだけの海に沈んだはずの身は、蓮華燈籠の柔らかな灯りに照らされた。薄紅と真白の花と、青々とした葉が放つ淡い光。幻想的な灯りと共にゆっくりと落ちていった先では、真菰と名乗る少女がふわふわとした笑みを浮かべてを迎えてくれた。公子の侍女だという彼女は、新奥様とを呼んで。雪のように白い竜馬にを乗せて、公子の元まで案内してくれた。
 ――……好きに暮らせ。
 公子である義勇はそれだけ言ったきり、に関わろうとはしなかった。押し付けられた生贄など、妻として迎えても扱いに困るのだろう。受け入れてくれたことそれ自体が、には過ぎた僥倖だ。もっぱら義勇は騎士たちと共に己の武を磨くことにしか興味が無いようだったし、公子本人よりも彼の姉である乙姫の蔦子がに構ってくれた。妹も欲しかったから嬉しいと、畏れ多い言葉をかけてくれて何かと気遣ってくれる。真菰を始めとする侍女たちも、楽や舞を披露してくれたり双六などを持ち出したりして遊び相手になってくれた。教養もない田舎娘であるに学や作法を教えてくれるのは沖の僧都である鱗滝で、 彼に学んで知識や振る舞いを身につけていくを侍女たちは「新奥様は幼子の育つようにすくすくとお育ちになる」と褒めてくれる。賎しい生まれの自分がまるで貴人のように扱われるのはとても居心地が悪くて、けれど海の底の人々は本当に優しくて心が綺麗で。を迎えてくれた義勇も、受け入れてくれた皆のことも好きだったから、せめてしてもらったことには応えたいと毎日を過ごしていた。
海の底は、本当に綺麗だ。瑠璃色の空に、絹糸のような雲。それらは水面と波だと真菰は教えてくれたけれど、本物の空と雲にも劣らない。玉や珊瑚で彩られた宮も確かに豪奢で美しかったけれど、清涼な気に満たされたこの海そのものが美しかった。泣き崩れながらも、与えられた財宝を手放すことなくを舟に乗せた父親。憎しみや怒りは無いけれど、ここの美しさを思えばこそただただ悲しかった。この宮にいる人々の心の美しさと寛容さは、満たされている者特有のものなのかもしれない。父親のさもしさは、貧しさ故のものかもしれない。それでもただ、棄てられたという事実だけは悲しかった。だから、は錆兎に叱られても寄ってくる海月たちを邪険に扱えないのかもしれない。自分はたまたま義勇たちの寛容に救われただけで、あの海月たちと変わらない魂のはずだ。ひとの容を保ったままここにいられるということは、あの海月たちとは違う証左だと錆兎たちは言ったけれど。は未だ、浅ましい願いを捨てきれずにいる。あの日を見送った父親の涙が、本物であったことを確かめたいと。そんなくだらない願いを捨てきれずにいる自分は、父親同様愚かでさもしい人間なのだろう。
「――……っ!」
 ヒュッと、目の前で奔った剣閃。息を呑んだの視界の端で、赤い色が舞った。蒼く輝く鋼に斬り捨てられた和邇は、この海底で言うところの外敵だった。騎士たちはほとんど、和邇たちからこの宮を守るために存在している。たった今、和邇の接近にも気付かずぼうっと歩いていたを背に守ってくれた義勇も。公子ながらこの宮を守るために先頭で戦う騎士だった。
「……出歩くのなら、誰かを連れていけ」
「も、申し訳ありません……」
 刀を鞘に収めて、義勇が振り返る。慌てて頭を下げたを一瞥して怪我がないことを確認した義勇は、その頬についてしまった一滴の血痕に眉を顰めた。存外躊躇いない動きでの頬に手を伸ばすと、親指の腹でぐいっと頬を拭う。「お前は綺麗だから」と、の頬に手を当てたまま義勇は口を開いた。
「……お前は綺麗だから、和邇が寄る。気を付けろ」
「綺麗……?」
 淡々と、単なる事実のように義勇は言う。口説くでもなく、「妻」に対する社交辞令でもなく。自分に向けられるには馴染まない形容詞にが首を傾げると、「自覚が無いのか」と義勇は目を細めた。
「この海の底で、人の容を保っていられるのも。お前に海月や和邇が寄るのも。 ……魂が、美しいからだ」
 海月となった魂はその澄んだ色に縋り、和邇は美しいものを喰らいたがる。だから気を付けろと。自覚を持てと。それだけ言うと、義勇は騎士を呼んでを送らせようとする。義勇の言葉にぽかんとしていたは、おずおずと義勇を見上げて言った。
「その……公子さまの方が、お綺麗です。ずっと」
 魂の美しさというものは、にはよくわからないけれど。義勇がその手に持つ刀のように、義勇の瞳に映る色は強く美しいとは思う。ぼうっと淡く蒼い光を帯びた、強い鋼の美しさ。自覚もできない自分の魂などより、ずっとずっと綺麗に見えた。騎士を呼ぼうとしていた義勇は、の言葉に動きを止める。あまり動かない義勇の表情は読み取りにくいが、には義勇が戸惑っているように思えた。
「……お前は、俺のことを疎んでいるのではないのか」
「疎む……? どうして、ですか?」
 思いもかけないことに、義勇はが彼を厭うていると思っていたらしい。疎むとしたらむしろ義勇がを、だと思っていたのに。そう思われるような無礼を何かしてしまっただろうかと慌てふためくを前に、義勇はますます困惑を深めたようだった。
「憎くは、ないのか。恨んでいないのか。人柱として俺に捧げられたことを、怒ってはいないのか」
「……父の、勝手を……哀れんでくださっただけです。公子さまは」
 押し付けられたのことなど、海に沈もうが和邇に喰われようが放っておくこともできたはずだ。父の勝手な願いだとて、応える義理はなかった。けれど義勇は父の望みに応えてくれたし、を妻として迎えてくれている。たった今も、和邇からを守ってくれた。義勇のしてくれたことをぽつぽつと指折り数えて感謝を捧げると、義勇は苦虫を噛み潰したような顔をする。
「人柱など必要ないと……お前を陸に帰してやることもできた。俺はそうしなかったのに、恨んでいないのか」
「……帰されていたらきっと、人買いに売られていたと思います」
 それもわかっていて、義勇はを引き取ってくれたのだろう。どの道親に捨てられるを哀れんで、せめて神の供物として受け取ってくれた。それをお門違いに恨むほど、傲慢にはなれない。さっきの頬の血を拭ってくれた優しい手にそっと自らの手を重ねると、痛みを堪えるように義勇は唇を噛んだ。
「……俺は、」
 の手を、握り返すのを躊躇うように義勇の指がぴくりと動く。言いかけた言葉を呑み込んで、代わりにそっと手を解かれる。「戻るぞ」と背を向けた義勇は、の数歩前を歩きながらぽつりと呟いた。
「公子と、呼ばなくていい」
「では、何とお呼びすれば……?」
「……名で呼べばいい」
「は、はい……義勇さま」
 先を行く背中に、そっと呼びかける。優しいこのひとの、名を。初めて口にしたその音に、どうしてか胸が温かくなる。そんなに、義勇は振り返らないまま告げた。
「……お前が良いのなら、」
「?」
「ここにいる気があるのなら、盃を交わす。夫婦の、契りだ」
 その気があるならで構わないと、義勇は言う。そういえば未だに正式な夫婦の契りは交わしていなかったと思い出して、の頬が朱に染まる。義勇はを厭うてはいないと、そう思ってもいいのだろうか。押し付けられた生贄だから形だけの妻に据えてくれていたと思っていたけれど、本当にを妻にしてくれて、いいのだろうか。に否やがあるはずもない。ただ、義勇が本意でないことを優しさから無理をしているのではないのかと。
「義勇さまが、お嫌で、ないのでしたら」
「……俺は、構わない。お前さえ、良いのなら」
 振り向いた義勇が、躊躇いがちにに手を差し出す。その手を取ると、義勇は安堵に目元を和らげたような、そんなふうに見えたのだった。
 
200211
BACK